富田直秀(Naohide TOMITA)     e-mail: tomita.naohide.5c kyoto-u.ac.jp  ←を半角に変えてください。


Dr.Tomita

プロフィール

富田直秀(Naohide TOMITA)材料工学出身。もと整形外科医。現在は医療工学、デザイン、再生医療、バイオメカニクス、バイオトライボロジーなどの研究をしています。

研究とは切り離しておりますが、学生の頃から少しずつ創りためている文章、絵、写真なども公開しています。興味のある方は右のMENUからお入りください。

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2012年04月11日

歌舞伎(KABUKI)嫌い,その2:デザイナーかアーティストか

(歌舞伎(KABUKI)嫌い,その2:デザイナーかアーティストか)
  2011年10月03日のブログ(歌舞伎(KABUKI)嫌い」を書いてから,超格安の一等席券を手に入れる幸運などにも恵まれて,歌舞伎を何回か観劇する機会に恵まれた.結論から述べると,観劇するたびに,より歌舞伎が嫌いになり,また,より好きにもなった.あれこれご託を述べる前に,京都四條の南座で観劇した秀山祭三月大歌舞伎の内容を簡単にご紹介しよう.夜の部その一,俊寛(しゅんかん)では,平清盛への謀反を企んだかどで鬼界ヶ島に流罪となった俊寛僧都を中村吉右衛門が演じた.人里離れた孤島の殺伐とした風景の中にぼろをまとった吉右衛門が登場すると,開始早々から会場は大きな拍手に沸いた.拍手を受けて吉右衛門の表情に,ほんのかすかに浮いたような色が浮かんだ,と感じて,私は,あれ?と首をかしげた.以前に私は,歌舞伎のやくざなところ,やんちゃなところ,大げさなところが嫌いであり,また同時にそこが魅力でもある,と両価的な感想を述べた.その両価性の魅力の側を私に見せつけたのが洗練された吉右衛門の演技だった.「洗練」とは,その演技技術の高さの以前に,まず役への没頭が絶対条件だと私は考えていた.孤島での三年間の流人生活の疲弊を表現する「俊寛」の登場場面に,たとえかすかにでも吉右衛門が観客を意識していたのだとしたら,私が想像していた「洗練」とは少し違うところに歌舞伎の「洗練」があるのかもしれない.
  あの色は私の見間違いであったろうか,と迷いを後に残して,舞台上では流人たちの島の生活が淡々と表現されていく.俊寛は,2人の流人仲間と日を置かず合っては,共にその寂しさを慰め合っている.その日は,流人の一人である成経が土地の海女の千鳥と夫婦になったと聞き,みなでささやかな祝言を開く.俊寛は友人の幸福に笑い,その笑いがしだいに細く枯れて泣き声になってしまう演技でも吉右衛門は会場を泣かせた.そこへ都から赦免船があらわれて,3人は都に帰れると手を取り合って喜ぶが,赦免船から降り立った役人は,俊寛にだけは赦免はなく,俊寛の妻もすでに殺害された,と告げる.落胆した俊寛は,せめて千鳥を成経と共に船に乗せてやってくれと頼むが,これも聞き入れられず,思いあまってこの悪人役の役人を殺してしまう.罪を重ねて,たった一人で島に残ることになった俊寛が.高い岩の上から都に帰る船を見送る場面がこの劇の最大の見せ場だ.岩をよじ登り,視界を遮る松の枝を払う仕草にも,鬱蒼とした島での生活が表現されている.そうして,都を慕う気持ちの強さやこれから一人で耐えなければならない時間の重さが,吉右衛門の無言の動作の一つ一つに鮮烈に表現されていた.
  さてここで,吉右衛門が初っぱなに観客を意識する色を見せた,と感じたのは私の思い過ごしだったろうか.おそらく思い過ごしなのだろう.けれども,歌舞伎を司る人たちは顧客の感動を目標としてデザインをしているのだ,と考えれば,剛から柔へ,動から静へと豹変を見せる構成や,大げさな動作,その色,音,みえ,,歌舞伎の構成の一つ一つに,なるほど納得がいく.吉右衛門がもし仮に,感動を操るデザイナーのしたたかさをちらりと見せたのだとしても,観客はそれを百も承知なのかもしれない.能舞台が,作意を徹底的に廃したアートとするならば,歌舞伎を司る人たちはアーティスト artist よりもデザイナー designer としての誇りを持っているのではあるまいか.アーティストには原則として顧客や作意といった概念がないのに対して,デザイナーにははっきりとした顧客意識がある.やくざでやんちゃで大げさな演技は,作意や計算を恥じていないデザイナーの誇りの現れなのかもしれない.工学のものつくりにたとえるならば,歌舞伎にはおそらく顧客の要求を書き下して目標にする「仕様」さえも存在するのかもしれない.
  次の船弁慶(ふなべんけい)では,能と同じように笛,鼓,小太鼓を並べて,謡曲に似た音と場面を作りだしている.その台詞や進行は能よりもはるかにわかりやすく派手やかだ.ずらりと三味線もならび,大きな明るい舞台装置で目の前に赤々とした物語を展開してみせる.義経との別れを惜しむ清らかな静御前役と,後に海を荒らして義経の行く手を阻む平知盛のおどろおどろしい亡霊の役を同一人物(又五郎)演じるなど,ここでも豹変の妙を見せて観客を楽しませる計算がある.この歌舞伎の派手やかしいデザインに比較すると,能では背景の松の絵と通路に飾られた松の小枝以外にはこれといった舞台装置はない.事前に物語を知らなければ,話の筋さえ劇から聞き取るのは難しいだろう.薄暗い舞台と動きの少ない舞に夢うつつとなった時に,どちらが現実か夢かわからぬような境地に包まれるのが能の醍醐味だと私は感じているのだが,そこに感動を受け取るか否かはそれぞれの観客側の裁量であって,役者は観客に頓着なく,また計算もなく,ただひたすら役に没頭している.
  歌舞伎で演じられる船弁慶は,一見,能の演出を派手に,わかりやすくしただけのように見えるのかもしれないが,能と歌舞伎はお互いにまったく正反対の極致を表現しているように私には思える.作意を徹底的に廃した能がアートとしての演劇の一つの極みであるとするならば,歌舞伎は顧客の感動を仕様としたデザインとしての演劇の一つの極みなのではあるまいか.
  歌舞伎と能とどちらが好みかと問われれば,その無心さにおいて私は能を選ぶ.もちろん歌舞伎も無心の芸だが,その無心を冷静に眺めているデザイナーとしてのしたたかさもあるのではあるまいか.しかし,では時間とカネが手に入たときに,双方のどちらの公演を見に行くかと問われると,歌舞伎に行ってしまう場合が多いだろう.嫌だと言いながら悪人に惹かれてしまう女性の心理に,私のこの両価性の感情は似ているのかもしれない.歌舞伎は,やはり娯楽として格段に面白いのだ.やや的はずれな例だが,ディズニーランドと博物館のどちらに行くか,プロレスと相撲とどちらがどきどきするか,という問題にも似ているような気がする.娯楽性と言ってしまうと一見浅はかな表現だが,顧客の求めるものをしっかりと意識して,その要求に忠実に応えて設計(デザイン)を行うこと,そうして,無心の自分を冷静に眺めているもう一人の自分を意識すること.これらはデザイナーの特質というよりは,近代の仕事人に共通する特質でもあるのだろう.アートを気取らないデザイナーのしたたかさと合理性は,グローバルな社会を生き抜くための一つの処世でもあるのかもしれない.私はあくまでアートに憧れるが,しかし実際には優れたデザイナーのしたたかさに流されてしまう弱さを持っている.この私の弱さは,グローバル社会に適応しようともがいている現代人の弱さと悲しさそのものだ.

posted by トミタ ナオヒデ at 18:26| 論文調の独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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