富田直秀(Naohide TOMITA)     e-mail: tomita.naohide.5c kyoto-u.ac.jp  ←を半角に変えてください。


Dr.Tomita

プロフィール

富田直秀(Naohide TOMITA)材料工学出身。もと整形外科医。現在は医療工学、デザイン、再生医療、バイオメカニクス、バイオトライボロジーなどの研究をしています。

研究とは切り離しておりますが、学生の頃から少しずつ創りためている文章、絵、写真なども公開しています。興味のある方は右のMENUからお入りください。

E-Mail: tomita.naohide.5c@kyoto-u.ac.jp
(@を半角に変えて下さい。たくさんのメールをいただいており、お返事できない場合が多いと思います。申し訳ありません。)

2007年08月10日

科学では解決できない問題について

出版した本の原稿の一部です。不勉強 のために
似非科学的になってしまって後悔しています。

 私の研究室には二種類の研究者が出入りしています。一方は数学的感覚を持った人もう一方は数学がアカン人。ただし、数学的感覚と学校の数学の成績とは全く関係ありません。別の言い方をすれば客観的な言葉を話す人と別の種類の言葉をしゃべる人です。研究者が数学のアカン人であるか否かは、まず実験を始める段階からうすうす感じることができます。彼らは客観的な実験系を組もうとせずに、悪く言いますとまず自分だけが納得する方法で事実を確かめようとします。あとで述べますように医療に関わる研究では研究者自身が納得する視点も大切ですので、まあ本人のいいように、と思ってほっておきますといざ論文を書くときに大変なことになります。私は納豆論文と呼んでいるのですが、ぐちゃぐちゃと八方に糸を引いた雑談とも感想とも事実ともつかない言葉がごつごつと無意味な塊を作りながら散らばっている、そんな論文を作ってよこします。

 大学においては数学的な、つまり客観的で論理的な考え方が大切です。しかし、客観性や理論を教える本やら教師はゴマンといますので、この本ではあえて徹底的に数学のアカン人の味方をしてみました。臨床の世界は、いわば納豆の世界なのです。納豆の世界から何とか早く結果を導き出さなければならない。そんな場合にはすべてを整理している時間はありませんから経験と実感をたよりにぐちゃぐちゃの世界に踏み込むわけです。ですから長い間臨床に一所懸命たずさわっておられた先生の多くは数学がアカン人になっている場合が多いようです。何度も言いますが数学的感覚と学校の数学の成績とは全く別です。
 しかし、本当にそれはアカン事なのでしょうか?数学のアカン医者の方がむしろ患者さんの信頼が高い場合もしばしばです。この本では数学のアカン人の喋る言葉をずいぶんえこひいきして書いてみました。今読み返しますと、えこひいきに没頭しすぎてやや宗教じみた、そうして似非科学的な内容に傾いてしまっています。数学のできる人から見ますと大いに「うさんくさい」内容となってしまいました。

(以下の文章は「心と科学と”心”」(ISBN4-87601-547-3, 講談社出版サービスセンター)のために書きました原稿の一部です。本当は「科学では、、」の題名にしたかったのですが出版社との協議でこうなってしまいました。少し後悔をしています。本の内容も不勉強な点が多く、いわゆる似非科学となっていますので、いずれ全面的に書き直すつもりです。)

  はじめに

 「それは主観的ですねえ」と言われると科学技術の世界では「いいかげんですねえ」とか「信頼できませんねえ」とほぼ同じような意味となってしまいます。しかし、よく考えてみますと、何よりもまず主観こそが本当の事実であるはずです。たとえば、あなたがお酒好きであったとしたらお酒を好む生理的心理的メカニズムがどうであれ、あなたがお酒を好きであることがまずあなたにとっての事実であるはずです。ところが血液検査のデータを示されて「この生化学データからすると、あなたは本来は酒嫌いのはずですねえ」と言われると、そう言えば自分は本当に酒好きであったのだろうか?などと思えてくる。いったい事実はどちらなのかわからなくなってくる。科学的な考え方が日常生活の中に定着している現代では、他人のみならず自分自身の主観に対する確信さえもが揺らいでいるのではないでしょうか。
 しかし、この本では「主観とは何か」といった議論をするわけではありません。科学的な考え方を根本のところからもう一度見直してみたいのです。そうして、混沌を混沌のまま扱う方法論を主張します。第二章では「わからない要素」が混沌です。わからない要素を含んだまま信頼性の高い治療法を実現させる方法論は医療では実際に活躍しているのですが、残念なことに科学とは認められていない場合が多いようです。ここでは、信頼性を獲得するためにはいかに「共感」が重要な役割を演じているかを考えてみたいと思います。ここ十数年以内に大きな改革が押し寄せるであろうと予想される医療の分野では、この信頼性の問題は早急に論じられなければならない大問題です。「客観的な信頼性だけで本当の信頼性を語ることができるのか」「患者の安心とは?」この章の最後にはそんな話題をお話したいと思います。
 第三章では「本来わかり得ないもの」が混沌です。基礎分野においても混沌を混沌としてそのまま受け入れる方法が成り立ち得る、と主張したいと思っています。そのために私は少々おかしな事を述べます。「おかしい」といいますのは「自然科学の観点から見ると、とても変わっている」という意味ですが、けれども、まったく根拠の無い話ではありません。ここでお話することの根本は、もうずいぶん昔の思想家たちがいろいろな方法でこのことを表現してきた内容です。この章には日常からかけ離れた概念が登場しますのでやや読みにくいかもしれませんが、テーマは前半と同じく心と共感です。
 私はこの本を「子供のように書いてみたい」と願いました。それは知的でありたい、とか、知的に見られたい、とかいった執着を離れる、といった意味です。しかし、その試みは失敗に終わりました。自分の愚鈍である部分を隠すために知を気取った表現をしようとしたり、過去の賢人たちの威を借りた引用を用いたりしています。この本の主旨からいってそういった個所はまったく無用であるはずなのですが、私はそれを切って捨てることができませんでした、、、。ですから、あまり気を張らないでください。この本を読むのにあなたが額に何本もしわをよせたとしたら、それは、私の愚かな執着のせいです。椅子の背を倒して頭を空っぽにして、できれば誰かに読んでもらって目を閉じてみてください。言いたい事はほんとうに単純なことなのですが、それでも、しつこくいろいろな表現でお話します。時には図や実例を挙げたり、理学者ぶってなにやら数式を使ったりもします。そんな部分に興味が無ければ子守唄のようにすーすーと聞き流してください、そうして、きっと聞き終わるまでにあなたはグーグーと寝てしまうのではないでしょうか。その寝入りざまに、さっと何か光が走るような、そんな瞬間があったならばきっとそれが私の言いたかったことなのではないかと思うのです。

(中略)

  二、二.ただ一例が統計的有意に勝る意味を持つ

 私は工学部の大学院を出た後に医学部を再受験して医者になりました。医学生のころにに医学雑誌を読んでまず驚かされたのは、どうも公平に選んだとは思えない少数例の経験や小実験から多くの推測を述べているような記述に出会う時でした。よく見られるのは「一例報告」と称してたった一例の症例をあれこれと論じて結論を述べる論文です。医学研究を始めた当初は何といいかげんな分野だろうかと、生意気に考えていたのを思い出します。ある小児科の先生は授業の中で繰り返し以下のように述べられました。
「何百例を調べた統計や信頼性の高い実験データよりも、ただ一つの症例から得られる経験の方が貴重なのだ。」
私は、そう言われる心はわかるけれども科学的な表現ではないな、と批評家のように考えていたのを思い出します。しかしその後、医学臨床を知るようになってこの言葉の重さをひしひしと思い知らされる場面を数多く経験しました。「一人の命は地球より重い」とよく言われますが、これは本来は科学的に受け入れられないはずの概念です。重要性といったものの定量化を考える上で地球上すべての人や生き物それぞれに全体と同等の量を与えるのは不可能です。それでもなお、この言葉のとうりに一つの命が全体と等しく重要であるであると実感する場面があるのは、われわれが定量化された客観的事実の上だけに生活していない何よりの証拠でしょう。医療や生命科学において統計が重んじられ、また一方ではまったく無視されるのは、ただ単にこの分野におけるデータの「ばらつき」が大きいからばかりではないのです。

(中略)

  三、二.同じであることと異なること

 科学ではまず「なにが異なるか」をはっきりと区別してから「同じ」である原理を探します。これがいわゆる分析的手法ですが、これは科学に限らず「認識」すべてがそれに似た手順を踏んでいます。この第二の視点で述べました内容は第一の視点で述べました信頼性と誠意の話と脈絡を異にしますが、それぞれの視点に行き着いた私の過程はただ一つでありました。感覚をなるべく排除して混沌の中に身をおくと、信頼性なるものの本質は決して客観性の中にあるのではなく「共感」つまり自分と他者が「同じ」である前提の上に成り立っているのがわかります。このように、混沌の中に身をおいて、「同じ」である実感から物事をとらえる方法は禅に源を同一にするのかもしれません。
先日、「心」を主題にした学術講演会(21世紀医学ファーラム、2000年)を聞きに行って来ました。印象的であったのは最後のパネルディスカッションでのことです。「動物には smile がない」と、長らくアフリカで動物行動を研究してきた行動生態学者が発言したのに対して、高名な生物学者が「いったい smile の定義は何なのか、どのような証拠をもってそう結論するのか」と、質問しました。この質問者は科学の常套手段としてしっかりとした座標を設定したかったのだと思います。 Smile と他の変化とをどう区別するのか、何がどれだけ「異なっていて」どこでその違いの閾値を設定するのか、それがしっかりと定義されていなければ「動物には smile がない」といった内容が客観的事実であるとは認められないわけです。質問された動物行動学者は少しの間じっと考えると、やや早口に、「smile つまり、表情筋の穏やかな緊張を伴なった、、、、」と説明し始めました。しかし、この場面で私が期待したのはもっと別の答えでした。何年もの間アフリカに住み動物たちと接していたこの研究者は動物たちと共感しあった場面を数多く経験しているはずです。共感とは「なにが異なっているか」の前にいきなり「同じである」実感を得る心の交流です。この研究者が、動物には smile が無い、と確信を持って言うことができた背景には、おそらく、研究者の長年の動物との共感があったからではなかったでしょうか。客観的なデータのみではこの動物との直接の共感以上に深い確信を得られないのではないか、と想像します。科学的方法がどこまで「心」に迫ることができるのか、それがこの討論のテーマでした。もしこれが「心の原理」であるならば徹底して客観的事実を探し出す手法が有効であろうと思います。しかし、「心」そのものへのアプローチにはもっと別なアプローチが必要なのかもしれません。
 この講演会ではもう一人、精神科医出身の臨床心理学者が子供の心に関しての講演を行いました。他の二人が実証された事実を基点に講演を行ったのとは対照的に、この講演者は、患者である子供たちとの共感を基点として、それを論理の上に並び替えて、やはり聴衆との間の共感でその論理の正しさを実感させるのがその論法でありました。もし、先の行動生態学者がこの臨床心理学者と同じような手法を用いて「動物には smile がない」と説明していたとしたならば、おそらく「それはあなたの思い込みなのではないですか?」といった疑問が科学者から投げかけられていて、それには行動生態学的には答えることができなかったのではないかと想像します。臨床心理学者に共感を基礎とした表現が許されるのは、それがこの分野では「治療」として広く認められた手法だからです。つまり、患者との共感を模索しつつその共感した自分をも客観的に観察する、といった治療法の訓練を受けている集団の中で確立した意思の伝達方法であるわけです。このように共感に溺れず正常と異常とを色分けする手法は心を扱う他の科学分野にも参考になるかもしれません。
 しかし、この実感を基礎として共感に訴える方法は「思い込み」を避ける決定的手段を含みません。また、主張された内容に対して「それはあなたの思い込みにすぎないでしょう」と指摘されたとしても、それに反論する術もありません。

(中略)

  三、三.主観的時間

 さて、そろそろ記述を終わりたいと思います。結論のないままに尻切れトンボで終わってしまう失礼をお詫びしなければなりません。この本では「実感」の重要性を説きながら、はたして「実感」が客観的事実と肩を並べ得るほどの真実を語れるのか、と聞かれると沈黙せざるを得ないのです。おそらく、多くの科学者も客観的事実を基本とする手法を取りながらも実のところはこの「実感」に頼っている場合が多いと思います。しかし、いったん「実感」が科学の世界で市民権を得ると、様々な「狂信的な」論の出現を許してしまう可能性があると思います。
 この本には私自身の専門に関わる実例を示しませんでしたが、私自身もこの客観世界のほんの一部に粗末な座標空間を区切ってそこに安住する科学者の一人にすぎません。この本では客観的事実に守られた自分のテリトリーを出て半裸のまま叫んでいたようです。そのような自分に気付くと、何とも気恥ずかしく情けない気分でもあります。最後にこの項では、ここまでの記述で私が根拠としてきました方法論をより心情的な表現でご紹介しておこうと思います。それは「主観的時間」に関してです。

 時計を外して時間を感じるままにとらえてみますと、主観的な時間は何か混沌とした状態と発見のような輝いた瞬間とで刻まれていることに気付きます。混沌の状態のままでは時間は進みませんし、また、単に情報を得ている状態ばかりでも時間は進みません。感覚的な表現をお許しいただけるのであれば、以下のような例が時間の感覚に近いのではないかと思います。たとえば、いないいないバーを考えますと、「いないいない」の混沌から「バー」の情報を得たその瞬間に赤ん坊の時計が進んでいるのではないでしょうか。いつも顔が見えている状態から突然顔が隠された状態も、感覚こそ異なりますが時間が進む一刹那であるように思います。これは時計での時間の長さとかかわりなく、たとえば、何十年もの間別れていた肉親との再会の瞬間も混沌から明らかな状態へ時間が進んだ瞬間であるように感じます。また、たとえば和音が並んだ曲の節目に不協和音が挿入された瞬間、逆に不協和音ばかりの曲に和音が光を投じた一瞬に時間を感じる「感動」が無いでしょうか。
 さて、あなたが公園のベンチにすわって鳩をながめています。とことこと首を前後ろにせわしく動かせながらきょろきょろと地面をさがしたり、ちらりちらりと横目であなたをながめたり。羽の色は白っぽいねずみ色です。耳を済ませていると、指を開いた足と地面がかさかさとすれあう音や、ときどき、くーるる、と、のどの奥が鳴る音も聞こえます。石ころの間に丸いものを見つけて、こん、と突いてみます。丸いものはぴょんとはねたのでまた、こん、そうして、もう一度。ばさばさと後ろで羽音がして風が近くに感じられたのでしかたなく体をくるりと回します、、、、。
 どうでしょう?あなたは鳩の羽の色や行動や音をいつも客観的に観察していたでしょうか?混沌に身をおいて、そうして一瞬でもあなた自身が鳩になっていた瞬間があったのではないでしょうか。心を清明に保ち、どんなに注意深く物を見つめようとしても現象のここかしこに混沌は必ず存在します。生活の中には実にたくさんの発見と混沌とが繰り返されてはいないでしょうか。明らかなものばかりでなく混沌がなければ時間もまた進まないようです。

 わたしが信頼するのは、物事をしっかりと見つめようとする澄み切った青空のような誠実さばかりではありません。混沌に身を任せて事物と一体化するそうして共感し合うこの一瞬の実感なのですが、、、いかがでしょうか?。

(何か宗教じみた文章になってしまいました。次回はもう少し科学者にも納得のいく表現にしたいと思います。この本では、客観性ばかりでは(特に臨床において)真の信頼性は得られない、と主張しようとしたのです。しかし、半端な考察ではすぐに宗教じみた表現となってしまいます。この本を出版した時点で、私はベルグソンの本を読んだことがなかったのです。おそらく、私の感覚は(時間と量に関わる部分以外では)ベルグソンの主張に非常に近いのではないかと思っています。彼の言うように空間(私は座標と表現しました)を離れない限り、こころは科学に馴染まないのだと思います。
 しかし、実際の私の仕事ではやはり客観性を最重要視しています。科学者はいかなる場合にも客観的事実をないがしろにはできませんし、そこを離れてしまってはもはや科学者ではないと思います。科学者の仕事が便利さや合理性の追求みではなく、本当に心から納得できるものになるためには、誠意を持って研究に向かうこと、今のところはそれぐらいしか現実の解決法はないようです。)
posted by トミタ ナオヒデ at 13:43| 著作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
京都大学 工学研究科 機械理工学専攻 医療工学分野(医学研究科 生体工学分野) 
〒606-8501 京都市左京区吉田本町 京都大学工学部物理系校舎
医療工学研究室 富田研 425号・426号
Copyright (C) Tomita Laboratory. All rights reserved.

いちご会