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Dr.Tomita

プロフィール

富田直秀(Naohide TOMITA)材料工学出身。もと整形外科医。現在は医療工学、デザイン、再生医療、バイオメカニクス、バイオトライボロジーなどの研究をしています。

研究とは切り離しておりますが、学生の頃から少しずつ創りためている文章、絵、写真なども公開しています。興味のある方は右のMENUからお入りください。

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2007年08月10日

あえて狭い視点から

「文芸春秋」1000号記念佳作賞論文(1994年)
テーマ:地球新時代の日本
「あえて狭い視点から」
      「あえて狭い視点から」

                   京都大学再生医科学研究所
                      富田 直秀

 ちょうど7年前になりますが、大学時代の友人が白血病でその生涯を閉じました。彼はボートの個人競技で全日本を制した経歴を持ち、私のもっとも尊敬する友人の一人でした。生前に入院先を訪ねると、入院のたびに中断させられる仕事をいかにカバーするか、などと相変わらずの快活さで説明してくれたのを思い出します。やがて、入院がたび重なり、かつて同室に入院していた人の死の噂が耳にはいるようになると、さすがにやつれが目立つようになりましたが、前向きの姿勢は崩しませんでした。彼は発熱や薬の副作用に絶えながら身の回りの医療器具を注意深く観察して、その改良案の明細書を作製していたのです。死を覚悟した友人の生きざまとその最期に示した気力は、今も私の心の奥底を支えているように感じています。
 社会の大きな流れが、こういった一人一人の人間の生きざまよりよほど陳腐に見えてしまうのは、私一人の偏見でしょうか。たしかに人の運命はその時々の社会状況の中で木の葉のように揺れ動き、人格も決して社会環境と独立に成立しているものではありません。やがて訪れる高齢化社会や情報革命は我々の生活手段を一変させるでしょうが、はたしてそれらは人間そのものをどのように規定するのでしょうか。大切なのは環境や道具ではなく、それらを使いこなして有意義な人生を送ろうとする個々の人間であることは言うまでもありません。社会は一人一人の生きざまにどうかかわるのか、何が有意義なのか。この問題を考察するために、まず福祉と医療に関する例を異なった二つの方向から眺めてみたいと思います。
 さきに挙げた友人はたび重なる入院によって仕事が寸断され、やがて社会との接点を失っていきました。医療や情報環境の発達によって病人や障害者の社会貢献の機会を広げることができたら、それは個々の人生にとっても、社会全体にとっても有意義であるに違いありません。病室から世界に働きかけることができたとしたら、私の友人の心の焦燥も少しは和らいだことでしょう。入院患者の情報環境の整備に関して、やや楽観的な検討例をご紹介します。
 ある程度の資金が確保できたとします。まず病状や障害の程度、さらに患者本人の意志と意欲などの多様な状況に対応できる環境と、それに必要な技術レベルが提示されます。たとえば、障害に応じて何種類かの出入力装置が必要になるでしょう。手の使えない場合には光センサーなどを応用した非接触、無拘束の出入力機器が有用となるはずです。医療用ロボットとの連動によって、情報のみならず患者の自立の補助も可能となるかもしれません。看護スタッフの増員はあまり望めませんので、自動化が大切なポイントとなります。これらの技術はいずれ在宅医療への道も広げることでしょう。つまり、家族が負担する看護の重圧と、病院に縛られていた死そのものに改革が訪れる可能性もあるのです。
 さて、いかがでしょうか。そんなにうまく事が運ぶわけがない、もっと広い分野にわたる具体的な検討が必要だとお感じになったでしょうか。上記のような議論には確かにまだまだ煮つめなくてはならない問題が数多くありますが、私には別のもっと大切なものが欠けているように思われるのです。
 ここからは、あえて狭い視点で個人的な体験を述べさせていただきます。私は大学時代にボランティアとして病院の入院児に勉強を教えていました。もとより「自分のため」に活動していたのですが、それにしても自分がいかに無力で勝手な人間であるかをいつも痛感させられていました。例をあげればきりがないのですが。たとえば、年少の子が親愛の情を私たちに伝えようと、そのよだれだらけの手でくれたアイスクリームを、私はそっとごみ箱に捨てましたし。全盲の子にピアノを教えていて「その上の黒いのが半音だよ」と何度か言ってしまって、はっ、としていると「そうか、このくろいんのがはんおんか」と嬉しそうにぽんぽん叩いていたり。年長の障害児に恋の悩みを相談されると何を話していいかわからずに途方にくれてしまったり。とにかく「困っている人を助ける」のがボランティアだ、などと思っていたら大間違いで、「困っている人と共に居させてもらって、運が良ければ何かの助けになる」のが本質であるように思います。自分をふがいなく感じるのは、私が彼らの役に立つだけの力量を欠いていたからではなく、子供達と共感し合う心の豊かさを欠いていたからです。後年、私は医師となって困った人を少しは助けられる立場になりましたが、自分の身勝手な性格から逃れる事ができませんでした。
 私はこう考えています。優れた技術や制度も他人の生きざまに共感する心がなければ無意味である。例えば、医療や福祉においてはどんなに優れた技術や制度も、やさしい言葉や笑顔には遠くおよばないのです。広い知識や専門的な検討は共感という土壌の上にのって、はじめて有用となるのではないでしょうか。例えば、さきにあげた入院患者の情報環境の例でも、前述のような方法論のみが突っ走って計画が定められたならば、必ず大きな障壁にぶち当たると思います。まず医療、看護、技術者、そうして患者本人の腹を割った話し合いが必要です。開発にたずさわる全ての人が、それぞれお互いの立場となって共感し合わなければ何も始まりません。
 先日の阪神・淡路島大震災の折に、被災地と東京のスタジオとをテレビで結んだ討論会が放映されていました。その中で、東京の対策本部の某政治家の発言が現地の被災者たちをひどく苛立たせる場面が何度か見られました。いかに合理的に救済手段を講ずるか、を問題としていたその政治家の発言そのものには非難されるべき内容は含まれていなかったように思うのです。しかし、何よりも被災者との切実な共感が感じられなかった点、共感のないまま正論ばかりが繰り返されていた点が非難の対象であったようです。物質的に不自由な状況にあっても、かえってそういった状況であるからこそ人々は心のつながりを求めたのだ、と改めて感動させられました。
 よく指摘される事ですが、人との共感は日本人の行動の動機として重い比重を占めており、これは世代を越えて現代の若年層にも伝えられている特質のようです。多くの日本の子どもが道徳として獲得しているのは、正、不正の正義よりも、思いやりや真心ではないだろうかと思うのです。この点は、正義を説いて聞かせる欧米とやや異なります。そのために日本では社会正義よりも個々の心情が取り上げられる傾向が強いように思います。ここで注意しなければならないことは、共感や心情はあくまで人と人との間に生じるものであって、決して社会と人との間に成立するものではないことです。その誤解は時に大きな危険を生じさせます。「世間が許さない」「不謹慎」などの名目で、かつてどれだけの人が不幸な生活を強いられたことでしょう。正義は正否の議論の対象となり得ますが、心情は見方によってどうにでも判断されますので多くの場合は問答無用となってしまいます。日本人が心を大切にする一方で「集団の心情」といった亡霊に惑わされやすいのもまた事実かと思います。
 もちろん、欧米社会においても心情が優先する場面は数多くあります。例えば、陪審員制度下の米国では心情が判決に色濃く現れていると思われる判例をしばしば経験します。米国社会ではそれを正義の一部として取り扱っているように見受けられます。つまり、無作為に選ばれた陪審員は大多数の心情をも代表しており、そういった心情は正義として認めようとする不文律なのかもしれません。心情の正否は本来は一般論として論じ得ないものですが、正義として取り扱われた時には公然の判断基準ともなり得ます。この1例から欧米社会を語るのは軽率かもしれませんが、欧米人はこのように心情をより科学的に取り扱うことによって、社会の中でそれぞれの自由な精神空間を確保しているように感じています。つまり、大多数の人の平均値としての心情を客観的に自分とは切り離してとらえているために「集団の心情」にも惑わされにくいのではないでしょうか。
 日本人はそのような割り切ったとらえ方は苦手のようです。そのかわりに、他人の生きざまを尊重し共感し合うことに長けているように思います。もし、日本人が大衆の一員としてではなく心情豊かな一個人として社会とかかわるのならば、この一対一の心のつながりを重視する特質は今後の情報化社会に向かって珍重されるべきなのではないでしょうか。元々の漢字の「自由」とは自らに由る、すなわち自らに本ずくといった意味ですが、現代では自己の意志を束縛されない状態を表わすのによく用いられます。この後者は英語の freedom や liberty の訳語として後から付け加えられた意味です。私が「欧米人は自由な精神空間を確保している」と表現したのもこの訳語としての「自由」の意味ですが、本来は執着せず在るがままの姿であることを意味しています。Freedom や liberty では他人への「責任」を伴わなければ利己主義に陥る危険性がありますが、本来の自由は自己と他者を区別しない共感の中にありますので、利己主義自体が存在しません。すべての事物に心をゆるす共感があって初めてこの本来の意味の「自由」が実現できるのだ、と私は思います。束縛し合う社会と個人との関係ではなく、心の通った個人対個人の複合としての社会であれば、あるがままの自由な精神空間を各自が確保する事ができるのではないでしょうか。
 今、情報技術の発達は人間関係における距離と時間の制約を取り払おうとしています。マルチメディアと情報通信は世界の多数の人々との一対一の接触を可能にしつつあるのです。人類はこの道具をいかに使いこなすのでしょうか。まず、我々のなすべき事は自己の見直しです。そうして、世界中の個々の人々に接し、あくまで自己の立場で語り合う事ではないでしょうか。広い視点から正義を語ることによって大衆の賛同を得るのも大切ですが、自らの生きざまに立脚した視点から心を語り、多くの友人を得ることの方がより有意義だと、私は思うのです。
posted by トミタ ナオヒデ at 13:47| 論文調の独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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