富田直秀(Naohide TOMITA)     e-mail: tomita.naohide.5c kyoto-u.ac.jp  ←を半角に変えてください。


Dr.Tomita

プロフィール

富田直秀(Naohide TOMITA)材料工学出身。もと整形外科医。現在は医療工学、デザイン、再生医療、バイオメカニクス、バイオトライボロジーなどの研究をしています。

研究とは切り離しておりますが、学生の頃から少しずつ創りためている文章、絵、写真なども公開しています。興味のある方は右のMENUからお入りください。

E-Mail: tomita.naohide.5c@kyoto-u.ac.jp
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2007年11月24日

竹山聖先生「ぼんやり空でも眺めてみようか」

 先日、桂校舎に向かう学バスの中で有名な建築家の竹山聖先生とお会いして、学生の指導現場などを見学させていただく事になった。先生にお会いしたのはまだ3回目だが、とても印象の深い方である。竹山先生とお話をしていると、私は子供ようになってしまって、つい失礼な事を口走ってしまう。その失礼の内容は後述するとして、その時にご紹介いただいた竹山先生の著書「ぼんやり空でも眺めてみようか」の感想を書いておきたい。
 竹山先生と私は、行動においても考え方(特に「生命観」)においてもまったく異なっている。共通しているのは世代くらいであろうか。私たちの世代は、古い価値観や社会悪を次々に弾劾していった団塊の世代を兄貴分に持っている。兄貴たちは、強い信念と論理を持って私たちに影響を与え続けてきた。私たちは兄貴分たちに尊敬の念を感じながらも、いや待てよ、と首をかしげてしまうところもある。それは私たちの年代が思春期の頃に経験した兄貴分たちの学生運動や様々な社会事件が、信念の裏にある弱さ、重さの裏にある軽さ、善の裏にある悪、といった両価性を象徴していて、強い信念や行動規範を持つことに躊躇を感じるからなのかもしれない。
 竹山先生はとても嫌がると思うが、この本「ぼんやり空でも眺めてみようか」の中で最も私の印象に残ったのは「おしゃれ」という言葉である。竹山先生自身が肯定して述べた言葉ではない、建築家として名声を得ていた先生が京都大学から誘いを受けた時のお話だ。「○○さんは決して京大がよいところだとは言わなかったし、ぜひにとも言わなかった。東京でおしゃれにやっている建築家が京都くんだりまで落ちてくることはないと思うんだけどね、まあ考えてみたらどう、断ったなら断ったなりに君らしい生き方なんだ、とみんな思うから、、」といったふうに誘われたという。竹山先生を「おしゃれ」と評したこの人は、様々な思いをこの言葉に込めていたに違いない。実を言うと、私がはじめて竹山先生にお会いしたときに感じた印象も、この「おしゃれ」だった。「おしゃれ」は団塊の兄貴分たちが直接に否定した価値観ではなかったけれども、私たちの青春時代にはおしゃれであることにも何らかの理屈が必要だったのである。時代が変わって、何事にも重量感を臭わせていた団塊の兄貴分たちも、今やそうとうに軽い「おしゃれ」を楽しんでいる。けれども、竹山先生は未だに「おしゃれ」の意味を探り、また迷いながらながら「おしゃれ」であるように、私には思える。
 「おしゃれ」と評されることを竹山先生は好まれないだろう。けれども、たとえば大学の静かな通路で女子学生と笑顔を交わす先生の立振舞や、様々なエピソードから感性を伝えていく先生の文章のスマートさは、やはり「おしゃれ」なのだ。ただし、竹山先生の発散している「おしゃれ」は、ただ流行に乗るといった軽さはではなく、また決して重圧的でもない。「ぼんやり空でも眺めてみようか」という本のなかで私が感じたのは、軽くもない重くもない、強く主張しているわけでもなく弱く流されているのでもない、そうして、良いのでもなく悪いのでもない両価性の「おしゃれ」である。
 ただし、生体工学の研究者である私は、建築家である竹山先生のものを見る目の時定数の長さを全く理解していないのかもしれない。たとえば、ピラミッドもエッフェル塔も東京タワーも、もし私が建設当時のそれらをその時代人として見ていたならば、時代の権力と虚栄心を反映した毒々しささえそこに感じていたかもしれない。けれども現代の私はそれらに美しさと懐かしさを感じている。竹山先生が建築家として対峙している「おしゃれ」は、私が刹那的に感じ取っている「おしゃれ」とは全く時間の感覚が異なっているのかもしれないのだ。大きな時の流れの中で見る形や人の動きは(ちょうど早回しの映画を見るように)全く次元が異なっていて、その視点から見れば「両価性のおしゃれ」などと私が表現した内容は一瞬の泡沫にすぎないのかもしれない。
 ともあれ、よく知らぬ事に対してもしゃあしゃあと意見を述べてしまうのが私の欠点だろう。学バスの中でお会いした後に竹山先生の研究室を訪問させていただいた時、竹山先生は学生たちの卒業制作案を重く押さえつけるでもなく、また軽く受け流すでもなく、ひたすら審査時のプレゼンの方法を指導されていた。今にして思えば、それは刹那的な価値観を押しつけないための手段だったのだろう。独創性を持ったプロの建築家を育てようするその現場で、私はその時に感じたままの素人の感性を学生にぶつけてしまったり、また、むやみに褒めたりして、要するに泥玉をたくさん投げつけて帰ってきてしまった。「ぼんやり空でも眺めてみようか」を読ませていただきながら、そのことに思い当たり、顔から火が出る思いだった。
この文章の最初に、「竹山先生と私とは行動においても考え方(特に「生命観」)においてもまったく異なっている」と述べたが、その感性の違いは竹山先生の持っておられる視点の時定数を知り、また、私の中にある「美」の意識をもう少し探索してみてから言葉にすべきなのだろう。その上で「ぼんやり空でも眺めてみようか」を読み返せば、様々な意味を新たに発見できるにちがいない。まだまだ、じっくりとこの本を楽しむことができるのだ。


posted by トミタ ナオヒデ at 17:42| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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