富田直秀(Naohide TOMITA)     e-mail: tomita.naohide.5c kyoto-u.ac.jp  ←を半角に変えてください。


Dr.Tomita

プロフィール

富田直秀(Naohide TOMITA)材料工学出身。もと整形外科医。現在は医療工学、デザイン、再生医療、バイオメカニクス、バイオトライボロジーなどの研究をしています。

研究とは切り離しておりますが、学生の頃から少しずつ創りためている文章、絵、写真なども公開しています。興味のある方は右のMENUからお入りください。

E-Mail: tomita.naohide.5c@kyoto-u.ac.jp
(@を半角に変えて下さい。たくさんのメールをいただいており、お返事できない場合が多いと思います。申し訳ありません。)

2017年07月05日

理由のない尊敬

             理由のない尊敬
                               富田 直秀

ひさしぶりの高校の同窓会でSに会った。
友人、というほど仲がいいわけではなかったが、なぜか尊敬している。
尊敬していた友人は他にもいるのだが、長い時間が経つと、その尊敬していた理由も少しずつ色あせてくる。Sに対する尊敬は、その理由がわからないので、色あせもしない。

おそらく、、その理由のなさを尊敬しているのだ。
何でがんばるのか、とか、何でさぼるのか、とか、何で生きているのか、といった理由なしに、Sはがんばるためにがんばり、さぼるためにさぼり、今も生きるために生きているように感じられた。そういえば、高校時代は映画研究部で映像を創っていたSは、今も映像を創り続けているという。創り続けていること自体はどうでもいいのだろう。いちいち理由のないところがすごいと思う。

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2017年04月26日

何が問題なのかはっきりしないことが問題

グレいく大学教員の独り言
(何が問題なのかはっきりしないことが問題)

欲望が生産によって作られる時代になって久しい.学生が自由(freedomではなく,自ずからに由る自由)を失っていく姿も,もはや幻影ではないように思う.あれがいい,こっちのほうがよさそう,,といった(いわゆる即自的な)好みに翻弄されてしまうのは今も昔も変わりはないが,その好みがプチ満足とともに与えられてしまうためか,本当に自分がしたいことは何だろうか,,と自分探しに悩む姿もあまり見られなくなってきたように思う.私が歳をとって若者の当事者としての現実に鈍感になっていることを差っ引いても,,やはり現代は,何が問題なのかがはっきりしないことが問題な時代なのだ.

動きの鈍い大学に比べて,NHK番組の「ドキュメント72時間」「バリバラ」などは,時代の流れをよく見て「自ずからに由る」を実践しようとしているなあ,と感心する.もちろん,多様なnoやyesをカットして体裁を整える昔ながらの作業が,一種の価値観の刷り込みとなっている場面もあるけれども,けれども,「自ずからに由る」を継続させよう,という意思は感じられる.個人的には,BS1のワールドニュースや,深夜に放送される茫々とした映像(宇宙から見た地球や自然や人込みなど)も,あれこれ考えずにぼーっと眺めているのが好きだ.要するに,ぼーっとする時間さえも,与えられなければならない時代に突入している.
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2017年03月21日

死ぬつもり


        「死ぬつもり」
(京都大学ホッケー部,平成28年度OB会誌原稿)

            部長 富田 直秀(工学研究科医療工学分野)

  1部昇格おめでとう!!と喜んでばかりいてはいけないのが部長の役目なのかもしれません.私にも何度か経験がありますが,スポーツに一途に打ち込んでいる相手に対峙して,さらに相手の上をいかなければならないぎりぎりの状況において,「死ぬつもり」と言わざるを得ないような心理状況に陥ることが多々あるからです.
  ラグビーのタックルや,ボクシングのカウンターのように,いかにも,の体でなくとも,死ぬつもりで走ったり,死ぬつもりで飛び込むような場面が,1部リーグでは増えるのではないだろうか,,と心配します.言い古されたことばではありますが,スポーツは一流に近づけば近づくほど「怪我をしない,させないことが一番の実力」になるのだと思います.準備運動とストレッチの習慣,身体を冷やさないこと,朝飯をしっかり食い,長時間練習の場合には練習中にも食うこと(最近,スポーツ中の食事として,タンパクも適度に含まれている「おにぎり」が注目されているそうです),周囲に気を取られず集中すること,適度に声を掛け合うこと,ネットなどの施設や,防具などの装着は,当然のこととして,以前にも書きましたが,周囲との多くの関係性の中に力まずに身をおいて流れを「みる」こと.この練習を,とにかく何度も何度も何度も何度も,いやというほどこなしてこそ,はじめて「死ぬつもり」のプレーをする資格があるのだと思います.たまたま高揚した気分のままに危険なプレーに飛び込むのは,ただの無謀であって,場合によっては犯罪でさえあることを,肝に銘じてください.





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2015年08月08日

生活の質(QOL)のデザイン

生活の質(QOL)のデザインに関して、デザイン論考
http://www.design.kyoto-u.ac.jp/ronkouweb/vol.4/vol.4_tomita.pdf
に投稿しました。
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2015年05月09日

雄勝湾

5月の連休に、東北大震災(津波)の最前線で救護を行っていた友人の案内で被災地を回ってきた。今まで語れなかった人たちが、やっと少しずつ語る物語、助成を受けられる人、受けられない人の話。津波の傷跡を示す写真、大川小学校の写真など、など、、(下の写真は、当時のまま残されている大川小学校の倉庫の様子)

IMG_5181.JPG


けれども、一番心にしみたのは、一見何の変哲もない今の雄勝湾の風景だった。ここがあまりよく知られていないのは、被災者の多くが亡くなってしまって、その悲惨さを伝える人がいないためだそうだ。「ここは結構な町だったのに」と寂しく語る友人の言葉がなければ、何も気づかずに通り過ぎてしまう。

2015年五月連休,雄勝湾 DSC bmp ドキュメント小.bmp
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2015年04月21日

デザイン学

デザイン学を始めた動機などを,越前屋俵太さんのインタビューでしゃべっています

https://youtu.be/_xxZWaoax2Q

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2015年04月07日

「Melt Down メルトダウン」情けない記憶

  福島第一原発の事故のころ,大学教員同士が街中で顔を合わせると,まるで何かの陰謀の一味であるかのようにひそひそ声で状況の深刻さを話し合ったのを憶えています.私たちはその道の専門家ではありませんでしたが,学者の不用意な発言が大衆の暴走を促すかもしれない不安定さが,当時はありました.「客観的事実」を盾にしてふだんは偉そうにものを言う私たちは,何もできず,何も言えず,なんとも情けない存在でした.
  あれから4年間,誰がどう行動すべきだったのか,そうして,今後はどうすべきなのか,と議論が続いています.もちろん,事実と予測に基づくそれらの議論はとても重要な論議だと思います.しかし,あの時の私たちの情けなさはどうなったのでしょうか.原発推進者の強気は情けなく破壊されましたし,事故のあったその夏でさえクーラーを切って生活することができなかった私も情けない情緒的原発反対者です.原発事故で絶望の淵に立たされた人たちに対して,私は何もできませんでした.原発問題のもう一つの本質は,安心(ANSHIN)という質を扱うことのできない科学と科学者の情けなさなのだと思います.
  この4年間,休日になると原発にかかわる言葉にならない何かをパネルにぶつけてきました.塗って削って,千人針をして,切ったり貼ったり,燃やしたり,漬けたり,,,と,ちょうど医療事故で妻が死の淵においやられたことなども関係しているのかもしれません,もやもやと何重にも重なった形や色に「Melt Down メルトダウン」という題名をつけて,上野の森美術館大賞展に出品しました(4月29日〜5月10日上野の森美術館, 2015年5月26日〜31日京都府京都文化博物館に展示,作者名:町井直秀).何ら明示的な主張がなく,結局,私は何もせず(被災者の方々,申し訳ありません),様々な情けない思いをここにぶつけた本人が生きている,ということだけが唯一の意味である作品です.


(写真は作品の一部)

メルトダウン 2015年 トリミング2.jpg
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2014年12月05日

人の世界観を否定せず,徹底的に追求させる(小池一範先生 追悼)

人の世界観を否定せず,徹底的に追求させる(小池一範先生 追悼)

        富田 直秀

  京都市立芸術大学とのお付き合いは5年ほど以前から始まった.京都府と京都大学の共催で行った高校生向けのワークショップへの参加をきっかけとして,文化教育にも力を注いでおられた日本画教室の小池一範先生を,京都府の横田さんよりご紹介いただいたのがそのお付き合いの始まりだった.小池先生に,日本画3回生の講評会の様子を見学させていただいた時の衝撃は今でも忘れることができない.素人目には,ああ上手い,と思える絵よりも,そうではないと思われる絵に先生は注目し,またそうではないと思われるところを褒め,そこから何かを伸ばそうとされているように,当時の私には感じられた.その後,京都市立芸術大学の様々な授業やいろいろな教室の活動に参加させていただき,対象こそ異なれ同じような感覚を持つ場面を多く経験したのだが,しかしそれは違和感なのではなく,心の奥底を引き付ける何かがそこにあった.
  「それぞれの世界観を否定せず,徹底的に追求させる」これが,私を京都芸大に強く引き付けている基本姿勢なのだと,あとから次第にわかってきた.そうして,ここにこそ,私たち現代人が直面している様々な問題,たとえば,ものつくりの衰退,省エネルギー問題,心の健康,創造性教育,,,すべての解決の鍵がここにあるのだ,と確信もする.簡単に言うならば,それぞれが棲むそれぞれに異なる世界観の中にこそ私たちの本当のリアリティがあるのであって,客観的(相互主観的)に検証される事実や「わかる」ための形式は,それぞれが豊かなリアリティの中で生活するための一つの有力な手段にすぎない.この手段によって現代社会の合理性が支えられている一方において,本来は手段であるはずの事実検証や形式が,いつの間にか目的となって私たちそれぞれのリアリティを見失わせているところに,現代社会の大きなひずみがあるように思う.他人事なのではない,私自身が見かけの合理性にまどわされて若い人たちの新鮮な世界観を否定し,かといって自身の世界観と合理性との係わり合いを徹底的に追求しているわけでもない.つまるところ私たちは,自身につごうのよい理屈を周囲に押し付けているだけなのかもしれない.
  このことは,いずれまた詳しく述べなければならないが,いまは小池先生の話に戻ろう.私だけではない,小学生から老人まで実に多くの人たちに,画材という実体を用いて,自身のリアリティをみつめることの大切さ教えてこられた小池先生.若い人のそれぞれの世界観を温かく受け入れ,しかし徹底的に追求することを教えて,またご自分にもそれを厳しく課しておられた小池先生.画材の表現にとことんこだわられた小池先生.あのひょうひょうとした中に鋭い厳しさも持っておられた小池一範先生の,その悲報を昨日お聞きした.正式な非常勤講師の手続きをとらずに京大の授業などにもいろいろとご協力いただいていたこと,ジャズ喫茶のYAMATOYAに一緒に行きましょう,などと話していて,結局一度もその機会はなかったことなどなども,死という,取り返しの無さの前で強く悔やまれ,ぐいぐいと胃袋を締め上げる.
  私は大切な師を一人,失った.



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2014年11月13日

ANSHINのデザインプロジェクト

長い間,ブログをサボっておりました,,
まずは,「ANSHINのデザインプロジェクト」のHP開設のお知らせを
http://anshin-design.net/index.html
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2013年12月30日

やりたいことをやらなければならないことにする

「やりたいことをやらなければならないことにする」
(京都大学フィールドホッケー部部誌,原稿)

部長 富田 直秀
(工学研究科医療工学分野)

  研究室が桂に移ってからは,練習を遠くから垣間見る機会も全くなくなってしまい,OBの方々からのメールで,かろうじて様子を知るのみとなってしまいました.私などが見ていて何が変わるわけでもないのですが,すでに若くはないからでしょうか,勝利の後でも不本意な敗北の後でも変わらず元気に練習をしている姿を見ていたい気がします.
  勝利,合格,受賞,,といった「実」の成果を得るためには,やりたくなくともやらねばならない場面もあります.けれども,こつこつと「質」の高い創造を行う現場では,「やりたいこと」と「やらなければならないこと」が自然に一致しているように思います.最近,仕事の関係で桂にある京都市立芸術大学に頻繁に脚を運ぶようになったのですが,ここの学生や先生方に接していて驚愕するのは,「やりたいこと」と「やらなければならないこと」の一致が実に自然であることです.やりたいことがやらなければならないことであるような一生を過ごす人は,芸術家であってもごく一部なのでしょうが,しかし少なくともここには「いったい自分は何がやりたいのだろうか」という徹底的な問いかけがあります.
  フィールドホッケー部が「実」としての勝利を目指すことは当然ですが,同時に,フェアであること,独善的ではないこと,誰も虐げられていないこと,,といった「質」の高さを維持するためには,部員のそれぞれの「やりたいこと」が「やらなければならないこと」と一致しているのがまず基本であると思います.もちろん,そのためには個人それぞれの自己への問いかけとともに,それなりの社会の成熟が必要だと思います.
便利で豊かになった現代においても,依然としてやりたいことができずに苦しんでいる多くの人がいる一番の理由は,実は,何をしたいのかが見失われているからではないでしょうか?少なくとも先進国における貧しさは,物質ではなくモチベーションの欠如にその源があるように思います.私が,勝利の後でも不本意な敗北の後でも変わらず元気に練習をしている部員の姿を見つめていたいのは,それが「実」のみならず「質」的な発展を目指す日本の象徴であるように感じるからかもしれません.




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2013年09月28日

行動優先順位

できるや否やはなはだ不如意ではあるが,本日より以下の行動優先順位を定める.

○優先順位
1.その場所でできる掃除
2.その場所でできる創造
3.移動(脚を使う)
(2013年9月28日より,富田直秀)

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2013年07月30日

行政施策への意見「医師同士が自主的・良識的に無駄を規制し合う体制 」

今月の行政モニター

「革新的な医療技術の早期実用化を促進するのだという.医療技術開発者である私にとっては願ってもない朗報である.しかし「無駄な医療」が減少しなければ,新しい技術の事業化は医療経済を崩壊させる.「無駄な医療」とは客観的には定め難く,なによりも現場の医師同士が無駄を規制し合う体制が不可欠だろう.医療現場では,だれよりも患者自身が過剰と思われる医療を求める場面が多く,それを諌めるのが医師だからだ.医師の良識が求められるその一方において,保険医療の締め付けと利潤確保の駆け引きの中で,狡くなければ生き残れない悪循環も医療現場には生じている.客観的基準による医療内容の規制も必要だが,かえって狡さをはびこらせ良心的な医療を後退させる諸刃の剣ともなっている.繰り返すが,現場の医師同士が自主的・良識的に無駄を規制し合う体制がないままに医療が拡大するならば,医療ばかりではなく日本も崩壊するのではあるまいか.」

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2013年07月26日

無知と厚顔

  ちょっと聞き知っただけですぐに知ったかぶりをする私のこの無知と厚顔は,ああ,いったいどうすればいいのだろうか.先日は,京都市芸大の授業「奥行」で,こともあろうに,現象学を専門とされている魚住先生の前で,現象学の紹介をしてしまった.精神科の立場から共感や実感を重視された木村敏氏の「私的な間主観性」をちょっと読みかじって,だから論理的な検証を行う検証空間とともに,共感や実感を基礎とした創造的な空間があるのだ,などと,創造空間という私の勝手な造語にお墨付きを与えようとしてしまった.魚住先生は,(おそらくあきれられて,しかし,私の立場を慮ってか)「暗喩的な表現ですね」と,やわらかく評された.
  その魚住先生が,ご退職を前に,研究室の本の整理をされているのだという.そうして,絶版となって今は手に入らないという「他者の現象学U(哲学と臨床医学の間)」を,昨日,私に下さった.顔から火が出る,本来はそうなのだろう.しかし,その心もちは私の無知と厚顔に押しつぶされている.法然の専修念仏を聞きかじって自身の不節操の言い訳にしている生臭坊主のような,そんな無知と厚顔が私にはあって,この本に書かれているような,こつこつと積み上げられたまじめな何かを,私は蹂躙している.
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2013年05月23日

私は害虫

 列車の窓からぼっと駅を眺めていると,職員さんが灰皿の掃除をしていた.駅のホームにある背の高い灰皿箱を開けると,下からは水の入ったペットボトルが出てきて,その水で灰皿を洗い,ビニールの袋に流し込む.なるほど,これなら重い洗浄水を持ち歩かなくても,時々あの水を補給してやればいいわけだ.
  もし,1年間を1分くらいに編集して映画を編集するとする.そうして,世の中から大学教授をなくしてみたら何が変わるだろうか.医者は?,政治家は?,,と考えていくと,もちろん,いろいろな状況があるだろうけれども,掃除をする人の世の中への貢献は計り知れないものがある.医者や政治家や,,がいなくなっても世の中はそう変わりしないが,掃除をする人がいなくなれば,世はあっという間にごみに囲まれる.掃除は,循環によって存在しているイキモノや社会が持続性を獲得するための,まさに要の作業だといっても大げさではない.白状するならば,私は新しいことを考え実行することに喜びを感じる一方で,掃除という作業を面倒に感じている.私のような人間は,この早回し映画で見ると,秩序ある人間社会を食い荒らす害虫のような存在だろう.
ここで話をやめてこれを結論とするのは悔しいが,事実だから仕方がない.
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2013年05月13日

科学技術政策,,,

  政策モニターに登録していて,政策に関する意見を400字以内にまとめて月に一回程度内閣府に送る.一人でブツブツ文句を言っているよりは健康に良かろう,などと思って始めたのだが,書いてみると,我ながらどこか胡散臭くて,どにかく居心地が悪いのだ.

五月提出題名:科学技術政策に求められる「みる」力
本文:某製鉄会社に就職した学生の言です:「中卒高卒の人たちが責任をもって技術の核心「質」を維持している.紙に書かれた技術は海外に盗まれても,人を育てるシステムは今も日本を支えている,と実感する.」思えば,こうして日本を支えてきた人たちは,名を残さず,不況時には真っ先に首を切られてきたのではないでしょうか.日本の科学技術政策の成果は素晴らしいとは思いますが,紙に書かれた情報に翻弄されている一面もあると思います.名もない誠意ある仕事を「脚を使って」探し出す活動が必要であるように思います.ただし,情緒的な技術把握は様々な欺瞞・利害・価値観の対立を科学技術の世界に持ち込むパンドラの箱でもあります.正確な科学知識とともに,人と人,人とモノとの関係性を「みる」力,そうしてそれを政策に実現する実行力が科学技術政策に求められていると思います.

  要するに,文章や業績などのデーターばかりに翻弄されてお金をばら撒いてちゃいけねえよ,と言いたいのだが,「人と人,人とモノとの関係性を「みる」力が必要」と言っただけでは,いったい何を言いたいのか伝わっていない.どうすればいいか,という具体的な発案がない.我ながら自分を棚に上げて勝手なことを書くものだと思う.先日も,学生たちと来年の卒論テーマを話し合っていて,「問題解決のための道筋(ストーリー)と,何らかの最適化設計要素がなければ工学研究にならんだろう」などと偉そうに言う.後で学生がトコトコと寄ってきて「先生はどんなストーリーと最適化設計を経て○○を開発したんですか?」と聞かれると,そ,それはね,,と頭を掻く.
  本心を言えば,最初からストーリーと最適化設計ばかりにこだわっていたら,新しい技術など育ってこないのだ.もちろん,土台としての基礎は絶対に必要だが,プラモデル作りのようなここほれわんわん研究は教育としては成り立っても,本当の技術開発にはなり得ない.頭の中だけで練られた設計がうまくいくほど現実は甘くない.根底を覆すような基礎理論を土台とする技術は別だが,たいていの技術開発の肝の部分は,五感六感と脚を使い,手探りでこつこつと創りだされている.データを見て予測するよりも,関係性を「みて」方向性を感じ取る野生が創造性の根本にはある.合理的な検証力も大切だが,それが生かされるのは,創造性を管理しようと考えたり,おおかたの創造が終わって自慢話を記述する時だろう.要するに今の大学は合理的な検証力ばかりを教えていて,創造性の核心には触れていない.(いつか述べようと思うが,芸術大学は,今も創造性を念頭に置いた教育をしているように思う)
  私の話の胡散臭さは,現在の私が創造性の根本となる不安定で不安で妄想に満ちたところを避けて自慢話ばかりをしているところだろう.本当に創造的な活動しているとき,人は多くを語らない.日本の科学・技術政策も然りではないだろうか.自慢話ばかりが飛び交っていて,どこか胡散臭く,どこか居心地が悪い.
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2013年03月26日

京都大学

  大学院の修了証書授与式の後に謝恩会(のようなパーティ)が開催された.その中で,昨年退職され,今は同窓会長を勤められているMAT先生と,今年ご退職予定のMAK先生のお二人のお話が好対照で特に印象的だった.MAT先生は,グローバル社会の中で世界の優れた人達と競い合っていくためにも,また個人的な悩みを解決していく上においても人脈を持っておくことが大切である,と述べ.その人脈が持続的であるためには教えてもらうだけではなくgive and takeの関係性が大切だ,と語られた.またMAK先生は,縦軸に能力達成のような量,横軸に年齢を対数目盛にしてグラフを描いてみる,と話を始められた.たとえば,横軸は1〜10歳と10歳から100歳が同じ長さとなるように目盛ってみると,幼児や若い人のその一つ一つの能力の向上がいかにすばらしいものであるか,を語られた.MAT先生が仕事や結婚など,学生のすぐ目の前にある心配事を例として挙げたのに対して,MAK先生は赤ん坊が立ち上がるということがいかにすごいことか,を例に淡々と述べられた.MAT先生が人生にはっきりとした目標と目標に向かう方法論を明示されたのに対して,MAK先生は多様な人生のサビのようなところを語られたように思う.私の偏った視点から見ると,MAT先生は「実」を中心に,MAK先生は「質」を中心に語られたように感じたのだが,それはまあ,どうにでも解釈できるのだろう.面白いのは,同じ機械系の中にも実に様々な価値観の人が混在していて,お互いに迎合するでもなく反目するでもなく,うまく棲み分けているところだ.上に紹介したおふたりの言葉は,それぞれの人生の基軸を最後まで曲げずに貫かれた結果でもあるのだと思う.これは,一般社会ではそう簡単なことではない(もちろん,お二人ともまだ「最後」に至っているわけではないが).
  そもそも,誰もが心の奥底にその人だけの強いこだわり(芸術を語るときには「絶望」と訳すが)を秘めていて,たいていそのこだわりは人に理解されない.理解されなくとも安易に迎合せず,人のこだわりも(とやかく言いはするが)尊重するところに,京都大学の真骨頂がある.一色には染まらないのだ.京都大学は自由を尊重する,とよく言われるが,それは英語の freedom ではなく,それぞれが自らに由る,ところの「自由」だろう.行動の自由度が高いのではなく,行動に自主性が求められている.安易にそれが心地よいとは言わない.自らに由ることの,迎合しないことの厳しさも十二分にあるのだ.京大で思春期を過ごした若者たちには,安楽な生活が提示されているわけではなく,辛くともどこか小気味良い生き方が提示されているのだと思う.
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2013年02月07日

(目に見えない)悪循環をターゲットとする

  イキモノや社会の関わる問題の多くは悪循環に起因する.ここで詳しくは述べないが,例えば,痛みの悪循環,貧困の悪循環,廃用症候群の悪循環,,,などなど,悪循環の名称が付けられた現象だけでも数多く知られている.そうしてたいていの場合は,痛み,貧困,廃用変化,,といった悪循環の中心となる現象がその問題解決のためのターゲットとなっている.しかし,本当に痛み,貧困,廃用変化,,といった現象への対処が悪循環への根本対策なのだろうか?
  最近,耳鼻科分野での興味深い話を聞いた.有効な治療方法が確立しておらず,未だに多くの人が苦しんでいる(長期に続く)耳鳴りの治療に対して,音が聞こえる,という現象のみではなく,その悪循環全体をターゲットとした治療システムが発達しつつあるという.長期の耳鳴りの場合,耳鳴りが不快と認識され,その不快のために頭の中にその音を強く意識する現象が発生し,その現象がストレスを招き,そのストレスがさらに耳鳴りに対する不快感を深める,という悪循環の存在があるという.夜間のように,悪循環を遮断する刺激の少ない時には,不眠,精神的緊迫などのためにさらに悪循環が生じやすいらしい.たとえば,TRT(Tinnitus Retraining Therapy)では,この悪循環を壊すために,別の音をかぶせて耳鳴りに気が向かないようにする音響療法や,悪循環の回路を理解するカウンセリングなどが行われている,という.つまり,「音が聞こえる」という現象をターゲットにするのではなく,目に見えない心理作用を含めた悪循環回路全体への理解と対処をおこなう治療システムであるらしい.まだその治療現場を取材したわけではないので,あくまで聞き知った知識として把握しているだけだが,心理,聴覚,看護などの様々な要素が多様に絡んだ悪循環に対応できる多分野横断型のシステムが成立しつつあるのではないだろうか,と想像している.
  悪循環の中心となる現象のみではなく,悪循環回路全体をターゲットとするシステムの構築は,言葉で言うのは簡単でも,実際にはとても大きな問題を含んでいる.たとえば,整形外科分野では痛みの悪循環への対処が重要だが,ただ単に「痛みと友達になりましょう」などと,その痛みの渦中にない者が言葉で説明するだけではかえって不信を招いてしまう.現実の痛みに苦しんでいる患者にとっては,やはり痛みという現象の消滅が治療に求める第一の効果だからだ.最近では少量のオピオイド(麻薬の仲間)を含んだ様々な製剤が広く使用されつつある.もちろんその適応には厳しい基準があるが,それらの優れた除痛効果がエビデンスとして定量的に示されやすいだけに,かえって危惧も感じざるを得ない.痛みは,正常な身体異能を維持させるための大切な感覚でもあるので,除痛のための強力なツールをしっかりとコントロールして使うのはそう簡単なことではない.治療者は,「痛み」という現象だけに振り回されずに,目には見えにくい悪循環全体を見据えていなければならないだろう.
  私自身の例をお話しよう.先日の腰痛発作で,動作のたびに全身を貫いていた激痛は,神経根症状と思われる右臀部の疼痛に変化して,今も残存している.たとえ痛みは鈍痛となっても,常に痛みの中で暮らしていると,時に,居ても立ってもいられない焦燥となることがある.おそらく,この痛みとは長い付き合いになるのだろう,と(一応専門家としては)観念しているのだが.一方では,やや楽観しているところもある.こういった神経根性の痛みとの付き合いは,これが初めてではなく,20代の後半に剣道の練習中に受けた外傷から頚椎症を患い,その時には左肩から親指にいたる逃げ場のないしびれと痛みに苦しんだことがある.その症状自体は今も消えてはいないのだが,私の脳は上手にこの症状を隠しているらしく,このように思い出した時にだけ,左腕のしびれと痛みが襲ってくる.おそらく,この臀部の痛みもいつか同じように「忘れる」ことになるのだろう.
  この「忘れる」または「痛みと友達になる」という目に見えないあやふやな結果は,それをエビデンスとして定量評価するのがとてもむつかしい.先に紹介した耳鳴りの治療では,耳鳴の苦痛度及び生活障害度としてTHI(Tinnitus Handicap Inventory)が提案されており,さらに一般的な尺度としては様々なQOL(Quality of Life)評価も存在するのだが,それらの多くは暗示や先に述べたオピオイドを含んだ製剤でも改善してしまう.たとえば,同じような障害を受けても交通事故などでは長くその症状が消えないことが多いのだが,以前に整形外科医をしていた私の実感としては,わざと症状を訴えている場合はむしろ少ないように思う.心理作用も加わった痛みの悪循環が患者本人を相当に苦しめていたように思い出す.そうして,愁訴を根気強く聞いてあげることと,抗不安薬などの投与くらいしかなすすべがなかった例も多い.
  東北震災時のブログにも書いたが,社会的にも,こういった心理作用も加わった逃げ場のない苦しみの悪循環が日本の各所で生じているのではないだろうか.痛み,貧困,,のような悪循環の中心となる現象のみをターゲットとするのではなく,悪循環回路全体をターゲットとした科学的な対策方法が,つまり,心理やコミュニケーションなどの見えない対象を扱う専門家と,エビデンスとして見える現象を扱う専門家とがチームとなり,多様に絡んだ悪循環に対処するシステムとその構築理論が,イキモノや社会に関わる問題解決のための科学的方法論として求められている.集学的なシステム構築のポイントは,その効果の評価方法の構築であろうと思う.エビデンスとして評価できなければ,様々な胡散臭い方法論の巣窟となってしまうからだ.

(TRT療法の説明では,名古屋第一赤十字病院耳鼻咽喉科,柘植勇人氏のHP(http://www.nagoya-1st.jrc.or.jp/3/library/trt.html)を参考とさせていただきました)


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2013年02月03日

目に見えない絶望

  外から見ることのできない絶望というのは,とことん目に見えず,また他人に理解されることもないのだと思う.先日,性同一性障害の人とお話をさせていただく機会があった.その人の持つ絶望は,どう言葉で表現しても理解されないのだろうと思う.その人に限らず,誰もがそれぞれの「目に見えない絶望」を抱えていて,お互いの絶望が共鳴し合うことはあっても,理解し合うわけではない.この目に見えない絶望が,芸術という活動の胆のところにあるのだと,私は勝手に決め付けている.
  2年ほど前に,藤浩志という芸術家の講演を聞いたことがある.彼は,鴨川に鯉のぼりを流したり、地面にお米を敷きつめたり,そのお米から無数のカエルを作ったり,ペットボトルをつなげてドレスを作ってファッションショーをしたり,いらなくなったおもちゃを交換する催しを主催したり,,とにかく,これまでの芸術家というイメージからは外れた活動をしている.それでも彼が芸術家であるのは,彼が芸術家としての基礎を身につけているからであり,芸術家であると社会から認められているからだろうが,私にとっては,何よりも藤浩志の活動や作品の中に漂っている目に見えない絶望の匂いが彼を芸術家たらしめているように思う.   「暗い」ということでは決してない.「目に見えない絶望」は,時として,はた目にはかえって明るくひょうきんでもある.たとえば,身体の病気やいじめや差別といった目に見える絶望が,逃れようとしても逃れることのできない暗さを有しているのに対して,目に見えない絶望は逃れようとすること自体がおかしいほどに,その絶望が自分自身の内面の姿そのものでもある.夕日や星を見て,ああきれいだ,と感じているのは私ではなく私の絶望なのかもしれない.
  いかに感動的な作品であっても,作者の絶望の匂いが感じられなければ,それは芸術ではなく感動を目標としたデザインであると,私は決め付けている.藤浩志の持っているかもしれない目に見えない絶望を私は全く理解していないが,私だけではなく多くの人と共鳴し合う,個性の根源のような絶望が,芸術家としての彼の中にはあるのだろう.ゴッホの風景画,ショパンのプレリュード,竹久夢二の黒船屋,,,,,それらの作品が私に新鮮な出会いを感じさせるのは,彼らが感動を仕様としたデザイナーである以前に芸術家であるからだろうし,それは私の思い込みによれば,それぞれの目に見えない絶望が,私のそれとどこかで共鳴しているからなのだろうと思う.
  ところで,その性同一性障害の方が,本来の自分にはふさわしくないその乳房を切り取る手術を計画しているのだという.芸術分野に進んでいるという,自分の子どもくらいの年齢のその人に,私は初期乳がんを患った妻の話やら,そもそも自分とは何か,などとピント外れな話をしてそれに反対した.あれからもいろいろと考え続けているのだが,そうしてその結果としてこの文章を書いているのだが,私の目に見えていないその人の絶望は,その人にとっては厳然とそこに見えているのだから,その対象を取り除こうとするのはむしろ自然の流れなのかもしれない.ただ,手術の是非どうのこうのといったことではなく,外から見ることのできない,決して他人に理解されない「目に見えない絶望」が,一方では多くの人と共鳴し合い,それがその人のとても貴重な個性とモチベーションを形作る可能性もあるのだ,と私は信じている.


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2013年01月20日

自分でパンツをはきかえる

  先日の朝.泊まりがけで研究室の引越し後の整理をしていて,ひょいと荷物を持った拍子にぎっくり腰になってしまった.数年に一度の定例行事ではあるのだが,今回は起き上がることもままならない,けっこうな重症例だ.ぶざまな姿で研究室に転がりながら,いやこれもチャンスなのかもしれない,と,周囲のモノたちとぎっくり腰を患った自分との関係性をじっくりと観察した.
  まず,やはりモノは整理整頓しておかなければこんな時にどうしようのない.ちょっとした邪魔モノをよけるのにも激痛が走る.部屋が整頓されていなければどこにも移動できず,何も取り出せないのだ.床を横切る一本の配線が大障害になる.床や机の汚れはそのまま衣服に付着する.やっと椅子に座れるようになってから重宝したのは,キャスター付きで背もたれのあるシンプルな椅子だった.高さや背もたれの角度を自由に調節できる高機能椅子は,とにかく重くて場ふさぎで不自由だった.トイレには頑丈な手すりが設置してあるのだが,一番手が届きやすい便利な場所にトイレットペーパーがあって邪魔をしている.このトイレットペーパーの取り付け具を丈夫にして体重をかけられるようにするのがまずは第一歩だろう,,,などなど,いろいろと発見はあったのだが,他を圧倒して最も重要であったのは,
「自分でパンツをはきかえる」
これができない不自由だった.私のこの一日の動作の中で,誰にも言いたくなく,誰にも手伝って欲しくなく,かつ,なんとも困ったのがパンツのはきかえだった.いや,どうにかこうにか一人ではきかえはしたのだが,無様な格好でパンツと格闘している姿は想像さえして欲しくない.
  12月03日のブログ「病人・身障者クロッキー」に,「言語に表されないその人の情報を形に残し,頭に叩き込む作業が必要不可欠である」,と述べて,病人・身障者のクロッキー画を描く試みを紹介したが,たとえば,たかが半日間患者と接していただけで「自分でパンツをはきかえることができない」というこの尊厳に関わる屈辱的.問題を「みる」ことができるのだろうか.体験装具などを使ってもっと根本的に企画を考え直さなければならないのではないだろうか,,,などと,また迷いが生じる.
  実を言うと,この企画を芸術家の方々に相談した時に,多くの人が暗い反応を示した.ある画家は,「芸術家はとにかく対象に入り込んで,吸い込みすぎるところがあるので,芸術家がそこに入り込むと相当にしんどいかもしれない,はたして持つだろうか,,」といわれた.なるほど,私はまだまだ鈍感なのだ.エンジニアにも,いや,これからのエンジニアにこそ,この芸術家たちの吸い込みすぎるしんどさが必要なのだろう.とにかくは,まず体験してしてみなければならない.

,,,それにしても,この時間と無さと腰の痛さはどうにかならんものなのか,,,




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2013年01月16日

名前付きの仕事

   15日のブログに,「『誇るべき研究』とは,もちろん論文のみを意味しているのではない」と書いて論文を目的とした研究を非難しておきながら,その同じ日に学生には,「論文は,時代を超えて名を残すことのできる数少ない仕事の一つだ」などと言って,論文の重要性を語っている.どちらも私の本心であって嘘はないのだが,,誇れる仕事とは何だろうか,という私の迷いは今もまだ続いている.

  ところで,家の屋根裏に無造作に置かれていた古い掛け軸の中に,私が特に気に入っている作品がある.朝起きると床の間にか下げられたその絵をしばらく眺め,出かけにまた視線を送り,帰ってくるとまた見る.その構図にはどこかぎこちなさがあって,しかし,その繊細な描写から想起する精神性が尋常ではなく,何度見ても飽きが来ない.この構図と描写のちぐはぐさは,模写に感じるあのモゾモゾとしたちぐはぐさとも異なっている.構図も描写も非の打ち所が無い,のではなく,むしろその構図の微妙なぎこちなさと描写の素晴らしさが重なり合って,作者の生き様が心に迫ってくる感がある.名人が隙なく描いて見せる秀作もいいが,それとはまた違った,どこかねちねちとした命がけの重さがある.
  この絵は,高い評価を受けなかったからこそ,こうして私の目の前にあるのだろう.しかし,毎日眺めていると,これこそが時を超えても輝きを失わない「誇れる仕事」なのだ,と,頭ではなく実感としてそう感じる.
  絵画も研究も,時代を超えて保存されるための,つまり何らかの財産として認められるための基本的な技術は備えていなければならない.その上で,本当に誇れる第一級の仕事であるか否かは,多くの人が長い時間をかけてじっくりと付き合ってみてはじめてわかるのではないだろうか.その時代の評価云々に,そう焦ることもないのだろう.
  あとにつなげることのできる仕事を完成させるのであれば,自分の名前を残しても残さなくてもいいのだろう.しかし,たとえば,もうだめだ,と途中で息が途切れそうになったり,実際に息が切れて野垂れ死にをしてしまったとしても,信念に従ってさえいればどこか大きく構えていられるのは,研究や芸術や報道,,といった仕事が名前付きであることも大きな要因なのではないだろうか.
  名前付きの仕事を残す,ということは,単なる自己表現や自己顕示だけではなく,ヒトがその時代の評価に惑わされずにおおらかに一生を終えるための一種の祈りのようなものかもしれない.



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2013年01月15日

揺るぎない知恵

  一年の計は元旦にあり,などと言いたいわけではないが,年賀状に手書きで書き込まれる一言一言には考えさせられることも多い.
  私の恩師の一人である筏義人先生からの年賀状には「中途半端にならないよう,よく考えて誇るべき研究を行ってください」と添え書きがあった.研究が役に立つことに厳しい姿勢を貫かれた筏先生が言われる「誇るべき研究」とは,もちろん論文だけを意味しているのではない.論文は,役に立つための一つの手段ではあっても決して目的ではないのだが,短時間で学生に論文をかかせなければならない大学では,どうしても論文が目的のようになってしまう.私は,自分を賢く偉く見せるために研究をしてきたのではないだろうか,私の誇るものは何だろうか,,と七草粥と小豆粥を食べ終えた今もまだ考えている.
  もう一つ,生命誌研究館館長の中村桂子先生から届いた年賀状には,「研究が日の丸を背負わないほうが良いと思っています」とあった.実は,この正月休みに私は日章旗の絵を描いていたので,なにか私の心を見透かされているように思えた.
(添付写真)
この大晦日から正月にかけては,何年ぶりかで自由時間を取ることのできたので,”pray for Japan”という題名だけを心に刻んで何枚かの絵を描いてみた.当初は双葉の写生に始まったのだが,何度も何度も書き直しているうちに,いくつかの日章旗の形に変貌した.政治との関わり合いを極度に嫌う私にとっては躊躇を感じざるを得ない題材なのだが,震災後の日本の危機感や役に立つ研究への焦りが,知らず知らずのうちに日の丸や国家や助け合いへの気持ちを際立たせたのかもしれない.ただ,私の描いた日章旗にはどこか怖さもあって自分でもギョッとするところがある.中村先生に,この添え書きをブログで公開することの承諾を乞うたメールをお出しすると,「皆で助け合うのは大事ですが,そこに日の丸はいりませんでしょう.一人一人が見えるのが好きです.」と追記を書いていただいた.中村桂子先生が「生命史」ではなく「生命誌」と表記される意図も,誤差を持った塊としての集団の平均値ではなく,主体性と多様性を持った一人一人に対峙する姿勢から自然に生まれたことなのだろうと想像する.思えば,中村先生も,そうして筏先生も,とてつもない忙しさの中で専門外の方々からの様々な質問に一つ一つていねいに返事をされていた.私にはない「揺るぎなさ」が,つまり多様な価値観に真摯に対峙して,なお強く活き続ける知恵とモチベーションが,お二人にはある.
  フォークグループかぐや姫の歌「神田川」に次のような一節があった.
「若かったあの頃,何も怖くなかった.ただ,あなたのやさしさが,怖かった,,」
純粋で一途なやさしさでも,多様な価値観と対峙してなお揺るぎなき知恵がなければ,後戻りできない残酷さを内包してしまう.私は,そうして,おそらく現代の学者の多くは,「神田川」に歌われた若者のように,純粋で,一途で,そうして怖さも内包した存在なのだ.
  誇れる仕事をすること,そうしてその誇りが独りよがりや集団よがりではなく,多様性に対峙した揺ぎの無い知恵を基盤としていることの重要性を,今年の年賀状の添え書きは教えてくれている.


IMG_1109 明.jpg


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2012年12月03日

病人・身障者クロッキー (虫の目活動 その1)


  医療現場には,そこに入ってみなければなかなか理解することのできない「冷たさ」がある.たとえば,患者の痛みを自分の痛みとして捉えるならば,針一本,メスの一太刀もその肌に施すことはできない.私が研修医であったころには「痛みは患者持ち,と思わなければ治療を冷静に行うことはできない」と教えられた.身体を構造物として扱う徹底した冷たさも,医療従事者には求められている.その冷たさを補うのがコミュニケーションと記憶力なのだと思う.コミュニケーションの大切さは常に語られるが,目の前の構造物がどのような名前を有していて,どのような表情で話をして,どんな生活をしていて,何に困っていて,何を喜びとしているか,どんな家族がおられてどのような背景を背負っておられるのか,,,,と,その人の歴史を知り,憶えていることのできる記憶力も,医療に求められる「職業的な」優しさの中核にある.子供のころから名詞を覚えることのできない脳を有している私にとって,臨床は一つの試練の場でもあった.私が研修医であった頃,その左手の手背には憶えねばならない患者情報がいつも真っ黒に書かれていたのを思い出す.臨床を離れて医療技術の開発研究を行っている現在は,手背に文字を書き込むことはなくなった.文字で表すことのできる情報は手背ではなく,きちんと紙やコンピュータに記録することができる.そこで気がついたのは,(思えば当たり前のことなのだが)言葉や数字では表わされた情報の本当の意味は言葉や数字では表わされていない,ということだった.
  前回(2012年11月13日)のブログで,不自由な生活を続けている親戚の方のクロッキー画を描かせていただいたことや,来年度から病人や身障者のクロッキー画を描くワークショップを始めることなどを述べた.言語に表されないその人の情報を形に残し,頭に叩き込む作業が医療(または医療技術開発)に必要不可欠である,と考えるからだ.一般の技術開発のように,要求事項を言葉や数字で表現し,それのみを仕様として設計をすすめると,医療技術は時として「質」を大きく損なう.たとえば,よく見えることだけを仕様にしてメガネを作成すると,画像が歪んだり目が疲れたりしてかえって日常生活に支障が出る場合がある.さらに,デザインや色など,言葉や数字で表すことのできないその人の生活を「みる」ことができて,初めてメガネという技術が意味を持ってくる.もちろん,文字や数字で表された情報も重要であるが,技術の「質」はそれだけでは達成されない.ただその「みる」という能力が,病人や身障者のクロッキー画を描くワークショップで鍛えられるのか否かは,その評価方法がない.私の思い込みなのだろうか.まだワークショップを始めていない現時点では未だ「絵に描いた餅」だ.
  一つだけ言い訳をするならば,現行の医療技術開発の多くがもともと絵に描いた餅のようなのだと思う.医療技術開発の多くの活動は,餅にならない絵を(莫大な税金を投じて)描き続けている.事業化(つまり持続的に役に立つ仕組)の見込みの無い医療技術開発に,国はいったいどれだけお金をつぎ込めば気がすむのだろうか.また,開発者たちは自身の技術が本当に医療現場を良くするという確信があるのだろうか.私を含めて,研究者たちは,患者をそうして医療全体を本当に「みる」ことをしているのだろうか.臨床現場や医療技術の開発現場では,文字や数字で表された情報のみが氾濫しているのではないだろうか.米国に次ぐ世界第二位の優れた基礎研究を胎内に擁する日本の医療技術開発には,医療の生々しい現場から社会経済全体を達観した目利きが働いているとはとうてい思えない.いや,かく言う私自身にも目利きの目はなく「本当に役に立つだろうか」と悩みながら手探りで進んでいる.個々の患者を「みる」ことができる人材と,ビジネスモデルを構築して持続的に役に立つしくみを「みる」ことができる人材とがかい離をしたまま,日本の医療技術開発は世間の期待に押されて暴走している.
  日本の医療技術開発の抱えるこの膨大な無駄に比べれば,単なる思い込みであるのかもしれないクロッキーワークショップは,せめても私たちに何らかの新しい目を開かせてくれるのかもしれない,なによりも,この活動は名誉や権力の暴走に無縁であるからだ.無駄かもしれないが,もぞもぞと進めてみようと思う.,,まあ,研究室の引っ越しと,卒論修論が終わって時間ができてからだが,,,本当に時間ができるだろうか,,,


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2012年11月13日

病人や身障者の絵を描こう,,


  この日曜日に,脳出血後の後遺症で不自由な生活を続けている親戚の方のクロッキーを描かせていただいた.絵を描くことで,その人の不自由や自由が文字を介さずに頭の中にこびりつく,,,のだが,しかし,では何をしてあげることができるのだろうか,と考えても,そう簡単にはよいアイデアは浮かばない.「つ」の字のように固まった片手,一方の手はよく動いているけれども車いすに斜めに座り込んだ姿勢ではコンピュータも操作しずらいだろう,転ぶ危険さえ補助すればもっと色々に活動できるだろうに,,けれども.この体の重さと筋力の弱さと,そうして何よりもこのふがいなさをどうすればいいのだろう,,,
  実は来年度から,医療技術開発を目指す人に病人や身障者のクロッキー画を描いてもらって,言葉や数字で表されない情報を「みる」実習を計画している.その予行として描かせてもらっているのだが,,しかし,計画者自身がこのように何の成果も示せずに途方に暮れるようでは,もともとアイデア倒れなのか,,まあ,その人の存在が頭の中に長くこびりつくだけでもいいか,,,,.


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2012年10月10日

ちんちろりん

               「ちんちろりん」

                                   富田直秀

  先先日の研究室旅行で,十何年ぶりかで「ちんちろりん」を学生たちと楽しんだ.三つのサイコロを振って,その目の数で勝ち負けを決める.基本的には運だけの勝負だが,次の勝負にどれだけの点数(もちろんのこと現金や物品は賭けない)をつぎ込むかで,いわゆる運の流れのようなものを楽しむゲームだ.実を言うと,私はこのゲームでまだ一度しか負けたことがない.(新婚の頃に家内に一度だけ負けた,,)もちろん,サイコロの振り方などにズルをしてサイコロの目の出方を変えるのではない.次にどれだけ点数をつぎ込むか,の判断において予感が働いているわけでもないだろう.強いてコツとして思い浮かぶのは「欲を出さない」「捨身である」「主導的立場となる」の3点である.
  サイの目の勝負は運だけで決まり予測も不可能だが,点数勝負にはまったく理性的判断の入り込む余地がないわけではない.たとえば,終盤に大量にリードしていれば多くの点数を注ぎ込まずに逃げ切ったほうが得であろうし.さらに,勝っているときはリード幅よりも多くの点数つぎ込まない,という「欲を抑えた」,また,負けているときは負け幅よりもわずかに高い点数をつぎ込む,といった「捨て身の」行動によって,少なくともリードをしている状態の回数を増やすことはできる.しかし,これだけではリードしている回数を増やすだけであって,負け続けて大損に陥る可能性が含まれているので,無数回のゲームで期待される得点を平均すれば得点の差はなくなる.有限回のゲームで,いわゆる勝ち逃げが許される程度の「主導権」を握っていれば,勝ち逃げを繰り返すことで必勝が可能となるのだろうか?私はその方面の専門家ではないが,勝ち逃げを繰り返す(つまり,場に流通している価値を少しずつ自分の懐に移行させる)方法の実現性も疑問視されているらしい.論理的にすっきりとした説明がなかなか難しいが,それでも,たとえば,勝つと調子に乗り,負けると諦めたり無謀になる人の多い集団の中では相当の確率で勝つことができそうに感じてしまうのはなぜだろうか?
  と,このようなことを述べている私は,組織の長にはとうてい向いていない.過去の歴史や法則から未来を的確に予測し得策を選択する理性と,得策を実現させる実行力が,組織の長には求められているのだろう.私は大学生の頃からサークル活動でも仕事でも,属する集団が躍進に転じる,という幸運に恵まれ続けてきたが,私自身はいつも集団の中で平か,または副の位置であった.予測と統制を行う組織長の横で,自分が良しと思うことを黙々と続けていたり,突然それまでの利益を捨てる変な提案をしたりしていた.このことを自己満足的妄想的に解釈するならば,歴史と法則とに固執している集団に,都合のいい時(負けている時ではなく,むしろ勝っている時)に目先を変える,という,いわば勝ち逃げの繰り返しのようなアイデアを提供していたのかもしれない.前述のようにひとつの価値基準の下では勝ち逃げによる常勝の理屈はなかなか成り立たちにくいらしいが,価値基準の自体の変更(イノベーション)があれば予測のきかない変化の中でも得策を選択できるに違いない.価値基準のframe workの変化は具体的には,目的のふりをして実は手段であったり,手段のふりをして実は目的であったりと,臨機応変に目的と手段とを入れ替えてモチベーションを持続させることでもある.たとえば,目前の勝利のために一致団結するのであれば,一見,勝利が目的であって一致団結が手段であるようだが,これは逆に勝利が手段で一致団結が目的であっても良い.確固とした目的をかかげることも躍進の一つのコツではあるが,時として事後に過度の疲労と脱力とを生む場合がある.実際に持続的な躍進を続ける集団はこの手段と目的のframe workの変化が実に巧みだと思う.個人的趣味としては,さらに共通目的までなくしてしまって,構成員それぞれがそれぞれの生き様,それぞれの価値観で動いているが,結果として,その時々の手段が一致しているような,臨機応変で自由な集団が好きである.
  なんのことはない,私は組織躍進のスイッチを密かに握っていたのかも,,などと,自我自賛で都合の良い話にまとめようとしているのだ.しかし,時間的にも空間的にも多様性を内包する社会の中では,欲に翻弄されず捨身になって主導的にframe workを変化させることが「運」を引き寄せるひとつのスイッチになっている,と述べても,あながち空言ではなかろうと思う.何を得とするか,という価値のframe workの変化は,言うのはやさしく実行には相当の抵抗を受ける.抵抗の中でも多くの賛同を得るためには,欲に翻弄されず捨身になる心構えと主導的な立場が,やはり必要なのだろう,,が.まあ,このように根拠のない自慢話は適当なところでやめておかなければならない.「ちんちろりん」に無敵であった私が,若かりし頃の妻に負けたのは,欲に翻弄され保身となり,しかも主導的に価値観のframe workを変化させることができなかったためだろう,,などと,きっとかげぐちをたたかれるからだ.


(誤解が無いように付け加えておくと,価値観のframe workを変化させるイノベーション型の人間は組織のトップに持ち上げるべきではない,または,frame workを変化が世に認められたならばすぐに主導的立場からは降りるべきだろうと思う,,,繰り返すが,過去の歴史や構造化された法則から未来を的確に予測し得策を選択する理性と,得策を実現させる実行力が,組織の長には求められている.frame work変化の後に必要とされるのはその構造化であって,イノベーション型の人間はモヤモヤとした構造のない状態から行動を選択する構成力には優れていても,万人が安心できる構造の構築に長けているとは限らないからだ.)









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2012年07月13日

面倒くさいだけで,内容のない話

  先日,芸大出身の方々と一緒に酒を飲んだ.一人の画家の方が作品の写真を持ってこられていて,私もなるべく正直にその絵の感想を述べ,このブログでも何回かご紹介したような吉本隆明氏の芸術観も聞いていただき,実際の画家の生活をお聞きして,,とにかく話は楽しく進んだのだが,,お別れした後に,私だけが浮いていたような感覚に襲われた.プロフェッショナルではない分野に軽はずみに口を出しすぎて芸術家の心を傷つけてしまったのではないだろろうか,私は,面倒くさいだけで内容のない話をしていたのではないだろうか,,と,寝苦しい夜を過ごした.
  それからまた1日が経過して,今やっと,あっ,とわかったように思う.あの時,私一人だけが文字の世界に棲んでいた.一緒に楽しく言葉を交わしていたけれども,あの居酒屋の片すみで,私の周りにだけ「文字」という違った水があったように思う.そういえば,あの時私の膝の上にあった写真の中の絵の表情もどんどんと変わっていき,文字として表現された私の感想はどんどんと意味を失って腐っていくのを感じていた.しゃべる絵もしゃべらない絵も,にこやかな絵も無愛想な絵も.作品としての上手下手や好き嫌いの以前に,そこに出会いがあったはずだ.意識的に(文字的に)見る以前に見えているなにか,意識的に描くのではなくつぶやくようななにかを,私はしっかりと受け取る前に,性急に文字としてとらえてしまっていた.たとえば,よくしゃべる作品,好きな作品,上手い作品,人の物語を受け止める作品,,,と形容詞に修飾された作品という名詞が,その言葉の法則の中で整理され理解されただけで,絵のもつ本当のつぶやきを聞き逃していた.
  そうだったのか.「みる」ということの意味を,私はまだまだわかっていなかった.今までにも同じような経験があった.芸大や建築学科の講評会に参加させていただいたとき,私の目からみると学生の間にはレベルの違いがあるように見えるのに,講評の先生方はレベルとは無関係の話に終始しているように思われた.理科系の授業では,たとえばある原理の理解度において学生の間にはレベルの違いがあって,教師はそのレベルを上げることを目的としている.その習慣からみると,講評会での先生方の言葉はわざとポイントをはずしているようにも感じていた.また,芸大のクロッキー会に参加させていただいたときに,「絵を見せてー」と私の周りに集まってきた学生に,私は大きな戸惑いを感じた.プロを目指す若い人たちの目の前に素人の絵が晒されることことの恥ずかしさに,私は戸惑ったのだ.講評会での先生方も,クロッキー会で集まってきた学生たちも,「どんなふうに生きてるの?」という出会いを,まず確かめ合っていたのだろう.その出会いがなければ,文字や数字としてあらわされる「レベル」も存在しない.私はせっかくの実感を,好きな作品,上手い作品,○○な作品,,とすぐに形容詞と名詞に翻訳してしまう.そうして,文字化された実感は安易にレベル化されてしまう.もちろんレベル評価も必要だろうけれども,そのずっと以前に生きた「出会い」を確かめ会わないと何も始まらないのだろう.芸大や建築学科の先生方は,まず,そういった出会いを教えておられた.「質」のレベル云々は教える対象ではなく,そういった出会いの中で育っていくのだろう.私はとんでもない考え違いをしていた.

  私だけではないのではないだろうか.学問にたずさわる者の多くは実感をすぐに文字として訳して,頭の中で文字の法則で処理をしてしまう.そうすることによって,一見気がきいたような物言いはできても本質は大きく外れてしまう.面倒くさいだけで内容「質」を伴わない話になってしまう.

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2012年07月10日

痛みの悪循環

「痛みの悪循環」

  痛みを感じると,なぜ痛いのだろう,といぶかしく思うが,本来,細部にまで感覚神経が張りめぐらされている身体において,痛みがないことの方が不思議なのだ.このことは,たとえば,高さの異なる靴を履いてしばらく歩いていたり,不自然な動きを繰り返していると,たいてい身体のどこかに強い痛みを生じてくることでも容易に知ることができる.痛みとは,ヒトが自然に行動する方向性を具体的に身体に教えてくれる一つの指標でもある.
  精神的な苦痛や社会の中の様々な苦痛も同じようであって,過度ではない苦痛は自然に生きる方向性を具体的に教えてくれている.身体の痛みでも社会的な痛みでも,過度ではない苦痛までも止めて安楽に安住すると,人は自然な行動を見失ってしまう,,,
  しかし,痛みの悪循環,つまり,過度な痛みがその原因をさらに助長させるような場合には,この苦痛は尋常ではない.私はこの5ヶ月間,足底腱膜炎という病気に悩まされてきた.足底にまさに針をさすような痛みがあるのだが,へたに抗炎症剤や痛み止めの注射をすると,かえって悪化させてしまう場合もある.けれども,痛みによって身体の活動性が下がり,そのために成人病を誘発するようならば,痛み止めでこの悪循環を止めるのも一つの手かもしれない.目の前にある苦痛は痛みなのだが,私たちが対峙しなければならないのはその痛み自体よりもその裏に隠れている悪循環のほうだ.たとえば,癌などの痛みは,頑固な悪循環の性質を持っているためになかなかそれを押さえ込むのが難しい.気丈に立ち向かっても,どうしても絶望を想起してしまう痛みなのだ.
  社会の中にも,絶望に似た痛みの悪循環がある.試練や関門などの,むしろ社会を自然な形に導いていた様々な痛みがどうして悪循環に陥ってしまうのだろうか.たいていは,人や組織が自然な成長を外れて癌のように増大しすぎるところに悪循環が生じるのではないだろうか.戦争や虐待の裏側には,癌のように増大し続ける何かがある.その増大し続ける何かは,それ自身も苦しいには違いないが,もう自分自身にもその増大を止めることができない.それが悪循環の特徴だ.
  人のことはまったく言えない.私自身も,過度ではない苦痛を避けて安楽に安住したり,痛みに翻弄されてその裏にある悪循環を見逃したりしている.



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2012年06月09日

吉本隆明・ばなな親子

  5月26日のブログ「秀吉嫌い : 年寄にはアーティストとしての役割がある」で吉本隆明氏の芸術論を取り上げたが,実を言うとこの人の本を読みはじめたのは,まだつい最近のことだ.作家の吉本ばななさんのお父上なのだという.ばななさんには,一度,拙書「ちゃっちゃんの遊園地」の評やらをブログに書いていただいたことがある,私の好きな作家の1人だ.
  まだ2,3冊を読んだだけで感想を述べるのはあさはかなのだが,この吉本隆明という人はなんとも徹底的に自分に正直な人だと思う.芸術論に関してこの人ほど明快な表現を見たことがない.芸術には徹底的な正直さが求められている(と私は思っている)ので,この分野に関してはこの人を手放しで信頼する.ただし政治の世界では,正直であることが必ずしも良くはない場合もある(と私は思っている)ので,政治に関するこの人の言にはやや首をかしげるところもある.要するに吉本隆明氏は,その超人的な読書量と論理性を抜かせば,きわめて庶民的で素直な人なのだろう.下町のちょっと気が強くて人の良いオッサンが「いいねえ」「ぐっとくるねえ」「てやんでい」「べらぼうよ」を言うかわりに,そこに至る膨大な指向と感性を,並はずれた知性と表現力と,素直さで説いている.その正否はともかく,この人の生き方に強いあこがれを感じる.
  さて,吉本隆明氏の本を読んでから娘の吉本ばななさんの小説を読み返すと,やはりばななさんも徹底的に自分に正直なのだが,その正直であることの苦悩とすがすがしさも見えてくる.あふれ出てくる言葉の底には,そのエネルギー源としての苦悩があるのだろうが,吉本隆明氏はそれをまったく見せずに読者を引っ張っていく文章の技巧がある.ばななさんの文章では,間欠泉のように吹き上がる言葉と,その合間の静寂とが,逆に苦悩と開放のすがすがしさを浮き彫りにしている.評論と小説,男性と女性,戦中派と現代人,親と子,,様々な違いはあるのだろうけれども,二人の文章に共通して感じる印象は「静寂」である.下町の夕暮れの軒先で将棋を指しながら「いいねえ」「ぐっとくるねえ」「てやんでい」「べらぼうよ」と世間話をしている父親と,傍らで線香花火をしたり地面に絵を描いたりして遊んでいる少女の姿が目に浮かぶ.二人ともとにかくよくしゃべってはいるのだが,そのしゃべっている言葉が直接に意味している内容よりも,下町の,夕暮れの,軒先の,そこに流れる涼しい風や,言葉に表されない悲哀やすがすがしさを,お二人とも大切にしているようだ.本人たちは否定するだろうが,日本の美しさを無意識に表現としているように私は感じる.たまたま海外への長い出張から帰ってきたばかりなので,そう感じてしまうのかもしれない.ただ,これだけ大量の文章の中に,強いことや賢いことをうらやんだり求めたりする表現はほとんど出てこない.強いことよりも,賢いことよりも,ただひたすらに自分に正直である事を最上に考えるところに日本の美しさがあるように,私は(自己満足的に)感じているので,このお二人にも日本人の美しさを(自己満足的に)感じてしまう.

(蛇足なのだが,読む人にそれぞれの自己満足を感じさせるのが,このお二人の文章の技巧,または特徴なのだろう.隆明,ばなな親子がこの文章を見たならば,,あれあれ,またこんふうに暴走する人が,,と苦笑いをするのかもしれない.)




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2012年05月22日

「伝える」

  あるテレビ番組で新開発人工膝関節の「寿命が30年!?」などと報道された件,あらためて,科学における事実とその伝え方の問題を考えさせられた.おそらく人工関節をまったく知らない人が,摩耗量が2/3になったと聞いて再置換までの平均年数約20年を30年にしてしまったのだろう.人工関節はすり減ることによって寿命をむかえるのではない.手術の正確性や摩耗粉に対する生体の反応,材料の酸化疲労破壊などの多数の要因によって再置換までの年数が決まってくる.摩耗粉の生体反応性も摩耗量とは直接には関係がなく,またさらに新開発の人工膝関節は,摩耗よりも酸化疲労現象の抑制を主眼に開発された材料なので上記の予想方法は全くの見当違いだ.もちろん長期に用いられる期待は大きいが「30年」には何の根拠もない.
 これらのことを説明してしっかりと理解してもらうのにはポンチ絵などを用いた相当量の説明時間とわかりやすい表現が求められるのだろう.「わかりやすさ」には正しさのみならず「安心」「不安」「信用」などのそれぞれの価値観に対する共感の能力も含まれる.その説明を最後まで聞いてもらえるだけの話術も必要になる.正確な科学知識と,このコミュニケーション技術の双方を身につけた人材は,世の中にほとんどいない.
posted by トミタ ナオヒデ at 08:36| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月23日

自分ができることは人もできる?

 昨日の夜,学生たちと四方山話をしていて,一つ思い出したことがあった.中学生の頃,記憶力の極端に弱い私は,歴史の年代や人の名前は読んでも書いてもどうしても憶えることができず,社会はいつも落第点を取っていた.ある日,社会の先生が採点した答案を配りながら「テストの点数はみな平等につけているが,富田は答えが違っていてもよく考えて書いていたので少しだけおまけした.」と,皆に言った.答案を見ると,確かに,少しだけ,加算されていた.
  今,教育者の立場から学生をみると,「どうしてこんなことができないのだろう.できないのではなく誠意がないからだ」と思ってしまう時がある.たしかに京大生は,できるはずだ,と強く言えばできてしまう場合も多い.そーれみろ,やればできるじゃないか,と教師は満悦する.けれども,できるかできないかでレベルを判断する「評価」とは,自分ができることは人もできるはずだ,という教師側の傲慢と,それぞれの学生が飛び抜けてできる何か,を探し出してやる教師側の誠意の欠如の結果でもあるのだ.もちろん,ある客観基準にしたがった「評価」は大切だが,それで誠意の有無や人の可能性までも判断してしまってはいけない.評価はモチベーションを高めるための一つの道具にすぎない.
  私はすっかりと忘れていた.中学生のころの先生のあの一言と、少しだけ、の点数は,本来劣等生である私を今もどこかで支えていてくれる.
posted by トミタ ナオヒデ at 08:02| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月19日

本質は伝わらず形式が伝わる

 本質は伝わらず形式が伝わる

  (大器晩成を育てる環境)では,形式に翻弄されて本質を見失っている現代の科学技術を批判的に述べたが,もともと科学や技術がどうしても形式を離れることができない事も述べておかなければならない.前述のように,本質はなかなか伝わらず形式のみが伝わる.本質とは常に直感的であって,共通の理解の下地がなければ直感は伝わらない.私たち人間は,生得の,つまりイキモノとして共通に持っている下地で直感を伝え合うが,それ以上に様々なコミュニケーションの形式を発明してきた.言葉や数や論理性もその発明された形式の一つだろう.一見直感的のようにみえる絵画や音楽でさえ,いや芸術分野にこそコミュニケーションのための精緻な形式を有している.芸術家たちは共通の形式の器にそれぞれの本質を注ぎ込み,かろうじて自分の存在を文化という形式の中に位置づけている.自分の両の手だけで水(本質)をすくってもそれを人に与えて飲ませるのがなかなか難しいように,芸術という公のコミュニケーションでは,技術(形式)という器を使って本質を伝え合い,結局のところ本質そのものよりも器(:技術:形式)の良し悪しと容積が,その質として評価されてしまう.それはたとえば,優れた技術(形式)を有する芸術家のいかにも気の抜けた演奏や作品に接しても,また逆に,たどたどしい演奏や作品の生き生きとした生命感に圧倒されても,なお,本質は形式を離れることができないだろうと思う.両手に水をすくって水を差し出すような形式にとらわれない芸術を私はこよなく愛するが,それは独りよがりかもしれないし勝手な思い込みかもしれない.プロフェッショナルとして文化を伝える者が,形式や伝統を重視することは,一つの責任でもあるのだろうと思う.
  これと同じように.科学技術や合理性そのものもコミュニケーションのための形式であろうと思う.繰り返えせば,本質は常に直感的で,同じ理解の下地がなければなかなか伝わらない.私たち人間は,生得の,つまりイキモノとして共通に持っている下地を超えてコミュニケーションを交わすために,科学技術や合理性という形式も発明してきた.たとえば,医療・福祉技術において,私たちは技術という形式の器にそれぞれの価値観を注ぎ込み,かろうじて私たちの生命や健康を医療・福祉技術という形式の中に位置づけている.技術によって生きていることの意味が伝わるわけではないけれども,医療の現場では医療・福祉技術という器の良し悪しと容積が,どうしても評価される.それはたとえば,高度な医療・福祉技術を有した医師が医療の本質を無視してモノのように患者を扱う姿を見ても,また逆に,たどたどしい技術でも心のこもった診療に感謝しても,なお,技術や合理性という形式は医療にとって大切なのだろうと思う.形式がなければ,独りよがりや勝手な思い込みが横行してしまう.もちろん,個人的には技術(形式)だけで心の通じない医療は大嫌いだが,医療・福祉に技術という形式を与え,それを客観的に評価し,事業として成り立たせていくことは,医療・福祉技術にプロフェッショナルとしてたずさわる者の責任でもあると思う.
  現代の科学技術が形式に翻弄されてその本質を見失っている事は先にのべたとうりだ.医療技術に医療の本質が在るわけではないことも当然だと思う.しかし,形式を離れた本質はその姿を捉えることができず,かえって独りよがりや勝手な思い込みを作りだしてしまう.似非科学や証拠のない治療が横行したり,また逆に事実を確かめずに名だけでいかがわしいと決めつけてしまう事の弊害は,私たちの日常や科学技術の世界にまで深く浸透している.形式の中には本質がないことを十分に認識した上で,本質を注ぎ込むことのできるしっかりとした器(形式)を創り出すのが私たちの仕事なのだろうと思う.そうしてもちろんのこと,新しい器(形式)を創り出すためには,その形式を十分に理解したうえでそこをいったん離れて本質に立ち戻ってみなければならない.
  千利休が粗末な器に国の財政にも近い値段を付けたのは,モノや形式は本質ではなく器であって,しかし良い器には想像を超えた価値をそこに注ぐことができるのだ,という象徴であったように,私には思える.
posted by トミタ ナオヒデ at 09:53| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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