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Dr.Tomita

プロフィール

富田直秀(Naohide TOMITA)材料工学出身。もと整形外科医。現在は医療工学、デザイン、再生医療、バイオメカニクス、バイオトライボロジーなどの研究をしています。

研究とは切り離しておりますが、学生の頃から少しずつ創りためている文章、絵、写真なども公開しています。興味のある方は右のMENUからお入りください。

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2014年01月31日

願いと祈りとの違い

  願いと祈りとの違い  
        富田直秀

  宗教が,なぜこうも争いの火種になるのだろうか,と海外のニュースを見聞きするたびに不思議に思う.日本の歴史の中でも,争いの影にはいつも宗教の姿があった.権力と宗教との関係云々の以前に,祈る行為と争いとが同じ日常の中にあることに違和感はないのだろうか.
  強い願いがあって,その願いが別の強い願いによって妨げられるならば,確かにそこには争いが生れるのだろう.心からほしい何かを取り合うならば,赤ん坊であっても,いや赤ん坊のように無垢であるからこそ時に残酷な争いが生じる.しかし,本来,祈りには目的がないのではあるまいか.祈りが目的を持ったならそれは願いではないか.こころの底からの強い願いを祈りと称しているところに,争いの源があるのではないだろうか.
  私は特定の宗教を持たないが,ここ数年の間に医療事故や初期乳がん等が次々と妻を襲い,いつの間にか祈りのような行動の習慣が身についている.無事を祈るのだが,しかし,無事は私の願いの目的であって,祈りの目的ではなかった.妻の病状が悪化して絶望が心を支配するにつれ,私の願いは少しずつ祈りに近づいていったように思う.結果的に妻は健康を取り戻したのだが,その奇跡が祈りの結果だった,などと言いたいのでは決してない.ただひたすら無心であったところにこそ祈りの意味があったように思う.
  どのような宗教でもその根本のところでは,この祈りの無目的性を唱えているのではあるまいか.それぞれの宗教の,それぞれの指導者が教えの歴史の中に祈りの無目的性を探し出すことができれば,宗教を争いから遠ざけることができるのではあるまいか.
  蛇足を続けるならば,かつて臨床医師であった私は,気力が,おそらく免疫系を介して感染症などの抑制に想像以上の効果をもたらす事実をいくつか見てきた.それと同時にいかに真摯な祈りであっても現実を変えることはできないことも目の前に見てきた.気力によって物事が好転する例があること,祈りによって物理法則までが変化して奇跡が生じるわけではないこと,そうして,祈りによって心の平安が得られること,それらが混同されて,宗教を司る者までが祈りに目的を付随させてしまう習慣を身につけてしまったのではないだろうか.気力による願いの成就という現象(おそらく,気力の免疫作用や,集中による効率化といった効果が影響しているのだろう)を祈りと混同してはいないだろうか.苦しむ妻の前で何もできなかった,というその絶対的な無力に祈りが生じた.この絶対無力の上に祈りが存在していること,だからこそ祈りは本来無目的であること.このことは,どのような宗教でもその長い歴史のどこかではかならず教えとして述べられているはずだ,と,私は科学者のはしくれとして確信する.それは,この祈りと願いとを区別して祈りを無目的とする姿勢が根底にあるからこそ,宗教と科学が,宗教と現実生活が,そうして,宗教と芸術とが調和をして今日まで共存してきたのだろうと考えるからだ.


posted by トミタ ナオヒデ at 09:57 | TrackBack(0) | 論文調の独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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