富田直秀(Naohide TOMITA)     e-mail: tomita.naohide.5c kyoto-u.ac.jp  ←を半角に変えてください。


Dr.Tomita

プロフィール

富田直秀(Naohide TOMITA)材料工学出身。もと整形外科医。現在は医療工学、デザイン、再生医療、バイオメカニクス、バイオトライボロジーなどの研究をしています。

研究とは切り離しておりますが、学生の頃から少しずつ創りためている文章、絵、写真なども公開しています。興味のある方は右のMENUからお入りください。

E-Mail: tomita.naohide.5c@kyoto-u.ac.jp
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2011年06月16日

イキモノの特徴

イキモノの特徴(7月3日のブログに,わかりやすく書き換えました)

  昨日の授業で,「イキモノの特徴を一言で述べてみよ」と問うと,ある学生が「自由意志を持つモノがイキモノである」と言う.すると別の学生が,「イキモノといえども物理化学法則に従っているのだから,本来,自由意志など無いと思う」と反論した.自由意志に関わる根本的な議論である.この論議に対して,哲学者でもない私は,壇上から top down に学生たちに述べるべき言葉を持たない.ただし,1人の(哲学を専門としない)個人としては,以下のような考えを頭の中に持っている.昨日は,ややごまかして終わってしまったので,(もちろん,これは正解ではないが)私の個人的な意見をここに示しておこうと思う.

(ちなみに,授業ではこのようなややこしい話はいっさいなく,生体の材料としての特徴(やわらかくて強いゴム弾性,形がもとにもどるはなし,ぬるぬるの生体摩擦)や,医療産業の現状などの(まっとうな)講義をしますので,学生諸君はご心配なく.)



  「イキモノの特徴を1行で述べてみよ」と言われれば,私ならば「自己存続の仕組みを持った散逸構造」と表現するだろうか.散逸構造とは,エネルギーや物質の流れの中に自己組織的に現れる比較的安定な構造で,たとえば,1年前の私は,現在の私と形・機能ともにあまり変化していないが,骨などの代謝の少ない一部の組織以外は私を構成する元素のほとんどが入れ替わっている.イキモノはモノとその存在様式がまったく異なっている.イキモノで存続しているのはモノよりも,情報である.(エネルギーや物質は保存量であるが,情報は保存量ではない.このことがイキモノの解釈を難しくしている一因でもある)また,自己存続の仕組みとは,たとえば遺伝の仕組みや記憶の仕組みであったり,また自由意志であったりする.遺伝や記憶によってイキモノの情報や形が存続する,言い換えれば,生体の記憶機構によって単発的な自己組織反応が永続性を持つことは直感的にも理解されるだろう.さてしかし,自由意志も自己存続の仕組みなのだろうか.そもそも「意志」とは何であろうか.
  たとえば,意志の存在を否定してしまうと,機能という概念の成立も怪しくなる.原始人が石ころを使って狩りをすれば,石ころは武器という機能を持つことになるが,これは使う人や観察者の意志と記憶があればこそ成立する概念である.もし意志と記憶がなければ,原始人と石と獲物で構成される物質系の(物理化学法則に従った)相互作用があるにすぎない.機能ということばの概念や機能に関連する物事が存在すると認めるならば,人の意志と記憶も現に在ると認めなくてはならない.これは,たとえば木村敏の言うアクチュアリティという言葉を借りて表現すれば,石の物理化学的作用というリアリティを,人が能動的にアクチュアルに「みる」ことによって機能として捉えられる.石が武器という機能を持つことは,一見,客観的事実のように聞こえるが,実は原始人やそれを「みる」観察者の意思なくしては成立しない概念である.科学では客観的な捉え方を教えるが,その実,完全に客観的な認識は不可能であって,われわれが「みて」いる世界はリアリティとともにアクチュアリティとして捉えられている.木村敏は,たとえば離人症(自分が外部の傍観者であるかのように感じる,誰にでもある体験が反復・持続する)がアクチュアリティとしての認識の不全であると述べている.このアクチュアリティを認めるところに,まず議論の出発点がある.つまり,我々が「機能」という概念の存在を認めて議論を進めるのならば,アクチュアルな意志(意志が意識的であるか否かは別として)の存在も認めて議論を進めなければならない.「機能」という概念の存在をも認めない徹底した客観的な議論にこだわるのならば,意志の存在を認めない立場も納得できるが,それはこれから述べる内容とは議論の前提を異にしている.ここから議論したいのは,一旦意志の存在は認めた上で,その意志が「自由」であるか否かの問題である.
  さて,その「自由」を考えるときに,なぜイキモノにアクチュアリティが生じたのだろうか,と(木村敏に言わせれば,よけいな客観願望に従って)さらに進んでみなければならない.たとえば,同じ行動を繰り返すのみの物体に「自己」を感じ取ることができるだろうか.自己を規定するある情報のパターン,たとえば,ある人にそっくりの形や行動が再現されたとしても,その行動パターンがただ機械的に繰り返されるだけで,そこに「自己」を感じ取ることができるだろうか.これは,たとえば人を真似たロボットの場合はどうか,植物人間となってしまった状況をどう捉えるのか,さらには意識が保たれたまま外界とのコミュニケーションを失ってしまう封じ込め症候群はどうか,と,様々な状況において,様々な判断が考えられる.しかし,ある個人に対する思い出や思い入れを可及的に抑えて自身の正直な感覚に尋ねてみると,多様性を失って同じパターンのみが繰り返される状況で,そこに「自己」を感じ取ることは難しいと感じる.たとえば,植物人間となってしまった家族に話しかけたり手を握ったり様々なまた多様な働きかけを行っても,もはやそれは一方的な働きかけにならざるを得ないが,封じ込め状態では,コミュニケーションが寸断されているだけであって,家族から患者へ,また患者から家族への多様な働きかけは存在している.しかし,もちろん,このことと患者が「生きているか否か」の問題とはまったく別の次元の話である.「自己」を感じ取る条件には,この多様性とその多様状態を挟んで,ある類似のパターンが出現する状況が必要であるように思う.たとえば,日常の多様な行動の中に,ふとその人を思わせる「くせ」があったり,その人しか知らない記憶がある脈絡の中で思い出されたりするからこそ,その人の個性が確認されるのであって,ただひたすらその「くせ」が繰り返されたり,ただ記憶だけがある状態は,自己のないロボットを想起させる.「自己」があることを感じ取るためには,固有な情報の類似パターンだけではなく,予測不可能な多様な状況も現れていなければならない.
  このように,多様で混沌とした状態と,己に特徴的なパターンとの入れ替わりを,「自己」を感じ取る条件であるとすると,さらにそれを拡大解釈して,これが「自己」の成立に必要な条件である,と飛躍してみる.すると,類似パターンが自己組織的に現れる現象のみならず,予測不可能な多様性(またはカオス)状態が出現する現象も,「自己」の定義にとっては同等に重要なのかもしれない.いや,これらの現象をコンピュータ上にシミュレーションすることを考えると,類似パターンの出現よりも,むしろ,パターンが消滅した後に毎回異なった予測不可能な多様性が出現する仕組みの方がはるかに困難であろうから,後者こそが自己の成立にとってより「本質的」なのかもしれない.
  繰り返すが,類似パターンが消滅して予測不可能な多様性が出現する仕組みは,類似パターンを再現させる記憶機構と同じく,またはそれ以上に「自己存続」のためには重要であるのかもしれない.ここで,この多様性を生じる仕組みを「自由意志」と認識させる脳の仕組みを仮定してみる.ここでいう自由とは freeという英語の訳語としての「自由」ではない,これは日本語本来の「自らに由る」また禅に表現される自由自在(あるがまま)の意味に近いのかもしれない.つまり,何の制約も受けない状態をあらわす free ではなく,物事が自然の自己組織的な摂理に従ってあるがままに様々な多様性を表す仕組みを「自由意志」という認識に代える機構が脳にあるのだと仮定する.すると,「自己存続の仕組みを持った散逸構造」を特徴とする生命が,たとえばゲノムやタンパク質などの記憶機構とともに自由意志を,つまり予測不可能な多様性を生じさせる仕組みを,自己存続のための「形質」として獲得してきた構図が浮かび上がってくる.
  結果が原因を変えることによって生じる多様性は本当に予測不可能なのか,多様性出現に永続性があるのか.そもそも予測,永続性とはどう定義されるのか,といった数学的な関心に,私はあまり頓着していない.多様性を生じる仕組みを「自由意志」と認識させる脳の仕組みがあると仮定するのならば,予測の定義も永続性の程度も,数学的な定義云々の以前に,この脳の持つ記憶現象の性質に規定されているのだろう.数学者からは異端視されるだろうが,前述のようにヒトには完全なる客観視は不可能であり,何らかのアクチュアルな認識の上に数学の概念さえもが成り立っているのだとすると,多様性発現における予測も永続もヒトのアクチュアルな認識の範囲内であると理解すればいいのではないだろうか(数学自体が認識のバイアスを受けているか否かはコメントを避けておこう).
  しつこいようだが,イキモノの特徴を「自己存続の仕組みを持った散逸構造」と表現するならば,自由意志(多様性を生じる仕組みと仮定した)もまた,記憶現象と同様にイキモノがイキモノであるためにその進化の過程で獲得した最重要形質の一つであろうと思う.本来は,あるがまま,である「自由」に,脳が「free」という数学概念を置き換えてしまったために生じた混乱が,自由意志をめぐる論議を複雑にしている.ただし,私にはこれを「正しい」と主張する知識も,また意志もない.ただ,このように理解すると,イキモノやその主体性の不思議にかかわる私の客観願望はどこか満たされて,ほっとする.ここまでの文章は,ただ私個人の持つ「自己」という感覚を,私個人の知識の範囲で可及的客観的に表現してみただけのことで,これが正しいか正しくないか,という議論には,おそらく決着どころがない.「自己」という感覚のこのような表現に,読者が共感する部分があるか否かである.イキモノの機能を扱う仕事をしている者として,「イキモノとは何か,機能とは何か,意識とは何か」という,このとてつもない(危ない)疑問にも,しっかりと対峙して,その歴史を知り,科学的に議論をしておかなければならないのかもしれない.おぼろげながらの記憶をたどれば,これに近い思想も,また,生じた多様性を後から自由意志と感じている,と解釈できそうな心理学(脳科学?)の実験結果もあったように思う(運動野の脳波は自由意志よりも先行して現れる?Benjamin Libet(1983)).けれども,哲学や心理学や脳科学を専門としない身としては,自己満足(納得)したここまでの時点で思考を休止しておくのが賢明だろう.これ以上詳しくわかりやすく説明するのも,やれ,面倒な話でもある.しかし,専門の立場からご意見のある方は,ぜひ連絡をくだされ.

  私が,わざわざ専門外の内容にまで踏み込んで「イキモノ」を論じるひとつの目的は,次のような主張をしたいからかもしれない.

「人間には,自分を自分と感じることができる「しくみ」があり,そのしくみを使って,私たちは生き生きとした感覚を感じたり,他人や,他の生き物や,時には他のモノにまで「自分」を感じ,その対象を,助けたり大切にしたりすることができる.これも,人間(または生物)が自己保存と共生のために獲得した形質のひとつである.」

「縁」の自己流の解釈なのですが,,

posted by トミタ ナオヒデ at 10:23| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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