富田直秀(Naohide TOMITA)     e-mail: tomita.naohide.5c kyoto-u.ac.jp  ←を半角に変えてください。


Dr.Tomita

プロフィール

富田直秀(Naohide TOMITA)材料工学出身。もと整形外科医。現在は医療工学、デザイン、再生医療、バイオメカニクス、バイオトライボロジーなどの研究をしています。

研究とは切り離しておりますが、学生の頃から少しずつ創りためている文章、絵、写真なども公開しています。興味のある方は右のMENUからお入りください。

E-Mail: tomita.naohide.5c@kyoto-u.ac.jp
(@を半角に変えて下さい。たくさんのメールをいただいており、お返事できない場合が多いと思います。申し訳ありません。)

2018年11月21日

中学生のコメント

中学1年生のコメントがすごい、、
科学・医療・アートをつなぐ「好き・SUKI」の力学
@京都府立福知山高等学校付属中学校

https://ocw.kyoto-u.ac.jp/ja/opencourse/235/

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2018年11月20日

秋山陽 展

 未だにショックから立ち上がれない、、
「秋山陽:−はじめに土ありき−」に展示されていた秋山先生の新作をみて、、いろいろな仕事に押しつぶされそうになっていた自分など吹き飛んでしまった。何億年か前に星間旅行をしたエンジン、を思わせるような、この物体。創るにしろ、運ぶにしろ、展示するにしろ、とてつもない「命令」が必要であったに違いないのだが、その「命令」が、まったく感じられない。その黒く赤茶けた肌が、無垢で無限の「発見」だけを主張している。こんな物体がここに存在できるのだろうか。時間が、私の想像できる範囲をはるかに超えてしまって、私は、未だ、ボーっとしたままだ。

 まずは、今日の夕方の委員会までに平常心に戻らなければ、、


2018年11月10日(土) – 11月25日(日)
京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA

http://gallery.kcua.ac.jp/exhibitions/20181110_id=12799#ja
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2018年09月18日

できる、と、できない


  
富田(町井) 直秀

  明後日は中学校での講義がある。今までのように、再生医療、人工臓器とかイキモノとは、といった内容で進めるのか、「私」の発見、という内容も含めるのか、この1カ月ほど、迷いに迷って、未だ迷いの中にある。ある出版社の方は、「私」の発見お話を、ぜひ童話にしましょう、と声をかけてくれている、、、しかし、、できないことをできるようにしようと苦しんでいる若い人たちに、「できる」と「できない」のどちらも、「私」の発見過程ですよ、と伝えることに意味はあるだろうか、、
  私が中学生だったころ、修学旅行でのお寺の講演で「過去や未来を考えずに(いま)に集中して生きなさい」と聞いたその何か月か後に、有名であるらしい教育評論家が「しっかりと将来に目標をもって生きなさい」と講演をした。それぞれに意味があっても、言葉にすると矛盾が生じるのだ。そもそも、こういった内容は、それこそ自分で「発見」するからこそ意味があるのであって、言葉で聞き知る内容ではないではないか。
 まだ迷っている、、 どなたかご意見をください。



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2018年09月10日

幻想と差別を生んでいるのは、われわれ学者だ(制御と学習)


幻想と差別を生んでいるのは、われわれ学者だ(制御と学習)
   
富田(町井) 直秀

  スポーツ、芸術、教育、そうしてすべての活動において、制御と学習とが混同されているように思う。たとえば、テニス選手が「ラインを狙ってボールを打つ」のは、「私」が身体を制御した結果のように解釈されている。けれども、地面から足、足関節、脚、、と多くの関節を経てラケット・ボールに至る力学構造はとても複雑で多くの誤差を含んでいる。さらに10m以上離れた地点のミリ単位の違いが見えているわけでもない。様々な気象条件下での無数の学習(練習)を繰り返すことによって、身体、ラケット、ボールを含めた無意識の関係性が形成され、その関係性の中に「私」が発見されるのが真実であろう。簡単に言うと心技体が一致しているのであって、難しく言うと、「私」(たとえば評価関数)が決定した後に生じる「制御」ではなく、「私」(たとえば価値関数)が原則的には後で生じる(または、他者が自己に同一化される)「学習」の過程が、まずその根本的な原理である。
  難しい話はどうでもいいが、現代社会や現代の教育現場が、「制御」に傾倒していて「学習」が軽視されていることは大問題だと思う。できない者ができる者よりも劣っているように解釈されるのは、制御の視点でとらえられているからであって、「私」の発見が本来のゴールである学習では、できないことと、失敗の繰り返しこそが自己同一の要点だ。制御と学習は、人間の言葉と技術が、まだそれをはっきりと区別するほどには発達していないのが現実だが、しかし、現場では言葉になりにくい様々な方法でそれが伝承されている。
  わかっていないことを分かったように言って、幻想と差別を生んでいるのは、われわれ学者だ。
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2018年06月20日

藝術学関連学会連合シンポジウム「消費社会における「役に立つ」」アート教育に学ぶ

先日.慶應大学にて行われました藝術学関連学会連合シンポジウムでの発表内容です



消費社会における「役に立つ」
--- アート教育に学ぶ ---

                   京都大学工学研究科教授 富田(町井)直秀 

  人類は欲望の充足ために生産技術を発達させてきたが,現在は技術が先行して欲望が作り出される消費社会となった.ヒトの存在性にかかわる事項さえもが定量化最適化され,交換価値として他人事のように扱われる現代では,「自分事」を徹底的に問い続けるアート視点の教育が,「役に立つ」ためのもっとも基本的な教養となりつつある.発表では,「1人になりたいけれど寂しい」「知りたいけど知りたくない」「安楽だと苦しくなる」「無視されるとつらい.同情されるともっとつらい」といった臨床現場で対峙する様々な矛盾と,時間的,空間的多様性が「正常」を持続させる概念などを紹介し,いわゆる「傾向と対策」のみでは対峙し得ないヒトの矛盾や多様性に,アート視点の教育がいかに「役に立つ」かを,音や具体事例として提示した.
  また,「生きることの迷惑を積極的に受け入れられる」ことを,医療の一つの目標と設定して,アーティストたちが自分たちのアート活動に伴う迷惑を積極的に受け入れられるために常識として行っている様々な作法:たとえば,異なる世界観の尊重、本当にやりたいことへの徹底性,みずからの「行為」よりも,おのずからの「しぐさ」を尊重する姿勢,など,,の,教養教育としての可能性を論じた.

参考動画:
(難聴者のための音楽)https://youtu.be/oYA8p0M0trY?t=3259
(病と雑音の香り1部)https://www.youtube.com/watch?v=m2rdNVVCRSA
(おもろトーク)http://ocw.kyoto-u.ac.jp/ja/opencourse/149/video04
(メンタルヘルス)https://www.youtube.com/watch?v=h5U7cT_vq1s
(デザインスクール)https://www.youtube.com/watch?v=_xxZWaoax2Q
(異分野交流会)https://www.youtube.com/watch?v=GbE5k6dRzQ0&t=3746s

ANSHINデザインコンセプトブック:http://anshin-design.net/link/index.html
著者ブログ:http://tomitaken.seesaa.net/

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2018年05月01日

絵の感想をありがとうございました

皆さま

 絵の感想をありがとうございました.
 私は(ご存じだったでしょうか?)一種の書痙と図形記憶の脆弱さがあって,小さなころから絵や文字が極度にへたくそな人間でした.今回は,その「描けない」ことによって,かえって世界観が凡庸にならずにすんだのかもしれません.ここから本当の自分の世界観に到達するまでが死に物狂いです.ちなみに,芸術活動は周囲に対して大大大迷惑ですが,今回の賞候補は,家内の口にテープを貼って (~_~) ⇨ ("x";) 私のわがまま環境を維持するのにとても重要な一歩でありました.

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2018年04月21日

入場券をお送りした方々への言い訳書です

言い訳書

  上野の森美術館大賞展の入場券をお送りします.「もくてきはない1 no purpose1」(作者名:町井直秀)を出品しておりますので,もしお時間があれば,併せてごらんください.その名のごとく,作品に目的はありませんが,以下,医療工学の開発研究を生業にしております私が出品していますことなどの言い訳をさせていただきます.

  まず,社会的視点から見た私(作品)についてお話しします.医療・福祉現場には,どうしようもない不自由な状況があります.もちろん,医療技術開発者として,また,もと臨床医としても,このどうしようもない状況に対して常に挑戦的であらねばならないのだと思います.しかし,日本画家の故小池一範先生と偶然にお会いしてから様々なアーティストの方々と交流するようになり,さらに家内の医療事故や,高校時代に私を支えてくれた友人の不幸などを経験して「役に立つ」ことを考えますと,医療と工学だけではなく,アートの概念が,本当に「役に立つ」ことためには必要不可欠であろう,と思うようになりました.これまでの人工関節や軟骨再生分野における治療開発は今まで以上に継続しますが,アート概念をこの分野に融合させる活動も精力的に行っていこうと考えています.昨年行いました「病と雑音の香り」企画から,難聴の方に音楽を味わっていただく動画を作成した例(京都大学 OCW),
https://youtu.be/oYA8p0M0trY?t=3259
をご覧ください.石上真由子さんの演奏(André Jolivetの曲)の音を消して、デザイナーの桑田知明さんの動画の絵を提示しています.演奏後に全盲の広瀬浩二郎先生(国立民族学博物館)が述べられた感想も併せてご鑑賞ください.目が見えない,耳が聞こえない,歩けない,記憶できない,,,などの機能障害の故に,かえって深まる世界観を表現することによって,客観的に見た機能障害の自分と,それぞれの世界観から見た自分との矛盾的な同一の動きを表現し,従来の「役に立つ」を "ANSHIN" という概念に拡張し,開発の一つの具体的な方向性として海外にも主張をしていきたいと考えております.

  次に,私の内面から見た世界観をご紹介します.
幼少時より極端に記憶力が劣っており,また,意志を持つとその意志に逆らう力が内から湧いてきてしまう人間である私は,目的を持たず,ただ目前の「できること」に集中することで,この歳まで何とか処世を続けてまいりました.「役に立つ」を研究の目標に掲げてからも,計画を持たず,目前の思い付きの実現にのみ集中してきたのだと思います.記憶によって支えられた確固たる自分を持たず,目前のヒトやモノやコトにすがって生きている私は,前述のように医療福祉現場や身近の「絶望」を経て,「祈る」ことの表現に至ったのだと思います.研究においては「機能」を,アートにおいては「かけがえのなさ」を漠然と念頭においておりますが,私の内面において両者に区別はなく,研究や開発においても,その目的性よりも,むしろ目的の無い「祈り」こそが, "ANSHIN" に至る現実的な方法論であると考えています.

  前述のごとく,今回の作品に意図・目的はありませんが,「できる」ではなく「できない」ことによる世界観の深まりを意識しております.

2018年4月


富田(町井) 直秀
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2018年04月19日

Music image for people with hearing loss 難聴の方に音楽を

病と雑音の香り 第2部をOCWに公開しました.
石上真由子さんの演奏(André Jolivetの曲)の音を消して、桑田知明さんの動画の絵を提示しています.演奏後の広瀬浩二郎先生(国立民族学博物館准教授)のご感想は,さらに私の世界観を広げてくれました.ほんとうにありがとうございます.

https://youtu.be/oYA8p0M0trY?t=3259

The violin performance (André Jolivet's music) by Mayuko ISHIGAMI and picture movie by Chiaki KUWATA are combined to make a music image for people with hearing loss. Comments of professor Kojiro HIROSE (National Museum of Ethnology) have deepened my feeling.
posted by トミタ ナオヒデ at 17:10| Comment(0) | プロフィール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月13日

It's ridiculous that religion causes conflict.

no purpose Naohide MACHII TOMITA small.jpg

宗教が紛争を引き起こすなんてばかげている。
各宗教の説教を調べて、祈りに目的がない,という記述を探し出そう.それはきっと存在するはずだ.もし,「祈り」と「願い」が同じであるのならば、宗教が在ることの意味は何なのでしょうか.

It's ridiculous that religion causes conflict.
Study the sermons of each religion and find out the statements that there is no purpose in prayer. It certainly should exist. If "prayer" and "wish" are the same, what is the meaning of religion?

                                     Naohide


posted by トミタ ナオヒデ at 14:07| Comment(0) | プロフィール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月06日

私のニセモノ性    富田(町井)直秀

私のニセモノ性

                            富田(町井) 直秀

上野の森美術館大賞展に「もくてきはない1 no purpose1」(作者名:町井直秀)が入選(賞候補)した.目的のないところにこそ,機能回復だけではない医療の本来の姿がある,という,この絵は私の医療工学の仕事のもう一つの表現でもある.医療現場で出会った多くの人たちは,実は技術に描かれた機能回復よりも目的をもたない純粋な祈りに救われている.医療を神秘主義に陥れようとしているのではない.安定化によって不安定となる逆説的な生体システムの中で,技術はその目的を一時的に達成するにすぎないが,目的のない祈りを内包した人と人,人と技術との関係性は自(おの)ずから多様性を生み,悪循環を徐々に脱していく力となる.医療や技術の本質を,雪深い森の,冷たい湖に根元まで浸かった樹木たちの像に託した.
では具体的に何をすればいいのですか?と学生たちに聞かれれば,私のニセモノ性はすぐにでもあらわとなるだろう.人工関節や軟骨再生の仕事のなかで,私は相変わらず機能を目的にしている.技術が人に対してできる行為は,結局のところ機能回復しかないのか,その不満を絵に発散しているだけなのか,,,.
3年前に出品した「メルトダウン melt down」は,裏から顔料を流したり焼いたり千人針をしたりして制作に4年かかったが,出品してしまってからも,本当にあれは私の描きたい絵だったのだろうか,絵が帰ってきたら燃やしてしまおう,などと悩んだ.「もくてきはない no purpose」,は,その名の通り,展覧会に入選しようとする目的性や,祈りの目的性や上述のような技術の目的性を恥じて3年前に制作を開始した.『色即是空 空即是色」の白い文字で線を消し,また描き,削り,また消しと,比較的単純な作業を繰り返した.目的性を否定する行為が,かえって目的を達成させる,,,絵のことを皆に知らせたくて,みてもらいたくてそわそわしている私のニセモノ性は,,絵を描くことによって,よりいっそう明白になっていく.


posted by トミタ ナオヒデ at 08:26| Comment(2) | アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月05日

「本音のお話」京都大学フィールドホッケー部 OB会誌

「本音のお話」

                    部長 富田 直秀
                    (工学研究科医療工学分野)

  私ほど何もしない部長は珍しいと思います。にもかかわらず、またはそのおかげで、(我が)フィールドホッケー部は男子部も女子部も堅実な戦いを続けています。部長会で各部の戦績が配られるたびに(裏にある様々な苦労を知らぬままに)、誇らしい気分を味わせていただいています。ここで、(我が)と括弧をつけて表現したのは、私がなかなか練習を見に行けず、応援にも行かず、口ばかりで何もしていない後ろめたさのためです。責任は担いつつ、少し離れたところから見守っている、と思い込むことで自分への言い訳にしています。
  さて今回は、ホッケー部諸君やOBの方々とのお付き合いの中で今まで決して口にしなかった「本音」を吐露しようと思います。私がかかわってきたテニスや剣道の、いわゆる個人種目でも、たとえば「集団にハマる」とか「進んで犠牲になる」といった集団意識や、レギュラー争いなどはあるのですが、客観的基準で代表選手を選考できる分だけ、集団と個人との関係性は淡白であったように思います。例えば、appeal や promote や support の能力がなくとも、内向的に集団の中に自身の位置を築くことも不可能ではないわけです。もちろんのこと、これらの能力は社会生活においてすこぶる重要であり、ホッケー部のOBの方々とお話をするたびに、個人競技で知り合った仲間たちとは少し違った、集団の中で積極的に生きる「カッコよさ」を感じる時がありました。
  さてしかし、昨今の世界情勢の中でこの「カッコよさ」をどのように使うのか、つまり、社会がある一つの方向に流れ出した時に、それぞれの人の価値観の多様性を、この「カッコよさ」が守るのか、または一丸とならない「他」を排除するのか、が問題なのだろうと思います。個人的にホッケー部のOBの方々に感じている「カッコよさ」は、圧倒的に前者です。つまり、appeal、promote、support の能力を、それぞれがそれぞれの生き方を遂行させるために用いておられる、そんな風に感じています。現役諸君のホッケー生活の匂いをブログなどから感じ取りますと、やはり、この前者の「カッコよさ」を感じる時があります。志を一つに一丸となりながらも、むしろその中で個性を生かし、また「他」に対しても尊敬を失わない。その伝統が、今の活躍を支えているのだ、と思い込みかもしれませんが、そう思い込むことこそが大切であろうと思います。

posted by トミタ ナオヒデ at 14:18| Comment(0) | プロフィール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月05日

Art-view 教育(筏義人先生の絵)

故 小池一範先生にはじめて芸大の講評会を見学させていただいたときに、素人目には下手にみえる絵ほど褒められているように思えたのを覚えている。あれから、多くの芸術家の方々とお付き合いをして、芸術家たちが、「できてしまう」「描けてしまう」ことに七転八倒して苦しんでいることを知った。この、できてしまうことによって自己が疎外されてしまうこと、こそが現代の科学技術が抱えているもっとも根本的な問題ではないだろうか、と、これまでの経験をエンジニアのart-view 教育論として英語論文に纏めている。

別の話なのだが、私が京大に赴任した時に「論文はもういいですから、役に立つ研究をしてください」と言われた筏義人先生から、柿の絵が送られてきた。最近、水彩画を習い始めたのだと言われる。そういえば、筏先生も優秀な研究者に厳しく、またそうではない研究者には、むしろやさしく接しておられたように思う。「役に立つ」も、本来はアートの問題なのだろう。論文を書くな、ということではなく、「他人事」のように研究をするな、という戒めであったのだろう、と勝手に解釈している。

 絵は、以前に娘たちが描いてくれた還暦祝いの絵の横に飾った。

筏先生 2017年11月 トリミンク2.JPG

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2017年12月02日

失われた何か?

約40年間少しずつ描き続けている家内の絵が、11月には右のようになりました。3月から11月までの8か月間に、線や色の技術がちょっと上達した分だけ、何かが失われてしまった、、どこか、わざとらしくなってしまったように感じます。

MARIKO 失われた何か .png
posted by トミタ ナオヒデ at 22:01| Comment(0) | アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月19日

京都都大学サマーデザインスクール 2017,松原班「落下するモノをデザインする」

松原厚(Atsushi MATSUBARA)先生が、京都大学サマーデザインスクール 2017で企画された「落下するモノをデザインする」では、短い時間と安い素材から、いろいろな創造が生まれました。「落下するモノ」というあいまいな概念から、様々に応用可能な概念が生じてくる、つまり、目的から後から生じてくる過程が圧巻でした。仮想現実映像で、それぞれのアイデアが誕生した時の臨場感を味わっていただけます.
(スマートホンなら機械を傾けることによって、コンピュータならば、画面を移動させることによって360映像像を体験できます)

類間の争い?共生?結合?
https://youtu.be/FIRm-fXqNnU

うじうじ類原始形
https://youtu.be/zKXrkK4BfkM

ふわふわ類原始形
https://youtu.be/T3cmIeMtzLI

予測不可能類原始形
https://youtu.be/YYD8BkqakDQ

スパイラル類原始形
https://youtu.be/WQuu5voBqUo

ごろごろ類原始形
https://youtu.be/MVgF8BOSaHg

ともいき類原始形
https://youtu.be/01grbkU_bM0

ひねり類原始形
https://youtu.be/v0it4y3512c

うにょうにょ類原始形
https://youtu.be/ITSPN6n6xWs



 


https://goo.gl/3pBviK
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2017年07月31日

体質変わった?

何年かぶりにクロッキーしてみたら,ものの見え方が全く違っている,,,
形に囚われるな,,と,自己暗示はかけていたけれども,,体質が変わった?




ひさしぶりのクロッキー 直秀 (Naohide).jpg
posted by トミタ ナオヒデ at 12:38| Comment(0) | TrackBack(0) | アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月05日

理由のない尊敬

             理由のない尊敬
                               富田 直秀

ひさしぶりの高校の同窓会でSに会った。
友人、というほど仲がいいわけではなかったが、なぜか尊敬している。
尊敬していた友人は他にもいるのだが、長い時間が経つと、その尊敬していた理由も少しずつ色あせてくる。Sに対する尊敬は、その理由がわからないので、色あせもしない。

おそらく、、その理由のなさを尊敬しているのだ。
何でがんばるのか、とか、何でさぼるのか、とか、何で生きているのか、といった理由なしに、Sはがんばるためにがんばり、さぼるためにさぼり、今も生きるために生きているように感じられた。そういえば、高校時代は映画研究部で映像を創っていたSは、今も映像を創り続けているという。創り続けていること自体はどうでもいいのだろう。いちいち理由のないところがすごいと思う。

posted by トミタ ナオヒデ at 12:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月26日

何が問題なのかはっきりしないことが問題

グレいく大学教員の独り言
(何が問題なのかはっきりしないことが問題)

欲望が生産によって作られる時代になって久しい.学生が自由(freedomではなく,自ずからに由る自由)を失っていく姿も,もはや幻影ではないように思う.あれがいい,こっちのほうがよさそう,,といった(いわゆる即自的な)好みに翻弄されてしまうのは今も昔も変わりはないが,その好みがプチ満足とともに与えられてしまうためか,本当に自分がしたいことは何だろうか,,と自分探しに悩む姿もあまり見られなくなってきたように思う.私が歳をとって若者の当事者としての現実に鈍感になっていることを差っ引いても,,やはり現代は,何が問題なのかがはっきりしないことが問題な時代なのだ.

動きの鈍い大学に比べて,NHK番組の「ドキュメント72時間」「バリバラ」などは,時代の流れをよく見て「自ずからに由る」を実践しようとしているなあ,と感心する.もちろん,多様なnoやyesをカットして体裁を整える昔ながらの作業が,一種の価値観の刷り込みとなっている場面もあるけれども,けれども,「自ずからに由る」を継続させよう,という意思は感じられる.個人的には,BS1のワールドニュースや,深夜に放送される茫々とした映像(宇宙から見た地球や自然や人込みなど)も,あれこれ考えずにぼーっと眺めているのが好きだ.要するに,ぼーっとする時間さえも,与えられなければならない時代に突入している.
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2017年03月21日

死ぬつもり


        「死ぬつもり」
(京都大学ホッケー部,平成28年度OB会誌原稿)

            部長 富田 直秀(工学研究科医療工学分野)

  1部昇格おめでとう!!と喜んでばかりいてはいけないのが部長の役目なのかもしれません.私にも何度か経験がありますが,スポーツに一途に打ち込んでいる相手に対峙して,さらに相手の上をいかなければならないぎりぎりの状況において,「死ぬつもり」と言わざるを得ないような心理状況に陥ることが多々あるからです.
  ラグビーのタックルや,ボクシングのカウンターのように,いかにも,の体でなくとも,死ぬつもりで走ったり,死ぬつもりで飛び込むような場面が,1部リーグでは増えるのではないだろうか,,と心配します.言い古されたことばではありますが,スポーツは一流に近づけば近づくほど「怪我をしない,させないことが一番の実力」になるのだと思います.準備運動とストレッチの習慣,身体を冷やさないこと,朝飯をしっかり食い,長時間練習の場合には練習中にも食うこと(最近,スポーツ中の食事として,タンパクも適度に含まれている「おにぎり」が注目されているそうです),周囲に気を取られず集中すること,適度に声を掛け合うこと,ネットなどの施設や,防具などの装着は,当然のこととして,以前にも書きましたが,周囲との多くの関係性の中に力まずに身をおいて流れを「みる」こと.この練習を,とにかく何度も何度も何度も何度も,いやというほどこなしてこそ,はじめて「死ぬつもり」のプレーをする資格があるのだと思います.たまたま高揚した気分のままに危険なプレーに飛び込むのは,ただの無謀であって,場合によっては犯罪でさえあることを,肝に銘じてください.





posted by トミタ ナオヒデ at 16:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月07日

病気に苦しむ人は、芸術家である A patient is an artist



 「病気に苦しむ人は、芸術家である」

          富田 直秀

  芸術家の方々とお付き合いをするようになって、生きていることそのものが芸術なのだなあ、と実感する。すばらしい芸術家は、多くの人に、それぞれに生きている「私」を感じさせ、受け取る側も立派な芸術家にしてしまう。
  また、これはむしろ芸術家の方々にはわかりにくいのかもしれないが、素人が芸術活動のまね事をしてみると、芸術活動がその身近の周囲にとっていかに迷惑であるのかを思い知らされる。(実際、私の芸術活動のまね事は周囲に大迷惑を与えている)誤解を恐れずに述べるならば、「私」が生きることによって周囲に与える迷惑を、多くの人によって自主的に受け入れられた「私」こそが芸術家なのだ。この定義が正しいのならば、人はたいてい無自覚のうちに芸術家に始まる、そうして芸術家に終わるのが理想なのだろう。(芸術家を成立させているのは崇拝者であって依頼人ではない,,)
  多くの人にそれぞれの「私」を感じさせ、また、生きていることの迷惑を自主的に受け入れるか否かを、社会に問いかけているのが芸術であるのならば、同じように医療も、多くの人にそれぞれの「私」を感じさせ、また、生きていることの迷惑を自主的に受け入れるか否かを、社会に問いかけている。そうして、すばらしい医療は、患者を立派な芸術家にするし、また、芸術家となった患者は多くの人にそれぞれの「私」を感じさせる。この文章では、病気に苦しむ人とそれを支える人が共に芸術家なのだと、それを実現させるのが本来の医療なのだと主張したい。失われた機能の回復ばかりが医療なのではない。

しかし、、、そのために、私はいったい何をすればいいのだろうか、、



“A patient is an artist”

                     Naohide TOMITA

Art is “living” itself. Artist makes people to feel of "living" and good artist makes people to become another artist. On the other hand, my poor artistic activities are a big annoyance to my surroundings. These teach me that “One whose annoyance of “living” is voluntarily accepted by people, is an artist”. If this definition is true, people is usually begin as an artist, and is desirable to end up as an artist. (It is not a client but an admirer who makes an artist,,,)

Art makes people to feel of “living”, and asks the society to voluntarily accept the annoyance of “living”. Medical care also makes people to feel of “living”, and asks the society to voluntarily accept the annoyance of “living”. And the true medical care makes patient to be an artist who also makes people to feel of "living". Thus, recovery of lost function is not the only way of medical care.

But,,, How should I do for that,,


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2015年11月25日

「共に勝つ」 (京都大学フィールドホッケー部、2015年OB会誌)

        「共に勝つ」

                      部長 富田 直秀(工学研究科医療工学分野)

  インカレ等での勝利はどんなにかうれしかったことでしょうか。うれしいだけではなく、共通の目標を持った友人に出会い、共に得た勝利は、これからの人生にも大きな自信を与えるのだと思います。今まで口ばかり偉そうなことを書いてきました私自身は、実を言いますと、何かを意図的にしようとすると、必ずその逆の作用が身体の中から現れてしまうタイプの、おそろしく要領の悪い人間でありました。高校で私はテニスをしており、練習量は誰にも負けなかったつもりなのですが、公式戦ではなかなか勝つことができませんでした。高校3年になって、やはりとても練習熱心な友人とペアを組むことができて、初めて公式戦に勝ち、さらに勝ち続けて夏には地区の代表になることができました。このときの自信が、つまり共に懸命になることができる友人を持ち、少々要領は悪くとも懸命さを続けていればいつか結果を出せるのだ、という信念が、その後の私の生活を根底から支えています。
  この共に戦った友人が、脳幹梗塞を発症して長い苦しい日々を送っていることをつい最近知りました。見舞いに行く新幹線の中で、私は涙を抑えることができずに、流れる風景にばかりに顔を向けていました。かつて臨床医であった私は、「他人の痛みをわかる」ことの欺瞞と難しさをよく知っているつもりです。人の痛みはわかるのではなく、自身の痛みと人の痛みが共鳴し合う事によって、かわいそう、という同情でも哀れみでもない、緊張した人間関係が生じます。修行僧が苦行を行うのも、こうした共感の双方向性の故かもしれません。この共鳴し合う時間を共有した友人の長い辛い痛みを知らずに、安穏としていた自分がなんとも情けなくありました。
  現役諸君がインカレ等で「共に勝つ」ことのできた経験は、どんなにか貴重であったかと思います。その勝利を導いた理由や要領をしっかり反芻して、これからの人生に活かすのももちろん大切ですが、共に懸命になることができる友人を持ったことのすばらしさもぜひ忘れずにいて下さい。そうして、卒業の後にも、この痛みを共鳴させることのできる緊張した人間関係を、永く続けていかれることを切に望みます。

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2015年08月08日

生活の質(QOL)のデザイン

生活の質(QOL)のデザインに関して、デザイン論考
http://www.design.kyoto-u.ac.jp/ronkouweb/vol.4/vol.4_tomita.pdf
に投稿しました。
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2015年05月09日

雄勝湾

5月の連休に、東北大震災(津波)の最前線で救護を行っていた友人の案内で被災地を回ってきた。今まで語れなかった人たちが、やっと少しずつ語る物語、助成を受けられる人、受けられない人の話。津波の傷跡を示す写真、大川小学校の写真など、など、、(下の写真は、当時のまま残されている大川小学校の倉庫の様子)

IMG_5181.JPG


けれども、一番心にしみたのは、一見何の変哲もない今の雄勝湾の風景だった。ここがあまりよく知られていないのは、被災者の多くが亡くなってしまって、その悲惨さを伝える人がいないためだそうだ。「ここは結構な町だったのに」と寂しく語る友人の言葉がなければ、何も気づかずに通り過ぎてしまう。

2015年五月連休,雄勝湾 DSC bmp ドキュメント小.bmp
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2015年04月21日

デザイン学

デザイン学を始めた動機などを,越前屋俵太さんのインタビューでしゃべっています

https://youtu.be/_xxZWaoax2Q

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2015年04月07日

「Melt Down メルトダウン」情けない記憶

  福島第一原発の事故のころ,大学教員同士が街中で顔を合わせると,まるで何かの陰謀の一味であるかのようにひそひそ声で状況の深刻さを話し合ったのを憶えています.私たちはその道の専門家ではありませんでしたが,学者の不用意な発言が大衆の暴走を促すかもしれない不安定さが,当時はありました.「客観的事実」を盾にしてふだんは偉そうにものを言う私たちは,何もできず,何も言えず,なんとも情けない存在でした.
  あれから4年間,誰がどう行動すべきだったのか,そうして,今後はどうすべきなのか,と議論が続いています.もちろん,事実と予測に基づくそれらの議論はとても重要な論議だと思います.しかし,あの時の私たちの情けなさはどうなったのでしょうか.原発推進者の強気は情けなく破壊されましたし,事故のあったその夏でさえクーラーを切って生活することができなかった私も情けない情緒的原発反対者です.原発事故で絶望の淵に立たされた人たちに対して,私は何もできませんでした.原発問題のもう一つの本質は,安心(ANSHIN)という質を扱うことのできない科学と科学者の情けなさなのだと思います.
  この4年間,休日になると原発にかかわる言葉にならない何かをパネルにぶつけてきました.塗って削って,千人針をして,切ったり貼ったり,燃やしたり,漬けたり,,,と,ちょうど医療事故で妻が死の淵においやられたことなども関係しているのかもしれません,もやもやと何重にも重なった形や色に「Melt Down メルトダウン」という題名をつけて,上野の森美術館大賞展に出品しました(4月29日〜5月10日上野の森美術館, 2015年5月26日〜31日京都府京都文化博物館に展示,作者名:町井直秀).何ら明示的な主張がなく,結局,私は何もせず(被災者の方々,申し訳ありません),様々な情けない思いをここにぶつけた本人が生きている,ということだけが唯一の意味である作品です.


(写真は作品の一部)

メルトダウン 2015年 トリミング2.jpg
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2015年01月05日

フン と鼻で笑う

2013年09月28日のブログに、私(富田)の行動優先順位と指定化の項目を挙げた。

1.その場所でできる掃除
2.その場所でできる創造
3.移動(脚を使う)

  この訓戒は、私の部屋のドアにも掲示しているため、ディスカッションをしに部屋を訪れた学生たちの目にも留まる。これは何ですか?と聞くので、その深遠なる意味をとくと説明すると、学生たちは、フンと鼻で笑う、、
  3の移動(脚を使う)の実行に関して、昨年はそれなりに自信がある。一般にはそこまでは行かないだろう、と思われる場にも積極に乗り込んで、脚を使うことの大切さを再認識する経験を多く持った。これを学生に笑われるすじあいはまったくない。
  2の、その場所でできる創造も、自己満足ながら、その方向性は堅持しているつもりだ。実験そのものは学生任せなのだが、学生たちの知らないところで常に創造活動は心がけているつもりだ。これを笑ったのだとすれば、事実誤認もはなはだしい。
  問題は、1番の「その場所でできる掃除」であろう。2013年05月23日のブログ「私は害虫」にも書いたように、掃除は社会にとっても最も重要な作業であるとともに、私(富田)の存続と周囲との関係性の要でもある最重要項目だ。学生たちは、大きな白版の後ろに隠した私の机のエントロピー(乱雑さ)や、私の身の回りの混沌を透視でもしているのだろうか、、それにしてもフンと鼻で笑うことはなかろう、、




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2014年12月05日

人の世界観を否定せず,徹底的に追求させる(小池一範先生 追悼)

人の世界観を否定せず,徹底的に追求させる(小池一範先生 追悼)

        富田 直秀

  京都市立芸術大学とのお付き合いは5年ほど以前から始まった.京都府と京都大学の共催で行った高校生向けのワークショップへの参加をきっかけとして,文化教育にも力を注いでおられた日本画教室の小池一範先生を,京都府の横田さんよりご紹介いただいたのがそのお付き合いの始まりだった.小池先生に,日本画3回生の講評会の様子を見学させていただいた時の衝撃は今でも忘れることができない.素人目には,ああ上手い,と思える絵よりも,そうではないと思われる絵に先生は注目し,またそうではないと思われるところを褒め,そこから何かを伸ばそうとされているように,当時の私には感じられた.その後,京都市立芸術大学の様々な授業やいろいろな教室の活動に参加させていただき,対象こそ異なれ同じような感覚を持つ場面を多く経験したのだが,しかしそれは違和感なのではなく,心の奥底を引き付ける何かがそこにあった.
  「それぞれの世界観を否定せず,徹底的に追求させる」これが,私を京都芸大に強く引き付けている基本姿勢なのだと,あとから次第にわかってきた.そうして,ここにこそ,私たち現代人が直面している様々な問題,たとえば,ものつくりの衰退,省エネルギー問題,心の健康,創造性教育,,,すべての解決の鍵がここにあるのだ,と確信もする.簡単に言うならば,それぞれが棲むそれぞれに異なる世界観の中にこそ私たちの本当のリアリティがあるのであって,客観的(相互主観的)に検証される事実や「わかる」ための形式は,それぞれが豊かなリアリティの中で生活するための一つの有力な手段にすぎない.この手段によって現代社会の合理性が支えられている一方において,本来は手段であるはずの事実検証や形式が,いつの間にか目的となって私たちそれぞれのリアリティを見失わせているところに,現代社会の大きなひずみがあるように思う.他人事なのではない,私自身が見かけの合理性にまどわされて若い人たちの新鮮な世界観を否定し,かといって自身の世界観と合理性との係わり合いを徹底的に追求しているわけでもない.つまるところ私たちは,自身につごうのよい理屈を周囲に押し付けているだけなのかもしれない.
  このことは,いずれまた詳しく述べなければならないが,いまは小池先生の話に戻ろう.私だけではない,小学生から老人まで実に多くの人たちに,画材という実体を用いて,自身のリアリティをみつめることの大切さ教えてこられた小池先生.若い人のそれぞれの世界観を温かく受け入れ,しかし徹底的に追求することを教えて,またご自分にもそれを厳しく課しておられた小池先生.画材の表現にとことんこだわられた小池先生.あのひょうひょうとした中に鋭い厳しさも持っておられた小池一範先生の,その悲報を昨日お聞きした.正式な非常勤講師の手続きをとらずに京大の授業などにもいろいろとご協力いただいていたこと,ジャズ喫茶のYAMATOYAに一緒に行きましょう,などと話していて,結局一度もその機会はなかったことなどなども,死という,取り返しの無さの前で強く悔やまれ,ぐいぐいと胃袋を締め上げる.
  私は大切な師を一人,失った.



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2014年11月13日

以後,気をつけてください

「以後,気をつけてください」

部長 富田 直秀
(工学研究科医療工学分野)

  「あなただけの身体ではないのですから,,」という言葉は,テレビドラマを見ていても頻繁に登場しますし,また若いころから少々無茶な練習や働き方をすることの多かった私は,個人的にも周囲からよくこう言って注意されました.しかし,私のほうからこの言葉を発したのは初めてのことだったのではないかと思います.先日,目にボールを受けて網膜剥離を受傷したO君を見舞いに行って,思わずこれを口にしたのですが,このあまりに「あたりまえ」なことばは,むしろ言った後に,言った本人の私を動揺させています.
  O君のご両親のことを思って吐いた言葉なのですが,だからといって,もちろんのことO君の身体がご両親のものだ,などと言っているわけではありません.小澤竹俊という終末期医療に長年たずさわって来られた先生は,自己の存在の意味を,自己決定できる「自律存在」,未来を展望できる「時間存在」,そうして周囲との関係性の中にある「関係存在」という三つに分類して述べています.最後の関係存在とは,たとえば,私が私であるという主体性が、人と人との関係性によって支えられている,ということを表しています.つまり,「あなただけの身体ではないのですから,,」とは,身体の所有のことを言っているのではなく,ご両親に限らずO君との関係性によって支えられている他の多くの存在がある,ということなのだと思います.
  自分の存在によって支えられている存在がある,という至極あたりまえのことをなかなか素直に受け入れることのできない年頃に,学生諸君はいるのかもしれません.周囲の価値観から独立して,自身の価値観に従った自律した未来を切り開こうとしている諸君にとって,言い換えれば「自律存在」と「時間存在」を自身の力で引き寄せようとしている諸君にとって,周囲との関係性の中に漫然と浮遊しているような「関係存在」はむしろ主体性の否定のように感じられるのかもしれません.しかし,周囲との多くの関係性の中に力まずに身をおいて流れを「みる」ことこそが,最も先鋭で個性的な主体性を成立させ,実は、直感的な予測を鋭敏にして事故を防ぐ一つのコツでもあることを,どのように言葉に表して説明すればいいのでしょうか,,.素直に(部長らしく)「以後,けがをしないよう気をつけてください」とだけ書いておけばよかったものを,書き始めたこの文章の終わりが見えないまま,自身の言ったことことばに未だに動揺したまま,ここで筆をおくことにします.



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ANSHINのデザインプロジェクト

長い間,ブログをサボっておりました,,
まずは,「ANSHINのデザインプロジェクト」のHP開設のお知らせを
http://anshin-design.net/index.html
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2014年03月23日

”ANSHIN”をみまもるしくみ(京都市立芸術大学×京都大学 「ANSHINプロジェクト」冊子まえがき) (Since it is beautiful, it is truly useful)

”ANSHIN”をみまもるしくみ
(Since it is beautiful, it is truly useful)

京都大学工学研究科
               富田 直秀

  ”ANSHIN”とは芸術活動なのだと,私は思っています.けれども,みなが同一の芸術的価値を共有するとそれは一種の宗教になってしまいますので,関わる人それぞれの”ANSHIN”はそれぞれ多様であって,しかも無目的であること,それが私たちの挑戦の最も難しいところではないかと考えています.
たとえば,安全は多くの人が共通に持つ願いですが,”ANSHIN”は,それぞれがそれぞれの価値観と形式に則って行う一種の祈りのようなもので,それは,日本画家の村上華岳が「画論」の中で「制作は密室の祈り」であると述べたように,”ANSHIN”も「わたし」という密室の中でそれぞれに祈られる芸術のような対象なのだろうと思います.また,詩人の吉本隆明は「良い文学作品というのは,そこに表現されている心の動きや人間関係というのが,自分にしかわからない,とそれぞれの読者に思わせる,そんな作品だ」と述べています.もし良い”ANSHIN”といったものがあるのだとしたならば,それは安全性のように,または宗教の教義のように多くの人に共通に理解されるのではなく,それぞれの「わたし」にとっての”ANSHIN”が異なる他の”ANSHIN”と偶然の出会うようにして,多様性を保ったまま,多くの人の間に広がっていくような,そんなものなのだろうと想像しています.誰かが定義をして共通に理解をする「安心」でも「あんしん」でもなく,あなただけの”ANSHIN”であることがまず出発点です.
  芸術か,よくわからんな,と思う人もおられるかもしれません.自分だけの”ANSHIN”であればそれはどこか自己満足的で,たとえば,いざ自分や家族が病気に罹患するような現実に直面すれば,科学的な治療が第一で,その後に考慮すべき内容のように思われるかもしれません.事実,私も家族の死の危機に直面した時には,たしかな知識と経験に裏付けられたより安全な治療を第一に求めました.多様ではなくしっかりとしたエビデンスが,そうして無目的ではなく治癒という目的に従ったしっかりとした行動が,医学の世界では求められています.そうして,しっかりとしたエビデンスを基盤とした治療体系が整いつつある現在の医療においても,いや,そうであるからこそよけいに忘れてはいけないもう一つの視点があります.医療の世界では,エビデンスを基盤とした医学としての治療体系をEBM(Evidence Based Medicine)と呼ぶのに対して,患者それぞれの物語(Narrative)と対話に基づく医療をNBM(Narrative Based Medicine)と呼んでいます.EBMとNBMは対立するものではなく,たとえば紙の表裏のように,またたとえば演奏の技術と感性のように,互いに補完し合って医療という現場で患者それぞれに触れていく行動の支えとなっています.
  NBMの実践を参考に,私たちがこれから目指す”ANSHIN”の行動指針を一つだけ述べるとすれば,それは「みまもり」という言葉に集約されるのではないかと思います.それぞれの「わたし」の「したいこと」と「すべきこと」を自身で探し出すこと,つまりそれぞれの「わたし」を起点とした自己組織的な実践であるところに「質」を伴った技術が生まれますが,そのためには目的や基準に従った管理や指導のみではなく「みまもり」に徹する姿勢の存在が,”ANSHIN”実践の一つのバロメーターになるように思います.一つ注意しなければならないのは,自主性を尊重することと安全などの環境をしっかりと整えることとはまったく別であることです.「みまもる」ことが管理や指導よりもはるかに厳しい行動であることの自覚は必要であると思います.実を申しますと,私はこの厳しさを理解していなかったおかげで,安全を脅かすミスを引き起こしてしまった経験が何度かあります.勝手な思い込みに走ってしまう危険性をそれぞれが自覚するような環境は(管理ではありませんが),年長者がしっかりと整えなければならないと思います.そうして,もしミスが生じてしまった時には,それぞれが積極的に責任を負うことも”ANSHIN”のもう一つの実践かもしれません.安全への脅威に皆がそれぞれの立場で自主的に立ち向かう環境ができれば,”ANSHIN”は「安全性」に勝る信頼性を実現できるものと考えています.想定された有害事象に対する安全検討はもちろん必要ですが,現実において危険性は想定され得ないところにこそ生じ,また,安全検討が単に責任の押しつけ合いとなっている場合も多いことは理解しておかなければならないと思います.その意味で,”ANSHIN”は安全性よりも,より現実的であるといってもいいのかもしれません.
  しつこいようですが,「みまもる」という明文化され難い行動は管理や指導とは比べ物にならない,鋭い予測能力と観察力を必要とします.しかし,それが達成し得ないほどに困難な作業なのか,といいますと,自然界では多くの生物が自然に行っている行動でもあります.「見守る」ではなく「みまもる」とひらがなで書きましたのは,機能などを客観的に「見る」ことと,それぞれの主体が出会って「みる」ことを区別しておきたかったからです.「みまもり」とはイキモノに共通した一種の芸術活動であって,その要点も多様性と無目的性にあるのだ,と私は感じているのですが,感じているだけで論理的にわかっているわけではありません.ただ,みまもる,みまもられるという行動が多様で無目的であるところにこそ私は美しさを感じます.兎にも角にも,現在までのところこの”ANSHIN”プロジェクトが大きな失敗をせずに多様性を保持して続けられているのは,京都市芸大,辰巳明久先生と京大経営管理大学院,山内裕先生の類まれな「みまもる」力に大きく依存していることは確かなようです.
  「みまもる」とはそれぞれの人格を尊重する行為でもあります.本来は「密室の祈り」である”ANSHIN”を,社会に定着させるために,たとえば,私たちの活動で創りだされる商品やサービスの著作者人格権(人格的な権利や責任),その中でも特に氏名表示権(創作者であることを主張する権利と責任)を発案者たちが積極的に担って,商品やサービスが育っていく過程を画像と名前入りで公開していく方法論も模索しています.またたとえば,著作者人格権のうち同一性保持権や名誉声望保持権(責任)はブランドを保持する法人などが,著作権などの財産的な権利と責任は実用化する企業などが担うことによって,それぞれが創造人格,同一性,利潤に関わるそれぞれの責任を積極的に担っていく,顔が見える”ANSHIN”ブランドの形成のしくみが一つの方法論として設定できるのかもしれません.
  最後に副題名の”Since it is beautiful, it is truly useful”の説明を加えておきます.これは,サン=テグジュペリ(Antoine de Saint Exupéry)作の「星の王子様」(Le Petit Prince)の14章の中にある言葉の英語直訳です.1分間に1回転する小さな星の上で絶えず街灯をつけたり消したりしている点灯夫(lamplighter)の星をみて,星の王子様がつぶやいた以下の内容の部分からお借りしています.「この点灯夫もおかしな星にすんでいるなあ.けれども,王さまや,うぬぼれ屋や,実業家や,のんべえの星よりは,なんとなくほっとする.この人の仕事には,なにか意味があるにちがいない.街灯に明かりをつけると,星がひとつ生まれたように,花が一輪ぱっと咲いたように見えるし,街灯の明かりを消すと,花や星は眠りについてしまう.ああ,なんてきれいなんだろう.きれいだからこそ,ほんとうに役にたつ仕事なんだ.」(富田の勝手な意訳です)
  ”ANSHIN”プロジェクトに集まった学生たちの仕事は,それぞれの専門家から見ると,どこか自己満足的でそのままでは役に立たないように見えるのかもしれません.けれども,診察用の机にも,子供が一人で受診できる病院にも,ベッドサイドポシェットにも,弔いの道具にも,病院の図書館にも,子供の待合室にも,,これら実践に私は美を感じます.すでに王さまや,うぬぼれ屋や,実業家や,のんべえの星の住人である我々の仕事は,この実践が他の多くの人のそれぞれの実践に広がっていくのをみまもる「しくみ」を作っていくことなのではないかと思います.




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2014年01月31日

願いと祈りとの違い

  願いと祈りとの違い  
        富田直秀

  宗教が,なぜこうも争いの火種になるのだろうか,と海外のニュースを見聞きするたびに不思議に思う.日本の歴史の中でも,争いの影にはいつも宗教の姿があった.権力と宗教との関係云々の以前に,祈る行為と争いとが同じ日常の中にあることに違和感はないのだろうか.
  強い願いがあって,その願いが別の強い願いによって妨げられるならば,確かにそこには争いが生れるのだろう.心からほしい何かを取り合うならば,赤ん坊であっても,いや赤ん坊のように無垢であるからこそ時に残酷な争いが生じる.しかし,本来,祈りには目的がないのではあるまいか.祈りが目的を持ったならそれは願いではないか.こころの底からの強い願いを祈りと称しているところに,争いの源があるのではないだろうか.
  私は特定の宗教を持たないが,ここ数年の間に医療事故や初期乳がん等が次々と妻を襲い,いつの間にか祈りのような行動の習慣が身についている.無事を祈るのだが,しかし,無事は私の願いの目的であって,祈りの目的ではなかった.妻の病状が悪化して絶望が心を支配するにつれ,私の願いは少しずつ祈りに近づいていったように思う.結果的に妻は健康を取り戻したのだが,その奇跡が祈りの結果だった,などと言いたいのでは決してない.ただひたすら無心であったところにこそ祈りの意味があったように思う.
  どのような宗教でもその根本のところでは,この祈りの無目的性を唱えているのではあるまいか.それぞれの宗教の,それぞれの指導者が教えの歴史の中に祈りの無目的性を探し出すことができれば,宗教を争いから遠ざけることができるのではあるまいか.
  蛇足を続けるならば,かつて臨床医師であった私は,気力が,おそらく免疫系を介して感染症などの抑制に想像以上の効果をもたらす事実をいくつか見てきた.それと同時にいかに真摯な祈りであっても現実を変えることはできないことも目の前に見てきた.気力によって物事が好転する例があること,祈りによって物理法則までが変化して奇跡が生じるわけではないこと,そうして,祈りによって心の平安が得られること,それらが混同されて,宗教を司る者までが祈りに目的を付随させてしまう習慣を身につけてしまったのではないだろうか.気力による願いの成就という現象(おそらく,気力の免疫作用や,集中による効率化といった効果が影響しているのだろう)を祈りと混同してはいないだろうか.苦しむ妻の前で何もできなかった,というその絶対的な無力に祈りが生じた.この絶対無力の上に祈りが存在していること,だからこそ祈りは本来無目的であること.このことは,どのような宗教でもその長い歴史のどこかではかならず教えとして述べられているはずだ,と,私は科学者のはしくれとして確信する.それは,この祈りと願いとを区別して祈りを無目的とする姿勢が根底にあるからこそ,宗教と科学が,宗教と現実生活が,そうして,宗教と芸術とが調和をして今日まで共存してきたのだろうと考えるからだ.


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2013年12月30日

奥行きを「み」る (医療工学の視点から)

(2013年度,京都市芸術大学テーマ演習「奥行きの感覚」(中ハシ克シゲ,重松あゆみ,小島徳朗)資料)


奥行きを「み」る
(医療工学の視点から)

                   京都大学工学研究科医療工学分野 
                    富田 直秀(tomita.naohide.5cアットマークkyoto-u.ac.jp)

  まず,私は一種の書痙であって,子供のころから字や絵などは大の苦手であった.中学時代の担任であった初老の教師は,長い職歴の中で私ほど字の汚い人に会ったことがない,と言った.意識的に制御しようとすればするほど私の手指から生まれ出てしまう「不良」の形や色が,この文章を読んでいただくための,まず第一の背景である.その私から見ると神様のような目と手指を有している芸術大学の先生や学生の方々が,その技術を否定したり,また時にはそれを「邪悪」などと言って悪ぶるのだから,上記のような背景を有する私は(少なくともこの文章の中では)徹底的にグレてやろうと思うのである.
  私はさらに病的な記憶力の悪さを有している.意味の流れの中に位置しない名詞を一切覚えることができない私は,頭の中に現実のシミュレーションのような機能を持っていて(これは実はだれにでもある機能なのだが),そのシミュレーションを過去に戻して記憶を補ったり,また時には未来にシフトさせて予測を行って,日々の生活をかろうじて支えている.記憶力の悪さは画像記憶にまで及んでいて,つい数秒前に見ていた画像も,懐かしい友の顔もすぐに忘れてしまう私は,やはりシミュレーションを過去に戻して画像を呼び起こしたり,また未来にシフトさせて構造の変化を予測しているように思う.スポーツ選手が一瞬先の予測像を無意識に「み」て素早い動作を実現しているように,おそらく,これも多かれ少なかれ誰にでも生じている現象であろうと思う.つまり,私たちが現実として「見」ているつもりの画像には過去や未来の予測像がある程度含まれているであろうこと.これが,この文章を読んでいただくための第二の背景である.
  さて,この文章を書きはじめた今日は,テーマ演習「奥行きの感覚」の先生・学生とともに豊田市美術館に,不思議な「奥行」を感じさせるジャコメッティの像を「み」に行ってきた.海外出張と国内出張に挟まれた一日を,しかも重要な研究費の応募締め切りを目前にして忙殺されているはずの時間を,ただぼんやりと「み」ることにすごしている私は,すでに相当に芸大時間に馴染んできている.この集団の中にいると,課せられた義務を忘れて存在に対峙することが,まったく異常ではなくむしろ自然に感じられる.そうして,工学部で鍛えられた脳みそ,つまり,漫然と存在するモノを座標に囲んで時間に分断して「理解」しようとする脳みそでは決してとらえることのできない表現,たとえば,「ここからみると違った世界が広がるけれども,こうみるとただのモノになってしまうでしょう?」といった言葉が,たしかな実感を伴って迫ってくる.工学部で使われる「見」るという動詞は,おおよそ3次元空間内に漫然と存在するモノを2次元に投影して脳に送り込む現象を表すが,ここでは,今,今,今,,と続く偶然の出会いの集積を全身で受け止める体験が,「み」る,であるらしい.
  工学は事実とその関係性を座標の中に描くことによって「理解」し,さらに設計という作業を経て機能を創造する.私が専門としている医療工学の世界では,ヒトが歩いたり喋ったり食べたり考えたりする現象を様々な座標の中で機能として「理解」する.歩く機能、喋る機能,考える機能,そうして生きている機能をどう定量化して,どのように技術で支えるのだろうか,といったことを考えている.そういった活動の一つ一つは真摯に進められているのだが,問題は,それらの活動が科学として座標の中で「理解」されればされるほど実感を離れ,技術に「私」が不在となり,その効果が他人事となってしまうところにある.私たちは病人や障害者を客観的に「見」ることはできても,その出会いを「み」ることができなくなってしまった.今日の私が,課せられた義務を忘れてジャコメッティの像の前にぼんやりと立ち,この不思議な存在感を「み」ることを学ぶのには,十分な言い訳があるのである.
  それでも,科学的な「理解」に洗脳されている私の脳は以下のように考えてしまう.たとえば,立体の正面像の輪郭線形状を「見」ただけで側面像の輪郭を言い当てることは原理的には不可能であるはずである.正面から見て円形であった像の側面像は四角でも三角でも無数の可能性がある.我々が,人の顔の正面輪郭像を見ただけでその側面輪郭像を相当に高い確率で言い当てることができるのは,おそらく,得られた二次元画像を記憶された顔の様々な立体像パターンにあてはめて認識する(パターン認識)を無意識に行っているのであろう.さらに前述の脳内の現実のシミュレーション像を立体視した情報とを結びつける一種の座標変換のトリックによってジャコメッティの像が創りだす奥行の感覚も理解することができるのかもしれない.しかし,それは「理解」しただけ,つまり座標に囲んで時間に分断してその関係性を心に描いただけのことであって,おそらくわたしたちが求めているのは,理解よりももっと実感を伴った納得であり,事実よりもさらに存在そのものに関わる真理なのだろう.
  グレた脳みそはさらにこう思うのである.理解のない誤解があることはまあ認めよう.しかし,そもそも誤解のない理解などあるのだろうか.理解と誤解とは独立に存在するのではなく,理解は誤解の中に包含されていると,私は思うのである.私がかつて臨床医であったころ,病に倒れ,自身の行為を自己決定できず,周囲との関係性を断たれ,さらに死を意識した人たちに対して,私たちは患者の機能回復を目的として行動した.その努力は医学的な理解に従って行われたが,別の視点から見ると医学はヒトの存在に関わるとても大きな誤解の上に成立しているのかもしれない.たとえば,命の長さだけではなく命の深さを考えるような「奥行」の概念は,医学が持つ科学的な座標の中だけでは表現され得ない(著者ブログ(http://tomitaken.seesaa.net/)2013年07月27日「なぜ,医療にアート・デザインが必要なのか」参照).検査技術の発達やエビデンスの確認によって身体機能は以前よりも正確に「見」えるようになってきたが,患者の棲むリアリティの世界をしっかりと「み」(看,観,診,,,,)ているか否かは,まったく別の次元の話である.
  ずいぶんと脱線してしまったようだが,要するに,神様のような目と手指を有している芸術大学の先生や学生の方々が,その技術を否定したり,また時にはそれを「邪悪」などと言って悪ぶるように,患者から見ると神様のような技術を持った医師たちも,また設計能力に優れたエンジニアも根本的な疑問の目で技術と機能という視点を疑ったり,また時には「邪悪」などと言って悪ぶる必要があるのだと思う.私がこのテーマ演習「奥行きの感覚」に参加させていただき,ジャコメッティの像など様々な作品に対峙し,多くの先生方や学生と時間を共有して「奥行き」を知ることの意味は,単にその感覚のメカニズムを理解するためだけではない.正確に理解すればするほどとてつもない孤独の中にある「私」が,モノを介して自他の渾然とした「私」と出合うことができる奇跡(在り難さ)を知る,そうして,真のリアリティとは何か,といった問いに向かう一つの道筋が,この出会いの中に見つかるような気がしているのだ.


P.S.:2013年10月27日にここまでの原稿を擱筆したのだが,その後の経過もお話しておかなければならない.久しぶりにテーマ演習に参加すると,中ハシ克シゲ先生と小島徳朗先生がお互いをモデルとして試験的に粘土を造形する現場とその生の作品に出合うことができた.その時に,私の目の前に現存していた強い存在性は,私の立脚する(工学的な?)リアリティを揺るがして今に至っている.私たちが「事実」を確かめるために用いる科学的認知は線条性linearity,つまり,逐次情報を感知して頭の中に論理的に積み上げることによって構築されている.その世界では,たとえば同時を同時として観察することは不可能である.現示性presentness,つまり,全体を同時に直感的に把握することのリアリティを,私たちはもっと重視しなければならないのではないだろうか.「長い文章を書くとね,創作ができるようになるまで相当に苦労をするんですよ」と中ハシ先生は言われる.おそらく,線条性を離れて現示性のリアリティを「み」るのは,私が考えているほどにたやすいことではないのだろう.テーマ演習「奥行きの感覚」は,言語的表現と科学的認知の線条性に頭の先まで浸かって生活をしている現代人が,現示性のリアリティを「み」ることの難しさと重要性とを,私に語っている.






                            
posted by トミタ ナオヒデ at 17:45 | TrackBack(0) | 論文調の独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

やりたいことをやらなければならないことにする

「やりたいことをやらなければならないことにする」
(京都大学フィールドホッケー部部誌,原稿)

部長 富田 直秀
(工学研究科医療工学分野)

  研究室が桂に移ってからは,練習を遠くから垣間見る機会も全くなくなってしまい,OBの方々からのメールで,かろうじて様子を知るのみとなってしまいました.私などが見ていて何が変わるわけでもないのですが,すでに若くはないからでしょうか,勝利の後でも不本意な敗北の後でも変わらず元気に練習をしている姿を見ていたい気がします.
  勝利,合格,受賞,,といった「実」の成果を得るためには,やりたくなくともやらねばならない場面もあります.けれども,こつこつと「質」の高い創造を行う現場では,「やりたいこと」と「やらなければならないこと」が自然に一致しているように思います.最近,仕事の関係で桂にある京都市立芸術大学に頻繁に脚を運ぶようになったのですが,ここの学生や先生方に接していて驚愕するのは,「やりたいこと」と「やらなければならないこと」の一致が実に自然であることです.やりたいことがやらなければならないことであるような一生を過ごす人は,芸術家であってもごく一部なのでしょうが,しかし少なくともここには「いったい自分は何がやりたいのだろうか」という徹底的な問いかけがあります.
  フィールドホッケー部が「実」としての勝利を目指すことは当然ですが,同時に,フェアであること,独善的ではないこと,誰も虐げられていないこと,,といった「質」の高さを維持するためには,部員のそれぞれの「やりたいこと」が「やらなければならないこと」と一致しているのがまず基本であると思います.もちろん,そのためには個人それぞれの自己への問いかけとともに,それなりの社会の成熟が必要だと思います.
便利で豊かになった現代においても,依然としてやりたいことができずに苦しんでいる多くの人がいる一番の理由は,実は,何をしたいのかが見失われているからではないでしょうか?少なくとも先進国における貧しさは,物質ではなくモチベーションの欠如にその源があるように思います.私が,勝利の後でも不本意な敗北の後でも変わらず元気に練習をしている部員の姿を見つめていたいのは,それが「実」のみならず「質」的な発展を目指す日本の象徴であるように感じるからかもしれません.




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2013年09月28日

行動優先順位

できるや否やはなはだ不如意ではあるが,本日より以下の行動優先順位を定める.

○優先順位
1.その場所でできる掃除
2.その場所でできる創造
3.移動(脚を使う)
(2013年9月28日より,富田直秀)

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2013年07月30日

行政施策への意見「医師同士が自主的・良識的に無駄を規制し合う体制 」

今月の行政モニター

「革新的な医療技術の早期実用化を促進するのだという.医療技術開発者である私にとっては願ってもない朗報である.しかし「無駄な医療」が減少しなければ,新しい技術の事業化は医療経済を崩壊させる.「無駄な医療」とは客観的には定め難く,なによりも現場の医師同士が無駄を規制し合う体制が不可欠だろう.医療現場では,だれよりも患者自身が過剰と思われる医療を求める場面が多く,それを諌めるのが医師だからだ.医師の良識が求められるその一方において,保険医療の締め付けと利潤確保の駆け引きの中で,狡くなければ生き残れない悪循環も医療現場には生じている.客観的基準による医療内容の規制も必要だが,かえって狡さをはびこらせ良心的な医療を後退させる諸刃の剣ともなっている.繰り返すが,現場の医師同士が自主的・良識的に無駄を規制し合う体制がないままに医療が拡大するならば,医療ばかりではなく日本も崩壊するのではあるまいか.」

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2013年07月27日

なぜ,医療にアート・デザインが必要なのか

           なぜ,医療にアート・デザインが必要なのか 

                            
                      京都大学工学研究科,医療工学分野
                        富田 直秀

  最近の私は医工学の研究仲間よりもデザインやアートの世界の人たちと頻繁に交流を続けている.現代の医工学研究の方向性だけでは,どこか納得のいかないものを感じているからだ.工学設計の本質は仕様に表された目的機能を達成するための機械的な「行為」だが,デザイナー・アーティストの仕事には,どこか「私が私である」ことの「仕草」や「有様」が含まれている.そうして,医療においては,命を長らえたり便利に快適に暮らしたりする機能よりも,まず「私が私である」という「仕草」や「有様」が考慮されなければならないと思う.病に倒れ,自身の行為を自己決定できず,周囲との関係性を断たれ,さらに死を意識したときに,人は身体の機能のみならず「私が私である」という自己を見失うのではないだろうか.医療現場で出会った人たちの多くは,それまで当たり前であった「私」が当たり前ではなくなってしまい,「私」という仕草や有様を探して彷徨っていたように思う.医療現場には,機能回復のための医学のみならず,「私」という仕草や有様を扱うデザインやアートの視点が必要であると切に思う.(行為(acte)と,仕草(geste)または有様の違いに関しては,(注)をご覧ください)
  もちろん,医学に工学設計の概念と手法が必要不可欠であることには何の異論もないし,また現に私の仕事の大部分は工学設計を基礎としている.工学は機能回復のための様々な技術を生み出しており,その技術は医学の中においても中心的な役割を演じつつある.しかし,医療現場ではそれぞれの患者が「私である」ための一つの手段として機能回復技術を用いているのであって,機能回復が最終目的なのではない点を誤解してはいけない.たとえば,ナースコールを頻繁に押す患者が必要としているのは,まず根本的に「私が私である」という有様の回復であって,眠剤や鎮痛剤の処方や監視モニターや自動介護装置は,そのための手段の一つにすぎない.検査や治療といった異次元の体験に,私たちはどのような仕草や有様で対峙するのだろう.文字で説明される原理や合理性のみならず,形や色や物音にも大きな役割が与えられる.治療が「安全」であることももちろん大切だが,100%の安全が不可能である中でいかにヒトが安心でいられるかはアートの問題である.失われた機能を補う最先端の医療機器や医療技術があって,その後にデザインやアートが考慮されるのではなく,医療現場ではそれぞれの私が私として生きるための有様がどのように崩されていて,それがどのように回復するのだろうか,と考えるところから技術開発は始まらなければならない.現場に脚を運ばずに,仕様に書き下された機能を目的として開発が始まり,書き下された設計解によって技術が作られるのではなく,設計の前に,そうして設計と共に,自己存在そのものに働きかけるデザインやアートの視点が加わらなければ,医療技術は人の生活に中に活きてこない.デザインやアートの視点とは,まず現場に脚を運び,そこにある様々な仕草や有様を直接に実感として感じ取ることでもある.
  京都市立芸術大学ビジュアルデザイン科では,3年ほど前から医療の現場が潜在的に抱える問題を発見し,その解決のためのモノやサービスをデザインするProblem Based Lerning 「病院のデザイン」を学部生の授業として行っている.大学近くに住むある老人が芸大ビジュアルデザイン科の辰巳教授のもとを訪れて,病院で使われているピルボックス(いつどの薬を飲むかを指示した薬のケース)を示して,こんなわかりにくいモノが今も使われている,デザインの力でなんとかできないだろうか,と訴えたところからこの活動が始まったらしい.「何の解答も出せないまま老人は亡くなってしまいました」と辰巳先生は言われるが,「病院のデザイン」でこれまでに発案されたアイデアの数々(ベット横に置く小物入れ,患者説明シート,子供の注射補助,患者への説明システム,小児待合室デザイン,生活支援グッヅとその販売システム,などなど,,)は,「私が私であること」を患者が取り戻すための具体性の宝庫だった.誤解を恐れず言うならば,国がここ十数年の間に何兆円もの経費をかけて進めてきた医療分野における技術革新を,ある意味において凌駕していると私は思っている.これまでの研究開発努力が機能回復を目的とする医学として頓珍漢であるわけではない,ただ,それらの開発の多くが言葉に表された要求機能を目的としていて,その中心にある患者の生活と自己存在性が製品やサービスの対象から排除(Exclude) されがちであったところに問題があるのだと思う.
  対話や観察から得た気づきをもとに開発を行うこのインクルーシブデザイン(Inclusive design) は世界でも少しずつ広がりつつあるが,方法論として二つの問題をかかえている.一方は,「みる」能力の欠如である.私たちは本当に病人を,障害者を「みて」いるだろうか.ちらりと形を見て,機能不全をかわいそうと思い,それを形式として理解していないだろうか.インクルーシブデザインの多くが芸術大学で行われている理由もここにある.芸術大学では徹底的に「みる」ことの訓練から始まる.直接的に経験し,主と客とが無分のところで「みる」ことで初めて,形式と内容の共存が可能になるからだ.「病院のデザイン」には今年から京大側の大学院生も参加させていただいているのだが,フレームワークを定めずに,つまり,目的を定めずに現場に行って,そこにある生活を「みる」力そうして,生活をデザインする力において,我々は終始圧倒されていた.もう一方の問題は,生まれ出たアイデアは「だれが」デザインをしたもので,「何が」特徴であって,今までの技術とどこが異なるのかを記述することがとても難しいことだ.ボランティア活動などの自主的に行われる活動の中で活かされるアイデアの場合にはそれがいちいち記述される必要はないが,持続的に役に立つ仕組み(事業)となるためには技術の明確化と記述が必要となる.特に医療現場で行われる活動には人の命にかかわる責任が伴うため,ある程度の利益と独占性が保証されなければなかなか持続性が得られない.医療現場の特殊性の説明は難しいのだが,極論を言うならば,命の長さよりも命の深さを優先させる概念は,現在の日本の医療システムの中ではまだ公認されていない.医師法によって医師のみに医業が許されており,生命維持や機能回復にかかわる責任が医師に集中していること,チーム医療システムの浸透度の低さ,日本の医療文化,などなど様々な要因が重なって,機能回復への貢献がエビデンスとして明白に記述される技術が優先して事業化されてきた.逆に,たとえ医療スタッフや患者が生活の質の改善を実感する技術やアイデアがあったとしても,ほんの少しでも機能回復治療を阻害する可能性のある行為は回避される傾向にあった.その大きなギャップを乗り越えて,生活の質を優先させる技術が持続的に医療システムの中に生き続けるためには,特有の専門的な知識と配慮を必要とする.現行の医療システムの中で,ああいいね,と実感を得る技術が持続的に運用されるためには,医療現場を熟知した専門家による事業化が欠かせず,そのために技術の明確化と知的財産化はとても大切な方法論となる.京都市芸大と京大の共同授業「病院のデザイン」では,「みる」ことに長けた芸大生と,「記述」に長けた京大生が,いかに相手を尊重し,吸収し合い,与え合っていけるかがカギとなっている.まず現場に脚を運んで「実感」をしっかりと捉え,そこで得られた気づきを実例画像やメタファーなども含めた様々な方法で提示し,アイデアを整理し,さらにその中からポイントとなる概念を明確に洗い出して記述し,試作し,最後にはまた実感に戻る,といった繰り返しが必要なのだろう.そうしてこれは,単にものつくりのための方法論にとどまらず,真の豊かさとは何か,生命とは何か,といった根本問題への問い直しを行うことにもなっているのだろうと思う.
繰り返すが,命の長さよりも命の深さを優先させる概念は,現在の日本の医療システムの中ではまだ公認されていない.医療分野におけるアートやデザインの視点とは,医師という個人だけではなく,社会全体が命の長さよりも命の深さを優先させることの責任を担いながら生きることの「質」を考えていく動きでもある.小澤竹俊(臨床看護,vol.30, no.7, 1023-1126,2004)によれば,自己存在には,自分の意志で生き自己決定できる「自律存在」,明日の自分を想像し過去を引き受け未来を展望できる「時間存在」,そうして,支えとなる関係がある「関係存在」の三つの意味があるのだという.医学が提供する機能回復技術は,これらの自己存在を回復させるための有力な一手段であって,機能回復自体が医療の目的ではないことの理解が大切であると思う.

  ところで,ここまでデザインとアートとを一緒くたに述べてきたが,両者の間の違いに関しては,私はまだはっきりと区別ができているわけではない.ここまで述べてきたように,機能を対象としているエンジニアから見ると,生活そのものを対象として扱うことのできるデザイナーはアーティストであるとおもえる.ただ,高い技術を有しながら,その技術を邪悪と感じ,技術から逃れようとする場面が,いわゆるアーティストと分類される人たちには多いように思う.技術には(自然に見せる)とか(すっきりさせる)といったような目的が不可避に付随するが,その目的性に形式・内容分離の欺瞞を感じ取るからだろうか,また創造する自分を客観的に観察する職業的なメタ認知をたいていのアーティストが身につけているが,その客観性に主客分離した邪念のような感覚を感じ取るのだろうか.エンジニアとアーティストとの共同作業の難しさの一因に,なかなか目的を設定することのできないもどかしさがあるが,形式に内容が内在するアートに本来目的はないのだろう.そうして,目的に向かう「行為」ではなく,存在そのものに働きかける「仕草」や「有様」を表現するからこそ,アートは誰にとっても重要なのだろうと思う.たとえば,一枚の絵が,一つのアイデアが,万人のそれぞれの生きる「仕草」や「有様」に働きかけることが可能ならば,何兆円もの国家プロジェクトを凌駕する力を持つのだと思う.



(注):行為(acte)と仕草(geste)または有様の違い.
  行為は客観的な空間の中で対象化されるが,仕草,有様とは受け取る側の内面で定義される.サルトルによれば,「存在するためになし遂げられる行為は,もはや行為(acte)ではなく仕草(geste)である」のだという.このサルトルの表現した仕草と,ここで言う仕草や有様との整合性には未だ確信を得ていないのだが,私の解釈によれば,サルトルの言う仕草は動きだけではなく,様子やたたずまいといった有様もあらわしていて,たとえば,植物やモノにも仕草を感じることがあるが,それは植物やモノではなく,あくまで「みる」側の自己存在に関わっている.
  「私が私である」ことが当たり前であるとして私たちは日常生活を営んでいるが,前述のように,疲労や病気の状況に陥ると私たちは自己存在が当然ではないことを思い出すのだと思う.魚住洋一氏(他者の現象学U(哲学と精神医学の間)中の「毀(こわ)れものとしても<私>」-自己意識の政治学のために-)の言を借りるならば,「私が私である」ために,わたしたちはニセの自分になりきるという<自己欺瞞>を代償として支払わなければならない.そういった無意識の自己欺瞞の上に,私たちの日常生活が成り立っている.以前私は,アートにはどこか絶望的なものを感じる,と述べたが,その絶望とは暗く陰湿で解決法の無い客観的な状態を指すのではなく,「私が私である」という仕草や有様を求めて彷徨っている状況を意味している.医療においては,患者の行為を客観的に観察する視点と,患者の立場となってその仕草や有様を感じ取る感性の双方が求められる.後者は単に感情の問題ではなく,感じ取る側も「私が私である」ことが当たり前ではない彷徨いがあって,まったく別々の彷徨いが偶然に出会うような状況であり,私はそれをアートと称している.
  蛇足だが,この定義に従うならば,たとえ目標に向かう計算された行為を行っている人であっても,その動機が自己存在のための仕草であると感じることができたとき,私はその人にアートを感じる.これはあくまでそれぞれの「私」の出会いの問題であって,仕草や有様は客観的に捉えられず,よってアートも客観評価され得ず,また,本質的にはアートは対象化さえ不可能なのではあるまいか.


posted by トミタ ナオヒデ at 19:14 | TrackBack(0) | アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月26日

無知と厚顔

  ちょっと聞き知っただけですぐに知ったかぶりをする私のこの無知と厚顔は,ああ,いったいどうすればいいのだろうか.先日は,京都市芸大の授業「奥行」で,こともあろうに,現象学を専門とされている魚住先生の前で,現象学の紹介をしてしまった.精神科の立場から共感や実感を重視された木村敏氏の「私的な間主観性」をちょっと読みかじって,だから論理的な検証を行う検証空間とともに,共感や実感を基礎とした創造的な空間があるのだ,などと,創造空間という私の勝手な造語にお墨付きを与えようとしてしまった.魚住先生は,(おそらくあきれられて,しかし,私の立場を慮ってか)「暗喩的な表現ですね」と,やわらかく評された.
  その魚住先生が,ご退職を前に,研究室の本の整理をされているのだという.そうして,絶版となって今は手に入らないという「他者の現象学U(哲学と臨床医学の間)」を,昨日,私に下さった.顔から火が出る,本来はそうなのだろう.しかし,その心もちは私の無知と厚顔に押しつぶされている.法然の専修念仏を聞きかじって自身の不節操の言い訳にしている生臭坊主のような,そんな無知と厚顔が私にはあって,この本に書かれているような,こつこつと積み上げられたまじめな何かを,私は蹂躙している.
posted by トミタ ナオヒデ at 02:29 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月23日

私は害虫

 列車の窓からぼっと駅を眺めていると,職員さんが灰皿の掃除をしていた.駅のホームにある背の高い灰皿箱を開けると,下からは水の入ったペットボトルが出てきて,その水で灰皿を洗い,ビニールの袋に流し込む.なるほど,これなら重い洗浄水を持ち歩かなくても,時々あの水を補給してやればいいわけだ.
  もし,1年間を1分くらいに編集して映画を編集するとする.そうして,世の中から大学教授をなくしてみたら何が変わるだろうか.医者は?,政治家は?,,と考えていくと,もちろん,いろいろな状況があるだろうけれども,掃除をする人の世の中への貢献は計り知れないものがある.医者や政治家や,,がいなくなっても世の中はそう変わりしないが,掃除をする人がいなくなれば,世はあっという間にごみに囲まれる.掃除は,循環によって存在しているイキモノや社会が持続性を獲得するための,まさに要の作業だといっても大げさではない.白状するならば,私は新しいことを考え実行することに喜びを感じる一方で,掃除という作業を面倒に感じている.私のような人間は,この早回し映画で見ると,秩序ある人間社会を食い荒らす害虫のような存在だろう.
ここで話をやめてこれを結論とするのは悔しいが,事実だから仕方がない.
posted by トミタ ナオヒデ at 10:04 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月13日

科学技術政策,,,

  政策モニターに登録していて,政策に関する意見を400字以内にまとめて月に一回程度内閣府に送る.一人でブツブツ文句を言っているよりは健康に良かろう,などと思って始めたのだが,書いてみると,我ながらどこか胡散臭くて,どにかく居心地が悪いのだ.

五月提出題名:科学技術政策に求められる「みる」力
本文:某製鉄会社に就職した学生の言です:「中卒高卒の人たちが責任をもって技術の核心「質」を維持している.紙に書かれた技術は海外に盗まれても,人を育てるシステムは今も日本を支えている,と実感する.」思えば,こうして日本を支えてきた人たちは,名を残さず,不況時には真っ先に首を切られてきたのではないでしょうか.日本の科学技術政策の成果は素晴らしいとは思いますが,紙に書かれた情報に翻弄されている一面もあると思います.名もない誠意ある仕事を「脚を使って」探し出す活動が必要であるように思います.ただし,情緒的な技術把握は様々な欺瞞・利害・価値観の対立を科学技術の世界に持ち込むパンドラの箱でもあります.正確な科学知識とともに,人と人,人とモノとの関係性を「みる」力,そうしてそれを政策に実現する実行力が科学技術政策に求められていると思います.

  要するに,文章や業績などのデーターばかりに翻弄されてお金をばら撒いてちゃいけねえよ,と言いたいのだが,「人と人,人とモノとの関係性を「みる」力が必要」と言っただけでは,いったい何を言いたいのか伝わっていない.どうすればいいか,という具体的な発案がない.我ながら自分を棚に上げて勝手なことを書くものだと思う.先日も,学生たちと来年の卒論テーマを話し合っていて,「問題解決のための道筋(ストーリー)と,何らかの最適化設計要素がなければ工学研究にならんだろう」などと偉そうに言う.後で学生がトコトコと寄ってきて「先生はどんなストーリーと最適化設計を経て○○を開発したんですか?」と聞かれると,そ,それはね,,と頭を掻く.
  本心を言えば,最初からストーリーと最適化設計ばかりにこだわっていたら,新しい技術など育ってこないのだ.もちろん,土台としての基礎は絶対に必要だが,プラモデル作りのようなここほれわんわん研究は教育としては成り立っても,本当の技術開発にはなり得ない.頭の中だけで練られた設計がうまくいくほど現実は甘くない.根底を覆すような基礎理論を土台とする技術は別だが,たいていの技術開発の肝の部分は,五感六感と脚を使い,手探りでこつこつと創りだされている.データを見て予測するよりも,関係性を「みて」方向性を感じ取る野生が創造性の根本にはある.合理的な検証力も大切だが,それが生かされるのは,創造性を管理しようと考えたり,おおかたの創造が終わって自慢話を記述する時だろう.要するに今の大学は合理的な検証力ばかりを教えていて,創造性の核心には触れていない.(いつか述べようと思うが,芸術大学は,今も創造性を念頭に置いた教育をしているように思う)
  私の話の胡散臭さは,現在の私が創造性の根本となる不安定で不安で妄想に満ちたところを避けて自慢話ばかりをしているところだろう.本当に創造的な活動しているとき,人は多くを語らない.日本の科学・技術政策も然りではないだろうか.自慢話ばかりが飛び交っていて,どこか胡散臭く,どこか居心地が悪い.
posted by トミタ ナオヒデ at 08:41 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月26日

京都大学

  大学院の修了証書授与式の後に謝恩会(のようなパーティ)が開催された.その中で,昨年退職され,今は同窓会長を勤められているMAT先生と,今年ご退職予定のMAK先生のお二人のお話が好対照で特に印象的だった.MAT先生は,グローバル社会の中で世界の優れた人達と競い合っていくためにも,また個人的な悩みを解決していく上においても人脈を持っておくことが大切である,と述べ.その人脈が持続的であるためには教えてもらうだけではなくgive and takeの関係性が大切だ,と語られた.またMAK先生は,縦軸に能力達成のような量,横軸に年齢を対数目盛にしてグラフを描いてみる,と話を始められた.たとえば,横軸は1〜10歳と10歳から100歳が同じ長さとなるように目盛ってみると,幼児や若い人のその一つ一つの能力の向上がいかにすばらしいものであるか,を語られた.MAT先生が仕事や結婚など,学生のすぐ目の前にある心配事を例として挙げたのに対して,MAK先生は赤ん坊が立ち上がるということがいかにすごいことか,を例に淡々と述べられた.MAT先生が人生にはっきりとした目標と目標に向かう方法論を明示されたのに対して,MAK先生は多様な人生のサビのようなところを語られたように思う.私の偏った視点から見ると,MAT先生は「実」を中心に,MAK先生は「質」を中心に語られたように感じたのだが,それはまあ,どうにでも解釈できるのだろう.面白いのは,同じ機械系の中にも実に様々な価値観の人が混在していて,お互いに迎合するでもなく反目するでもなく,うまく棲み分けているところだ.上に紹介したおふたりの言葉は,それぞれの人生の基軸を最後まで曲げずに貫かれた結果でもあるのだと思う.これは,一般社会ではそう簡単なことではない(もちろん,お二人ともまだ「最後」に至っているわけではないが).
  そもそも,誰もが心の奥底にその人だけの強いこだわり(芸術を語るときには「絶望」と訳すが)を秘めていて,たいていそのこだわりは人に理解されない.理解されなくとも安易に迎合せず,人のこだわりも(とやかく言いはするが)尊重するところに,京都大学の真骨頂がある.一色には染まらないのだ.京都大学は自由を尊重する,とよく言われるが,それは英語の freedom ではなく,それぞれが自らに由る,ところの「自由」だろう.行動の自由度が高いのではなく,行動に自主性が求められている.安易にそれが心地よいとは言わない.自らに由ることの,迎合しないことの厳しさも十二分にあるのだ.京大で思春期を過ごした若者たちには,安楽な生活が提示されているわけではなく,辛くともどこか小気味良い生き方が提示されているのだと思う.
posted by トミタ ナオヒデ at 21:31 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月07日

(目に見えない)悪循環をターゲットとする

  イキモノや社会の関わる問題の多くは悪循環に起因する.ここで詳しくは述べないが,例えば,痛みの悪循環,貧困の悪循環,廃用症候群の悪循環,,,などなど,悪循環の名称が付けられた現象だけでも数多く知られている.そうしてたいていの場合は,痛み,貧困,廃用変化,,といった悪循環の中心となる現象がその問題解決のためのターゲットとなっている.しかし,本当に痛み,貧困,廃用変化,,といった現象への対処が悪循環への根本対策なのだろうか?
  最近,耳鼻科分野での興味深い話を聞いた.有効な治療方法が確立しておらず,未だに多くの人が苦しんでいる(長期に続く)耳鳴りの治療に対して,音が聞こえる,という現象のみではなく,その悪循環全体をターゲットとした治療システムが発達しつつあるという.長期の耳鳴りの場合,耳鳴りが不快と認識され,その不快のために頭の中にその音を強く意識する現象が発生し,その現象がストレスを招き,そのストレスがさらに耳鳴りに対する不快感を深める,という悪循環の存在があるという.夜間のように,悪循環を遮断する刺激の少ない時には,不眠,精神的緊迫などのためにさらに悪循環が生じやすいらしい.たとえば,TRT(Tinnitus Retraining Therapy)では,この悪循環を壊すために,別の音をかぶせて耳鳴りに気が向かないようにする音響療法や,悪循環の回路を理解するカウンセリングなどが行われている,という.つまり,「音が聞こえる」という現象をターゲットにするのではなく,目に見えない心理作用を含めた悪循環回路全体への理解と対処をおこなう治療システムであるらしい.まだその治療現場を取材したわけではないので,あくまで聞き知った知識として把握しているだけだが,心理,聴覚,看護などの様々な要素が多様に絡んだ悪循環に対応できる多分野横断型のシステムが成立しつつあるのではないだろうか,と想像している.
  悪循環の中心となる現象のみではなく,悪循環回路全体をターゲットとするシステムの構築は,言葉で言うのは簡単でも,実際にはとても大きな問題を含んでいる.たとえば,整形外科分野では痛みの悪循環への対処が重要だが,ただ単に「痛みと友達になりましょう」などと,その痛みの渦中にない者が言葉で説明するだけではかえって不信を招いてしまう.現実の痛みに苦しんでいる患者にとっては,やはり痛みという現象の消滅が治療に求める第一の効果だからだ.最近では少量のオピオイド(麻薬の仲間)を含んだ様々な製剤が広く使用されつつある.もちろんその適応には厳しい基準があるが,それらの優れた除痛効果がエビデンスとして定量的に示されやすいだけに,かえって危惧も感じざるを得ない.痛みは,正常な身体異能を維持させるための大切な感覚でもあるので,除痛のための強力なツールをしっかりとコントロールして使うのはそう簡単なことではない.治療者は,「痛み」という現象だけに振り回されずに,目には見えにくい悪循環全体を見据えていなければならないだろう.
  私自身の例をお話しよう.先日の腰痛発作で,動作のたびに全身を貫いていた激痛は,神経根症状と思われる右臀部の疼痛に変化して,今も残存している.たとえ痛みは鈍痛となっても,常に痛みの中で暮らしていると,時に,居ても立ってもいられない焦燥となることがある.おそらく,この痛みとは長い付き合いになるのだろう,と(一応専門家としては)観念しているのだが.一方では,やや楽観しているところもある.こういった神経根性の痛みとの付き合いは,これが初めてではなく,20代の後半に剣道の練習中に受けた外傷から頚椎症を患い,その時には左肩から親指にいたる逃げ場のないしびれと痛みに苦しんだことがある.その症状自体は今も消えてはいないのだが,私の脳は上手にこの症状を隠しているらしく,このように思い出した時にだけ,左腕のしびれと痛みが襲ってくる.おそらく,この臀部の痛みもいつか同じように「忘れる」ことになるのだろう.
  この「忘れる」または「痛みと友達になる」という目に見えないあやふやな結果は,それをエビデンスとして定量評価するのがとてもむつかしい.先に紹介した耳鳴りの治療では,耳鳴の苦痛度及び生活障害度としてTHI(Tinnitus Handicap Inventory)が提案されており,さらに一般的な尺度としては様々なQOL(Quality of Life)評価も存在するのだが,それらの多くは暗示や先に述べたオピオイドを含んだ製剤でも改善してしまう.たとえば,同じような障害を受けても交通事故などでは長くその症状が消えないことが多いのだが,以前に整形外科医をしていた私の実感としては,わざと症状を訴えている場合はむしろ少ないように思う.心理作用も加わった痛みの悪循環が患者本人を相当に苦しめていたように思い出す.そうして,愁訴を根気強く聞いてあげることと,抗不安薬などの投与くらいしかなすすべがなかった例も多い.
  東北震災時のブログにも書いたが,社会的にも,こういった心理作用も加わった逃げ場のない苦しみの悪循環が日本の各所で生じているのではないだろうか.痛み,貧困,,のような悪循環の中心となる現象のみをターゲットとするのではなく,悪循環回路全体をターゲットとした科学的な対策方法が,つまり,心理やコミュニケーションなどの見えない対象を扱う専門家と,エビデンスとして見える現象を扱う専門家とがチームとなり,多様に絡んだ悪循環に対処するシステムとその構築理論が,イキモノや社会に関わる問題解決のための科学的方法論として求められている.集学的なシステム構築のポイントは,その効果の評価方法の構築であろうと思う.エビデンスとして評価できなければ,様々な胡散臭い方法論の巣窟となってしまうからだ.

(TRT療法の説明では,名古屋第一赤十字病院耳鼻咽喉科,柘植勇人氏のHP(http://www.nagoya-1st.jrc.or.jp/3/library/trt.html)を参考とさせていただきました)


posted by トミタ ナオヒデ at 16:56 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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