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Dr.Tomita

プロフィール

富田直秀(Naohide TOMITA)材料工学出身。もと整形外科医。現在は医療工学、デザイン、再生医療、バイオメカニクス、バイオトライボロジーなどの研究をしています。

研究とは切り離しておりますが、学生の頃から少しずつ創りためている文章、絵、写真なども公開しています。興味のある方は右のMENUからお入りください。

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2007年08月10日

未知要素を含む系における信頼性

「デー タの信頼性と人の距離」に関する論文調の独り言です

「 実用化研究においてはあらゆる場合を想定した評価が必要であるが、実際には実用における状況の再現と完全な定量評価は不可能である。未知の要素を含んだまま高い信頼性を得るための科学的な試みはいろいろと模索されているが、この点においては未だ職人技術の域にまで達していないのが現状である。本論文では医療福祉分野を例にとって、まず信頼性獲得における「職人技術」の重要性、さらに「人の距離」と「共感」の果たす役割を考察し、次に「心の距離」の持つ意味を私的な立場から探ってみたい。・・・1. はじめに

 科学における信頼性と人の信頼とは本来は次元の異なった問題である。前者が客観性に基礎をおくのに対して、後者には主観が重要な位置を占めている。しかし、実際の開発現場においては科学的な信頼性のみならず、しばしば主観的な信頼性が重要な役割を担っている。ここでは医工学分野を例にとって、信頼性の高い「ものずくり」を行うための職人的な手法の重要性と、そこに求められる「人と人の距離」に関して考察する。

2. 医療現場における信頼性

 一般工業製品の性能や安全性は実験から得られたデータに頼って評価されている場合が多い。しかし、その実験が実際の使用状況を反映していなければ、いかに信頼性の高いデータであっても製品の性能や安全性を保証し得ない。たとえば、医療分野では個々の異なった心理的、社会的背景を持った病人を対象にしているため、常に不確定な未知要素を抱えている。たとえば、「痛み」一つをとってみても、そこには未知の様々な要素が関係している。未知の要素が存在する場合には実験と臨床との整合性を確かめることができないので、本来はいかなる実験系でも有効性と安全性を保証することはできない。しかし実際の医療では個々の患者に対して非常に高い責任が要求されている。この要求と現実の間の大きなギャップを埋めているのが医療における職人性と人と人の間の距離の近さである。その具体的な2例を以下に挙げる。

2.1 診断
 たとえば医師がある診断を下す場合を想定する。図1A)のように、症状から想定し得る多くの診断の中からある一つの確定診断にたどり着くためには、数多くの検査(検査1,検査2、、、)が必要である。しかし、実際の臨床の場でA)のような方法を取ると、確定診断がつくまでの間に膨大な量の検査が必要となり、あまりに多くの時間と労力のために治療に至ることができない。たいていは自然治癒するか手遅れになってしまうだろう。実際の臨床では B)のごとく、まず、医師の職人的な経験と勘によっておおかたの診断を下す。たいていは患者が診察室に入って椅子にすわり、顔を合わせて2,3言ことばを交わすまでの間にもう8割がたの診断を終えてしまっている場合が多い。その仮診断に対して侵襲が少なく、また、適応の広い治療を開始しながら、同時に検査を進めて行き確定診断と治癒を目指すのである。たとえ最初の診断が間違っていたとしても、侵襲の少ない、またどんな診断であってもある程度は有効な治療から始めているために多くの場合は問題にならない。こういった方法をとる理由は、前述のように医療では常にわかっていない要素、unknown factor をかかえており、しかも多くの場合は速やかで確実な治療が求められているからである。

2.2 治療説明
 図2は、ある新しい治療法を医者が患者に説明している場面である。(福井次矢訳、田島康正画「ドクターズルール425」南江堂、より一部合成作製)1)2通りの説明を考えていただきたい。一方は机の上にあるグラフや表に象徴されるように、非常に信頼性の高い多くの実験から安全性や効果を説明する方法。もう一方は、たとえばある有名人がこの治療を受けた結果すっかりよくなって、現在も機嫌よく診察にやってきますよ、といった説明である。はたして読者はどちらの説明に信頼をおくだろうか。著者はこの講演や講義をする度に会場の方々に答えを選択していただいているが、たいていは後者の例を信頼すると言われる方が多数を占める。実は著者自身も後者を選択する。科学的に考えれば、後者のようなたった1例のデータでは統計学的な有意は成立し得ない。しかし、この有名人のカルテには検査結果、手術記録から入院中の行動に至るまでの膨大な量のデーターが詰まっているはずである。そうして、この有名人が「現在も機嫌よく診察にやって来ている」事から、現代の科学では評価が困難な「痛み」や「苦痛」に関する情報も提供されているのである。後者が正解である、と言っているのではない。科学的に証明され得ない信頼性も重要であることを主張したいのである。
 さて、この質問にはそれぞれ最も重要な情報が欠けているではないか、と言われる読者もおられることと思う。たしかに前者ではこの実験データがいったいどれだけ臨床的事実をを反映しているか、後者では、はたしてこの説明している医者が信頼できる人物であるか否か、に関して述べられていない。言い換えれば、前者の客観評価では実験的事実と事実との整合性が述べられておらず、後者の主観評価では大前提となるべき患者と医師との信頼関係が述べられていない。にもかかわらず、大多数の方がすぐさま上記の質問に答えることができたのはなぜだろうか。おそらく、漫画として描かれた医師の表情が信頼感を想起させたのに対し、机の上に置かれたグラフや表からは退屈で難解な説明が連想されたのではないだろうか。そういえば、客観データを信じると答えた人の多くは大学の教職にある人であった。難解なデータを根気よく理解し、性格が良さそうだからと言って簡単には話を信用しない人物が、一般には大学教員に向いているのだろう。
 冗談はさておき、ここに重要な問題が隠されている。科学的な信頼性は科学的な思考方法を訓練された一部の人間にのみ理解可能であるのに対して、主観的な信頼性は、たとえばこの絵のように、瞬時に誰にでも伝わりうるのである。

3. 職人芸における信頼性

 未知を含んだまま信頼性の高い創造を行う点に関して、近代技術は職人技術の足元にも及ばない。どんなに医療技術が進歩しようとも、根本は職人芸の上に成り立っていることは言うまでもない。上に挙げた2例をこの観点からもう少し考察してみたい。
2つの例で重要なのは医師と患者の間の距離である。たとえば、例 2.1の診断において同じ病状の患者であっても人によって全く表現が異なる場合がある。作話であって実際にはない症状だったり、心身症による症状である場合もまれではない。医師は患者の目を見たり態度を観察したりして言葉以外の情報を得るのである。医師と患者の心の距離が遠ければとんでもない誤診を招くことにもなりかねない。例 2.2の治療説明においては、逆に患者が医師を観察して患者の心が医師に近づくことによって信頼性が生じている。それでは人同士が直接接しない場合はどうだろうか。図3は刃物職人さんの仕事風景写真である。たとえば、刃物を使用する大工さんと刃物職人さんとは直接に会っていなくとも製品の信頼は保たれ得る。その信頼性は、たとえば「刃の切れ味」といった感覚に支えられているのだろう。それでは、そういった感覚の定量化と最適化を行えば工業製品が職人芸に近づくことができるはずである。事実、外科の世界でも現在では機械加工された使い捨てのステンレス製のメス刃の使用が主流となっている。ただし、手術用のはさみは未だに職人さんの作った非常に高価な製品が好んで使用される。こういった製品は切れ味もさることながら手に持った感覚が何とも言えず快いのである。おそらく、こういった感覚もいずれ定量化最適化され得るのだろうと想像する。それでは、こういった科学技術の進歩によって職人芸は科学にとって代わられるのだろうか。いや、それは逆に科学技術が職人芸に学んだ結果であろうと思う。上記のはさみの「手持ちの感覚」といったものを研究し実際に製品化するためには、2.1の診断で述べたような職人的な手法が取り入れられているはずである。詳細の説明は次回の論文に譲るが、職人的な手法においてはまず「信じる」ことから作業が始まる。信じた目標に向かって突き進み、修正と経験とを積み上げてある信頼すべき結果にたどり着くのである。その過程において科学的な要素をふんだんに使用したとしても、開発手法の骨格と信頼性の確認にはやはり主観的な手法が用いられ、そこでは製作者と使用者との間の「共感」が必要となる。この「共感」こそが心の距離の近さを表す言葉であって、それは必ずしも物理的な距離の遠近とは一致しない。

4. 心の距離と福祉

 ここまで、「未知要素を多く含んだ技術が高い信頼性を実現するためには製作者と使用者との間の共感が重要な役割を演じている」と述べてきた。実はこの論文自体も本来は論文として備えなければならない「論証」を使用せず、読者の「共感」の上に論を成り立たせようと意図している。はたして共感が得られたのか、はなはだ不安である。なぜなら、この論文は客観表現で書かれているが、本来は「私」が欠けていたのでは共感は導き出せないと思うからである。よって、この章では私がこの論文を書くに至った私自身の葛藤を自省の念も込めてご紹介したい。
 ここで例として挙げるのは大熊由紀子著「寝たきり老人のいる国いない国」(ぶどう社)2)の中に使用された二つの言葉である。本題に入る前に、私はこの本と大熊女史の講演が私に与えた影響に関して述べておかなければならない。私のような大学の研究者に課せられた仕事は論文などの業績作りである。しかし、学術業績となるような仕事が福祉医療にとっても有意義であるとは限らない、と、私は疑問に感じ始めていた。医療福祉関係の業績において日本はけっして世界に遅れをとってはいないが、大熊女史はこの本の中で日本の医療福祉の後進性を事実としてはっきり提示された。私が、後に述べるような医療ボランティアの活動を再開したのも、また、この論文をまとめようと意図したのも、医療福祉技術の研究者としての私の心の葛藤に大熊女史が一石を投じたからに違いない。
 だから、私は決してこの本に書かれた大熊女史の姿勢を批判しようとしているのではない。この本の内容に対する数多くの共感の中にひとつだけ気になった言葉があり、そこから私の今後の方向性を示唆する考え方が生まれたので、例として使用させていただくまでである。その言葉とは、最終章の「動物の世界にはないもの」において女史が「生を受けた人すべてと、ともに生きようとする道。(中略)その『弱肉強食の本能』に逆らう道。それこそが、人間が他の動物とは違う、人間の人間らしい道なのではないか。」と述べている部分である。その言葉と好対照になるのは、この本の中で「湘南学園」が紹介してある部分である。養護施設である湘南学園には、かつては軍隊のような厳しい規律があり、学校や寮では強い子が弱い子をいじめていた。そこに赴任された園長さんがみんなで相談して、大人にとって都合がいいだけの規則をやめていったら職員と子供が守るたったひとつの規則が残った。それが「強いものが弱いものを侵さない」だった。私はこの「強いものが弱いものをおかさない」という言葉にひどく心を動かされた。けれども、どう考えても同じ内容を表現しているとしか思えない「弱肉強食の本能に逆らう道」の言葉には逆に少し首を傾げてしまうのである。この両者に対する私の感覚の違いはいったい何に起因していたのだろうか。
 図4は長期入院児の精神的なサポートを目指した病院内ボランティア(ぶつぶつぶんつう)の一場面である。最近、この活動に大学生が加わって子供たちの行動に変化が見られた。ふだんは大人しい子供たちが大学生と遊んでいるうちに、叩いたり、引っかいたり、服に落書きしたり、と悪ガキに豹変するようになったのである。写真の中で大学生たちがエプロンを着用しているのはそのためである。おそらく、入院中のこどもたちはいつも大人の感性や考え方に振り回されていて、自己を発散する対象を失っていたのだろう。大人でもそうではないか、誰もが不理屈な攻撃性を持っていて、人と人とが近づけば必ず傷つけ合うのである。この傷つけ合うところを越えないと共感に至れない場合もしばしばである。なるほど、湘南学園の例で「強い者が弱い者をおかさない」の言葉の裏に私が感じたのは、この近づいて傷つけ合ってそこを越えて共感し合った先生と生徒たちの歴史だったのではないだろうか、と気がつく。つまり「強い者が弱い者をおかさない」の言葉は強い者にも弱い者にも近づいている姿勢がうかがわれるのである。「弱肉強食の本能に逆らう道」と「強い者が弱い者をおかさない」は、言葉の持つ客観的な意味は類似しているが、前者では話し手の主観と人生を離れて意味だけが独立に聞き手に伝わり得るのに対して、後者では話し手と聞き手そうして強い者、弱い者で表される第3者のすべてに「共感」がなければ聞き手に伝わり得ない。そういった不自由さ又は意味の曖昧さがかえってこの言葉の持つ力を強めているのかもしれない。
 この章まで私はまるで他人事のように、人と人との距離や共感に関して述べてきたが、実際にはそれは決して平坦な道ではない。大学生たちがぼろぼろになりながら1日で子供たちの心を開いてしまったのを見て、私は自分の無力さを思い知らされた。おそらく大熊女史も医療福祉現場のすばらしい人たちに出会って、私と同じような感覚を持ったのではないかと想像する。医療福祉関係に限らず、また私があえて指摘するまでもなく、多くの現場技術者たちは人としての共感の上に立って誠意を持って製品の信頼性を支えてきたのだろう。私がこの論文で主張したいのは、様々な分野でこういった仕事を支えている人とその誠意の重要性である、人の生き様そのものが成果の信頼性に反映している事実の再確認である。

(文理シナジー学会誌、vol.3-1, 18-24, 1998. に掲載)

参 考 文 献

1) Clifton K. Meador 著、福井次矢 訳、田島康正 画:ドクターズルール425、表紙絵、南江堂(1994)

2) 大熊由紀子:「寝たきり老人」のいる国いない国--真の豊かさへの挑戦、p116-117,171、ぶどう社(1990)
posted by トミタ ナオヒデ at 13:32| 論文調の独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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