富田直秀(Naohide TOMITA)     e-mail: tomita.naohide.5c kyoto-u.ac.jp  ←を半角に変えてください。


Dr.Tomita

プロフィール

富田直秀(Naohide TOMITA)材料工学出身。もと整形外科医。現在は医療工学、デザイン、再生医療、バイオメカニクス、バイオトライボロジーなどの研究をしています。

研究とは切り離しておりますが、学生の頃から少しずつ創りためている文章、絵、写真なども公開しています。興味のある方は右のMENUからお入りください。

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2009年10月30日

粗忽(そこつ)

 粗忽者(そこつもの)、つまり、軽率で不躾(ぶしつけ)な人に関わって生活することの苛立たしさは、なみたいていではない。粗忽を受けたならば、同じく粗忽で返すのが道理だろう。道理だが、生来の粗忽者にとっては、悪気のない態度が意識的な仕打ちで返されるのだから、その孤立感と絶望も、またなみたいていではない。粗忽であることは、その見た目ほどに道化なのではないのだ。おそらく、道化に茶化さねばならないほどの絶望がそこにあるのだろう。
 しかし、こう考えてはどうだろうか。つまるところすべてのヒトが生来の粗忽者であるのだ。ヒトは幼少時に粗忽であり、また年老いて再び粗忽となる。ヒトの本姓は粗忽であり、ある一時期だけある知識と記憶力とによって、一見、粗忽を隠しているだけなのだ。長い時間の流れの中で、かつて粗忽であり、またいつか粗忽に戻る身であれば、粗忽者にやさしく接するのも、また道理ではないだろうか。もちろん、それは人を思いやる厳しさを備えた優しさでなくてはならない。粗忽者は、いつかはその厳しさと優しさに感謝し、また長い時間のいつにか、その感謝を他の粗忽者に施すだろう。これも、いわゆる「縁」なのだ。ヒトが自身の隠された粗忽を自覚し、目の前の粗忽者を思いやることは、人類が絶望ではなく感謝に包まれて生きるための、基本的な処世の一つなのだろうと思う。

(蛇足だが、「かわいい」と感じる本能は、無垢な粗忽者を愛することによって集団を安定させる。つまり、イキモノが持つ重要な表現型の一つなのだと思う)
posted by トミタ ナオヒデ at 23:12| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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