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Dr.Tomita

プロフィール

富田直秀(Naohide TOMITA)材料工学出身。もと整形外科医。現在は医療工学、デザイン、再生医療、バイオメカニクス、バイオトライボロジーなどの研究をしています。

研究とは切り離しておりますが、学生の頃から少しずつ創りためている文章、絵、写真なども公開しています。興味のある方は右のMENUからお入りください。

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2013年07月27日

なぜ,医療にアート・デザインが必要なのか

           なぜ,医療にアート・デザインが必要なのか 

                            
                      京都大学工学研究科,医療工学分野
                        富田 直秀

  最近の私は医工学の研究仲間よりもデザインやアートの世界の人たちと頻繁に交流を続けている.現代の医工学研究の方向性だけでは,どこか納得のいかないものを感じているからだ.工学設計の本質は仕様に表された目的機能を達成するための機械的な「行為」だが,デザイナー・アーティストの仕事には,どこか「私が私である」ことの「仕草」や「有様」が含まれている.そうして,医療においては,命を長らえたり便利に快適に暮らしたりする機能よりも,まず「私が私である」という「仕草」や「有様」が考慮されなければならないと思う.病に倒れ,自身の行為を自己決定できず,周囲との関係性を断たれ,さらに死を意識したときに,人は身体の機能のみならず「私が私である」という自己を見失うのではないだろうか.医療現場で出会った人たちの多くは,それまで当たり前であった「私」が当たり前ではなくなってしまい,「私」という仕草や有様を探して彷徨っていたように思う.医療現場には,機能回復のための医学のみならず,「私」という仕草や有様を扱うデザインやアートの視点が必要であると切に思う.(行為(acte)と,仕草(geste)または有様の違いに関しては,(注)をご覧ください)
  もちろん,医学に工学設計の概念と手法が必要不可欠であることには何の異論もないし,また現に私の仕事の大部分は工学設計を基礎としている.工学は機能回復のための様々な技術を生み出しており,その技術は医学の中においても中心的な役割を演じつつある.しかし,医療現場ではそれぞれの患者が「私である」ための一つの手段として機能回復技術を用いているのであって,機能回復が最終目的なのではない点を誤解してはいけない.たとえば,ナースコールを頻繁に押す患者が必要としているのは,まず根本的に「私が私である」という有様の回復であって,眠剤や鎮痛剤の処方や監視モニターや自動介護装置は,そのための手段の一つにすぎない.検査や治療といった異次元の体験に,私たちはどのような仕草や有様で対峙するのだろう.文字で説明される原理や合理性のみならず,形や色や物音にも大きな役割が与えられる.治療が「安全」であることももちろん大切だが,100%の安全が不可能である中でいかにヒトが安心でいられるかはアートの問題である.失われた機能を補う最先端の医療機器や医療技術があって,その後にデザインやアートが考慮されるのではなく,医療現場ではそれぞれの私が私として生きるための有様がどのように崩されていて,それがどのように回復するのだろうか,と考えるところから技術開発は始まらなければならない.現場に脚を運ばずに,仕様に書き下された機能を目的として開発が始まり,書き下された設計解によって技術が作られるのではなく,設計の前に,そうして設計と共に,自己存在そのものに働きかけるデザインやアートの視点が加わらなければ,医療技術は人の生活に中に活きてこない.デザインやアートの視点とは,まず現場に脚を運び,そこにある様々な仕草や有様を直接に実感として感じ取ることでもある.
  京都市立芸術大学ビジュアルデザイン科では,3年ほど前から医療の現場が潜在的に抱える問題を発見し,その解決のためのモノやサービスをデザインするProblem Based Lerning 「病院のデザイン」を学部生の授業として行っている.大学近くに住むある老人が芸大ビジュアルデザイン科の辰巳教授のもとを訪れて,病院で使われているピルボックス(いつどの薬を飲むかを指示した薬のケース)を示して,こんなわかりにくいモノが今も使われている,デザインの力でなんとかできないだろうか,と訴えたところからこの活動が始まったらしい.「何の解答も出せないまま老人は亡くなってしまいました」と辰巳先生は言われるが,「病院のデザイン」でこれまでに発案されたアイデアの数々(ベット横に置く小物入れ,患者説明シート,子供の注射補助,患者への説明システム,小児待合室デザイン,生活支援グッヅとその販売システム,などなど,,)は,「私が私であること」を患者が取り戻すための具体性の宝庫だった.誤解を恐れず言うならば,国がここ十数年の間に何兆円もの経費をかけて進めてきた医療分野における技術革新を,ある意味において凌駕していると私は思っている.これまでの研究開発努力が機能回復を目的とする医学として頓珍漢であるわけではない,ただ,それらの開発の多くが言葉に表された要求機能を目的としていて,その中心にある患者の生活と自己存在性が製品やサービスの対象から排除(Exclude) されがちであったところに問題があるのだと思う.
  対話や観察から得た気づきをもとに開発を行うこのインクルーシブデザイン(Inclusive design) は世界でも少しずつ広がりつつあるが,方法論として二つの問題をかかえている.一方は,「みる」能力の欠如である.私たちは本当に病人を,障害者を「みて」いるだろうか.ちらりと形を見て,機能不全をかわいそうと思い,それを形式として理解していないだろうか.インクルーシブデザインの多くが芸術大学で行われている理由もここにある.芸術大学では徹底的に「みる」ことの訓練から始まる.直接的に経験し,主と客とが無分のところで「みる」ことで初めて,形式と内容の共存が可能になるからだ.「病院のデザイン」には今年から京大側の大学院生も参加させていただいているのだが,フレームワークを定めずに,つまり,目的を定めずに現場に行って,そこにある生活を「みる」力そうして,生活をデザインする力において,我々は終始圧倒されていた.もう一方の問題は,生まれ出たアイデアは「だれが」デザインをしたもので,「何が」特徴であって,今までの技術とどこが異なるのかを記述することがとても難しいことだ.ボランティア活動などの自主的に行われる活動の中で活かされるアイデアの場合にはそれがいちいち記述される必要はないが,持続的に役に立つ仕組み(事業)となるためには技術の明確化と記述が必要となる.特に医療現場で行われる活動には人の命にかかわる責任が伴うため,ある程度の利益と独占性が保証されなければなかなか持続性が得られない.医療現場の特殊性の説明は難しいのだが,極論を言うならば,命の長さよりも命の深さを優先させる概念は,現在の日本の医療システムの中ではまだ公認されていない.医師法によって医師のみに医業が許されており,生命維持や機能回復にかかわる責任が医師に集中していること,チーム医療システムの浸透度の低さ,日本の医療文化,などなど様々な要因が重なって,機能回復への貢献がエビデンスとして明白に記述される技術が優先して事業化されてきた.逆に,たとえ医療スタッフや患者が生活の質の改善を実感する技術やアイデアがあったとしても,ほんの少しでも機能回復治療を阻害する可能性のある行為は回避される傾向にあった.その大きなギャップを乗り越えて,生活の質を優先させる技術が持続的に医療システムの中に生き続けるためには,特有の専門的な知識と配慮を必要とする.現行の医療システムの中で,ああいいね,と実感を得る技術が持続的に運用されるためには,医療現場を熟知した専門家による事業化が欠かせず,そのために技術の明確化と知的財産化はとても大切な方法論となる.京都市芸大と京大の共同授業「病院のデザイン」では,「みる」ことに長けた芸大生と,「記述」に長けた京大生が,いかに相手を尊重し,吸収し合い,与え合っていけるかがカギとなっている.まず現場に脚を運んで「実感」をしっかりと捉え,そこで得られた気づきを実例画像やメタファーなども含めた様々な方法で提示し,アイデアを整理し,さらにその中からポイントとなる概念を明確に洗い出して記述し,試作し,最後にはまた実感に戻る,といった繰り返しが必要なのだろう.そうしてこれは,単にものつくりのための方法論にとどまらず,真の豊かさとは何か,生命とは何か,といった根本問題への問い直しを行うことにもなっているのだろうと思う.
繰り返すが,命の長さよりも命の深さを優先させる概念は,現在の日本の医療システムの中ではまだ公認されていない.医療分野におけるアートやデザインの視点とは,医師という個人だけではなく,社会全体が命の長さよりも命の深さを優先させることの責任を担いながら生きることの「質」を考えていく動きでもある.小澤竹俊(臨床看護,vol.30, no.7, 1023-1126,2004)によれば,自己存在には,自分の意志で生き自己決定できる「自律存在」,明日の自分を想像し過去を引き受け未来を展望できる「時間存在」,そうして,支えとなる関係がある「関係存在」の三つの意味があるのだという.医学が提供する機能回復技術は,これらの自己存在を回復させるための有力な一手段であって,機能回復自体が医療の目的ではないことの理解が大切であると思う.

  ところで,ここまでデザインとアートとを一緒くたに述べてきたが,両者の間の違いに関しては,私はまだはっきりと区別ができているわけではない.ここまで述べてきたように,機能を対象としているエンジニアから見ると,生活そのものを対象として扱うことのできるデザイナーはアーティストであるとおもえる.ただ,高い技術を有しながら,その技術を邪悪と感じ,技術から逃れようとする場面が,いわゆるアーティストと分類される人たちには多いように思う.技術には(自然に見せる)とか(すっきりさせる)といったような目的が不可避に付随するが,その目的性に形式・内容分離の欺瞞を感じ取るからだろうか,また創造する自分を客観的に観察する職業的なメタ認知をたいていのアーティストが身につけているが,その客観性に主客分離した邪念のような感覚を感じ取るのだろうか.エンジニアとアーティストとの共同作業の難しさの一因に,なかなか目的を設定することのできないもどかしさがあるが,形式に内容が内在するアートに本来目的はないのだろう.そうして,目的に向かう「行為」ではなく,存在そのものに働きかける「仕草」や「有様」を表現するからこそ,アートは誰にとっても重要なのだろうと思う.たとえば,一枚の絵が,一つのアイデアが,万人のそれぞれの生きる「仕草」や「有様」に働きかけることが可能ならば,何兆円もの国家プロジェクトを凌駕する力を持つのだと思う.



(注):行為(acte)と仕草(geste)または有様の違い.
  行為は客観的な空間の中で対象化されるが,仕草,有様とは受け取る側の内面で定義される.サルトルによれば,「存在するためになし遂げられる行為は,もはや行為(acte)ではなく仕草(geste)である」のだという.このサルトルの表現した仕草と,ここで言う仕草や有様との整合性には未だ確信を得ていないのだが,私の解釈によれば,サルトルの言う仕草は動きだけではなく,様子やたたずまいといった有様もあらわしていて,たとえば,植物やモノにも仕草を感じることがあるが,それは植物やモノではなく,あくまで「みる」側の自己存在に関わっている.
  「私が私である」ことが当たり前であるとして私たちは日常生活を営んでいるが,前述のように,疲労や病気の状況に陥ると私たちは自己存在が当然ではないことを思い出すのだと思う.魚住洋一氏(他者の現象学U(哲学と精神医学の間)中の「毀(こわ)れものとしても<私>」-自己意識の政治学のために-)の言を借りるならば,「私が私である」ために,わたしたちはニセの自分になりきるという<自己欺瞞>を代償として支払わなければならない.そういった無意識の自己欺瞞の上に,私たちの日常生活が成り立っている.以前私は,アートにはどこか絶望的なものを感じる,と述べたが,その絶望とは暗く陰湿で解決法の無い客観的な状態を指すのではなく,「私が私である」という仕草や有様を求めて彷徨っている状況を意味している.医療においては,患者の行為を客観的に観察する視点と,患者の立場となってその仕草や有様を感じ取る感性の双方が求められる.後者は単に感情の問題ではなく,感じ取る側も「私が私である」ことが当たり前ではない彷徨いがあって,まったく別々の彷徨いが偶然に出会うような状況であり,私はそれをアートと称している.
  蛇足だが,この定義に従うならば,たとえ目標に向かう計算された行為を行っている人であっても,その動機が自己存在のための仕草であると感じることができたとき,私はその人にアートを感じる.これはあくまでそれぞれの「私」の出会いの問題であって,仕草や有様は客観的に捉えられず,よってアートも客観評価され得ず,また,本質的にはアートは対象化さえ不可能なのではあるまいか.


posted by トミタ ナオヒデ at 19:14 | TrackBack(0) | アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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