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Dr.Tomita

プロフィール

富田直秀(Naohide TOMITA)材料工学出身。もと整形外科医。現在は医療工学、デザイン、再生医療、バイオメカニクス、バイオトライボロジーなどの研究をしています。

研究とは切り離しておりますが、学生の頃から少しずつ創りためている文章、絵、写真なども公開しています。興味のある方は右のMENUからお入りください。

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2013年12月30日

奥行きを「み」る (医療工学の視点から)

(2013年度,京都市芸術大学テーマ演習「奥行きの感覚」(中ハシ克シゲ,重松あゆみ,小島徳朗)資料)


奥行きを「み」る
(医療工学の視点から)

                   京都大学工学研究科医療工学分野 
                    富田 直秀(tomita.naohide.5cアットマークkyoto-u.ac.jp)

  まず,私は一種の書痙であって,子供のころから字や絵などは大の苦手であった.中学時代の担任であった初老の教師は,長い職歴の中で私ほど字の汚い人に会ったことがない,と言った.意識的に制御しようとすればするほど私の手指から生まれ出てしまう「不良」の形や色が,この文章を読んでいただくための,まず第一の背景である.その私から見ると神様のような目と手指を有している芸術大学の先生や学生の方々が,その技術を否定したり,また時にはそれを「邪悪」などと言って悪ぶるのだから,上記のような背景を有する私は(少なくともこの文章の中では)徹底的にグレてやろうと思うのである.
  私はさらに病的な記憶力の悪さを有している.意味の流れの中に位置しない名詞を一切覚えることができない私は,頭の中に現実のシミュレーションのような機能を持っていて(これは実はだれにでもある機能なのだが),そのシミュレーションを過去に戻して記憶を補ったり,また時には未来にシフトさせて予測を行って,日々の生活をかろうじて支えている.記憶力の悪さは画像記憶にまで及んでいて,つい数秒前に見ていた画像も,懐かしい友の顔もすぐに忘れてしまう私は,やはりシミュレーションを過去に戻して画像を呼び起こしたり,また未来にシフトさせて構造の変化を予測しているように思う.スポーツ選手が一瞬先の予測像を無意識に「み」て素早い動作を実現しているように,おそらく,これも多かれ少なかれ誰にでも生じている現象であろうと思う.つまり,私たちが現実として「見」ているつもりの画像には過去や未来の予測像がある程度含まれているであろうこと.これが,この文章を読んでいただくための第二の背景である.
  さて,この文章を書きはじめた今日は,テーマ演習「奥行きの感覚」の先生・学生とともに豊田市美術館に,不思議な「奥行」を感じさせるジャコメッティの像を「み」に行ってきた.海外出張と国内出張に挟まれた一日を,しかも重要な研究費の応募締め切りを目前にして忙殺されているはずの時間を,ただぼんやりと「み」ることにすごしている私は,すでに相当に芸大時間に馴染んできている.この集団の中にいると,課せられた義務を忘れて存在に対峙することが,まったく異常ではなくむしろ自然に感じられる.そうして,工学部で鍛えられた脳みそ,つまり,漫然と存在するモノを座標に囲んで時間に分断して「理解」しようとする脳みそでは決してとらえることのできない表現,たとえば,「ここからみると違った世界が広がるけれども,こうみるとただのモノになってしまうでしょう?」といった言葉が,たしかな実感を伴って迫ってくる.工学部で使われる「見」るという動詞は,おおよそ3次元空間内に漫然と存在するモノを2次元に投影して脳に送り込む現象を表すが,ここでは,今,今,今,,と続く偶然の出会いの集積を全身で受け止める体験が,「み」る,であるらしい.
  工学は事実とその関係性を座標の中に描くことによって「理解」し,さらに設計という作業を経て機能を創造する.私が専門としている医療工学の世界では,ヒトが歩いたり喋ったり食べたり考えたりする現象を様々な座標の中で機能として「理解」する.歩く機能、喋る機能,考える機能,そうして生きている機能をどう定量化して,どのように技術で支えるのだろうか,といったことを考えている.そういった活動の一つ一つは真摯に進められているのだが,問題は,それらの活動が科学として座標の中で「理解」されればされるほど実感を離れ,技術に「私」が不在となり,その効果が他人事となってしまうところにある.私たちは病人や障害者を客観的に「見」ることはできても,その出会いを「み」ることができなくなってしまった.今日の私が,課せられた義務を忘れてジャコメッティの像の前にぼんやりと立ち,この不思議な存在感を「み」ることを学ぶのには,十分な言い訳があるのである.
  それでも,科学的な「理解」に洗脳されている私の脳は以下のように考えてしまう.たとえば,立体の正面像の輪郭線形状を「見」ただけで側面像の輪郭を言い当てることは原理的には不可能であるはずである.正面から見て円形であった像の側面像は四角でも三角でも無数の可能性がある.我々が,人の顔の正面輪郭像を見ただけでその側面輪郭像を相当に高い確率で言い当てることができるのは,おそらく,得られた二次元画像を記憶された顔の様々な立体像パターンにあてはめて認識する(パターン認識)を無意識に行っているのであろう.さらに前述の脳内の現実のシミュレーション像を立体視した情報とを結びつける一種の座標変換のトリックによってジャコメッティの像が創りだす奥行の感覚も理解することができるのかもしれない.しかし,それは「理解」しただけ,つまり座標に囲んで時間に分断してその関係性を心に描いただけのことであって,おそらくわたしたちが求めているのは,理解よりももっと実感を伴った納得であり,事実よりもさらに存在そのものに関わる真理なのだろう.
  グレた脳みそはさらにこう思うのである.理解のない誤解があることはまあ認めよう.しかし,そもそも誤解のない理解などあるのだろうか.理解と誤解とは独立に存在するのではなく,理解は誤解の中に包含されていると,私は思うのである.私がかつて臨床医であったころ,病に倒れ,自身の行為を自己決定できず,周囲との関係性を断たれ,さらに死を意識した人たちに対して,私たちは患者の機能回復を目的として行動した.その努力は医学的な理解に従って行われたが,別の視点から見ると医学はヒトの存在に関わるとても大きな誤解の上に成立しているのかもしれない.たとえば,命の長さだけではなく命の深さを考えるような「奥行」の概念は,医学が持つ科学的な座標の中だけでは表現され得ない(著者ブログ(http://tomitaken.seesaa.net/)2013年07月27日「なぜ,医療にアート・デザインが必要なのか」参照).検査技術の発達やエビデンスの確認によって身体機能は以前よりも正確に「見」えるようになってきたが,患者の棲むリアリティの世界をしっかりと「み」(看,観,診,,,,)ているか否かは,まったく別の次元の話である.
  ずいぶんと脱線してしまったようだが,要するに,神様のような目と手指を有している芸術大学の先生や学生の方々が,その技術を否定したり,また時にはそれを「邪悪」などと言って悪ぶるように,患者から見ると神様のような技術を持った医師たちも,また設計能力に優れたエンジニアも根本的な疑問の目で技術と機能という視点を疑ったり,また時には「邪悪」などと言って悪ぶる必要があるのだと思う.私がこのテーマ演習「奥行きの感覚」に参加させていただき,ジャコメッティの像など様々な作品に対峙し,多くの先生方や学生と時間を共有して「奥行き」を知ることの意味は,単にその感覚のメカニズムを理解するためだけではない.正確に理解すればするほどとてつもない孤独の中にある「私」が,モノを介して自他の渾然とした「私」と出合うことができる奇跡(在り難さ)を知る,そうして,真のリアリティとは何か,といった問いに向かう一つの道筋が,この出会いの中に見つかるような気がしているのだ.


P.S.:2013年10月27日にここまでの原稿を擱筆したのだが,その後の経過もお話しておかなければならない.久しぶりにテーマ演習に参加すると,中ハシ克シゲ先生と小島徳朗先生がお互いをモデルとして試験的に粘土を造形する現場とその生の作品に出合うことができた.その時に,私の目の前に現存していた強い存在性は,私の立脚する(工学的な?)リアリティを揺るがして今に至っている.私たちが「事実」を確かめるために用いる科学的認知は線条性linearity,つまり,逐次情報を感知して頭の中に論理的に積み上げることによって構築されている.その世界では,たとえば同時を同時として観察することは不可能である.現示性presentness,つまり,全体を同時に直感的に把握することのリアリティを,私たちはもっと重視しなければならないのではないだろうか.「長い文章を書くとね,創作ができるようになるまで相当に苦労をするんですよ」と中ハシ先生は言われる.おそらく,線条性を離れて現示性のリアリティを「み」るのは,私が考えているほどにたやすいことではないのだろう.テーマ演習「奥行きの感覚」は,言語的表現と科学的認知の線条性に頭の先まで浸かって生活をしている現代人が,現示性のリアリティを「み」ることの難しさと重要性とを,私に語っている.






                            
posted by トミタ ナオヒデ at 17:45 | TrackBack(0) | 論文調の独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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