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Dr.Tomita

プロフィール

富田直秀(Naohide TOMITA)材料工学出身。もと整形外科医。現在は医療工学、デザイン、再生医療、バイオメカニクス、バイオトライボロジーなどの研究をしています。

研究とは切り離しておりますが、学生の頃から少しずつ創りためている文章、絵、写真なども公開しています。興味のある方は右のMENUからお入りください。

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2011年04月12日

書を捨てず,町へ出よう (科学的事実を生活に結びつける工学)

(雑誌「臨床整形外科」46巻4号に掲載した解説[書を捨てず,町へ出よう(科学的事実を生活に結びつける工学)]から,出版社の許可を得て転載)

 京都大学工学研究科機械理工学専攻医療工学分野
 富田 直秀Naohide TOMITA

はじめに

「書を捨てよ,町へ出よう」とは寺山修司が書いた評論の題名だが,その言葉の持つ開放感に共感した人たちが,演劇や映画などの分野で幻想と現実が交錯する様々なパフォーマンスを展開したらしい.らしい,というのは,実は筆者も寺山修司のなんたるかをあまりよく知らない野次馬なのである.ただ,「工学から見た整形外科」という企画と,馬淵清資先生や藤江裕道先生の書かれた,第1回,第2回の文章を拝見して,はてさてこれだけの文章の後にいったい何が書けるのだろうか,と思案したときに頭に浮かんだのが「書を捨てよ,町へ出よう」という言葉であった.書名だけ盗んでおいて,その内容に触れぬのもあまりにいい加減なので,表題本をはじめ寺山修司の文庫本をいくつか斜め読みしてみた.すると,どの本にも近親相姦,強姦,嬰児殺し,売淫,姦通,殺人,窃盗,獣姦,放火,略奪,親殺し,,,と,あらゆる悪徳があからさまに論じられている.これは,品位ある学術誌に使うべき題名ではないのか,と諦めかけたのだが,しかし,読み進むうちに,この作者はむしろ徹底的にまじめな人なのではないだろうか,と思えてきた.第一,寺山修司は書を捨てるどころか,むしろ常人離れした読書の虫であったらしい.ではいったい彼は何を捨てようとしているのだろうか,などと迷いながら,やはりこの言葉の類似品を題名に盗用させていただくことにした.

1.生物学の台頭

 ところで,生命や人体の不思議に対峙すると,工学的なアプローチはどこか従属的な感を避けられない.たとえば,ヒトをまねたロボットも,組織形成を予見する生体シミュレーションも,また,手術などを支援するヒューマンインターフェース技術も,結局のところ,どれだけ本物のイキモノに似ているか,どれだけイキモノ機能を補助できるかで,その真実性や有用性が判断される.そうして,当然の事ながら,工学の作り出す動きや機能は生体のそれには遠く及ばない.それに比べて近代生物学の発展が提示する事実と夢の何とも壮大なことか.たとえば,2000年には,当時の米国大統領までもが「ゲノム計画は,ほとんどの病気や診断や予防,治療に革命をもたらすだろう」と述べた.ゲノム計画のかかげた夢は未だ達成にはほど遠いが,たとえば整形外科の関連する分野では関節リウマチの治療が根本的に変化したのも,大きな目で見れば近代における生物学的なものの考え方の一つの成果なのかもしれない.多能細胞を作り出すiPS技術も,病気に相関する何百もの共通SNPの発見も,もちろん,そう簡単に臨床を変えはしないが,たしかに私たちに大きな夢を抱かせるのである.工学技術が生体機能のほんの一部を模倣したり補助するのに懸命になっている一方で,生物学的なアプローチは,ややもすると,生命機能の操縦桿にさえ,あわや手が届きそうな勢いである.

2.変化した整形外科医の基礎研究

 筆者は,工学研究科を修了した後に医学部を再受験して整形外科医となった.私が奈良県立医大整形外科で研修をさせていただいていたころ,市中病院で働く先輩たちが夜になると大学に集まってきては,臨床からヒントを得た治療アイデアを実現させようと,こつこつと実験にいそしんでいた.一日の臨床が終わって,やれやれ疲れた,と帰宅に向かう脚を大学の方角に向かせるそのモチベーションの高さには,今でも本当に頭が下がる思いである.しかも,昼間は臨床のために働かせていた脳を,夕方には研究用の脳に切り換えなければならない.年寄り研修医であった筆者には,その臨床脳と研究脳との切り替えがなかなかできなかった.それが,筆者が後に臨床を離れて研究を中心とする生活に入った一つの理由であったかもしれない.膨大な多様性の中から安全で効果的な治療を選択する臨床的な脳の活動と,同じく膨大な多様性に不変の原理を当てはめようとする研究的な脳の活動は,一見似ているようであって,まったく異なる方向性を有している.臨床では経験を統一的に捉える勘や試行錯誤が必要だが,研究脳ではものごとの要素化と客観化が必要となる.臨床における様々な観察結果を客観化するか,もしくは臨床を模擬するモデルを確立してそこから客観的なデータを得なければ,どのような経験も科学的には事実とは認められない.もちろん,客観的なデータがなくとも臨床は遂行できるが,臨床的な問題を科学的に,つまりエビデンスを確認しながら解決するためには,客観化されたデータがどうしても必要なのである.
 この実験や臨床から客観化データを得る方法は,生物学の進歩によってずいぶんと様変わりしてきている.サイトカインや遺伝子解析によって,一見,生命機能の客観化データが簡便に得られるようになってきた.たとえば,○○によって□□細胞の△△への分化マーカーが有意に上昇する,などと記述されると,あたかも○○が△△の機能不全を回復させる証拠のように聞こえてしまう.これらのデータは,先に述べた臨床的な脳の活動と研究的な脳の活動とを,一見,無理なく会合させてしまうのである.臨床試験や実験を慎重に行いさえすればこれらの生化学データは紛れもない事実を提示しており,また,これらのデータの臨床における意味を想像させる論文をいくつか引用することによって,研究者は科学的信頼性の高い論文を創り出すことができる.

3.科学的事実から生まれる幻想

 だがしかし,近代生物学はそれだけで整形外科臨床現場の問題を本質的に解決するのだろうか?誤解を恐れず言うならば,「絵に描いた餅」ならぬ「論文に暗示された夢」に翻弄されて,現代の基礎外科学はどこか幻想化していないだろうか?題名とした「書を捨てず,町へ出よう」の,「書」とは科学的事実でもよく,また,「町」とは現実的な問題解決でもよい.たとえば,アインシュタインの相対性理論によって予測される時空間の歪みは,普段の我々の生活に直接には関係せずにタイムマシンなどの様々な夢想を暗示していた.しかしその後,工学の発展は人工衛星信号から自身の位置を計測するカーナビゲーションシステムを生み,その位置のずれの問題を解決するのに相対性理論を生かしている.相対性理論という科学的事実を我々の日常生活につなげたのは工学である.
 またたとえば,「書」とは生体情報であって,「町」とは生体環境であってもよい.生命起源を情報の側面から解釈するならば,そもそもゲノムが生命の設計図であるという考えは全くの間違いである.イキモノは散逸構造,つまり常に物質が変化しながらその形態と機能とを維持しているしくみを有している.大部分の構成物質が変化せず固定されているモノと,大部分の構成物質が常に変化しながら構造と機能を維持しているイキモノとは,その存在様式がまったく異なるのである.物質や情報の流れの中に,結果が原因を変えるしくみがあると無数の多様性が生じる事がわかっている.その多様性の中から,自己存在に有利なしくみが淘汰によって選別され,また同じく淘汰によって,そのしくみが記録・再現可能な現象に到達すると,生物のような相同で多様な散逸構造が安定化する.淘汰の生じ得る空間の範囲内に安定した生命機構が出現し得るほどの多様性の集積が継続することは,確かに希有ではあるが,しかし宇宙の大きさを考えれば不可能ではない.ここで重要なことは,ゲノムのような生体情報は,複雑な生体の構造を逐一記録した設計図ではないことである.モノのように固定された構造や機能の記録ではなく,環境との相互作用で自然に作られる自己組織的構成の安定化情報が,生体情報の正体である.
 われわれが見ている構造や機能の裏には多様な構造や機能が重複して存在している.これは何も生命だけの特殊な状況ではなく現象の見方の問題であって,たとえば,常温の水の中にも短時間小範囲においては水蒸気の種も氷の種も存在する(これをエンブリオという)が,1気圧常温という環境下においては液体である水の状態がマクロにおいて具現化している,と捉えることができる.生体のように,つねに物質が変化して機能と構造を維持している(いわゆる散逸構造を有している)物体では,さらに多数の多様な種の状態が重複して存在していて,環境との相互作用によっては多数の多様な構造が自己組織的に具現化し得るのである.ある一連の自己組織化が安定化するための比較的小さな情報がゲノム等の生態情報であって,それは,固定された構造をいちいち書き取って記録してある設計図とはまったく異なっている.そうして,一つの生体情報は,マクロに具現化されている機能・構造のみならず,その時には具現化されていない複数の構造・機能にも関連している.たとえば,骨形成因子と名付けられた生体情報が,その発現する環境によっては老化や生命の基礎的な現象にも関連していることはよく知られている.
 このように生命活動を情報の流れとして捉えると,ある情報がある構造や機能の発現(安定化)と深くかかわっているからといって,その情報のみで機能を計測できると考えたり,また,その情報を操作することによって生命の構造や機能を操れると感じるのは一種の幻想である.たとえば,生体のカスケードにピンポイントに作用する治療は効果を先鋭化させるが,だからといってその治療だけで病気の持つ悪循環が正常に復帰すると考えるのは幻想である.生体を病気にいたらしめる悪循環のもう一方の要因は生体内外の環境であって,身体を正常な流れに回帰させるための生体環境を提供することこそが外科治療の本質ではないだろうか.生体内外の環境を考えずに,医師が「分子機械」的な思想に走り,設計図や部品のようにゲノムやタンパク質に対峙するのはとても危険な傾向であろうと,筆者は考えている.その意味において,特に整形外科を対象に考えるならば,「書を捨てず,町へ出よう」の「書」とは生体情報の操作,つまりゲノムや生体活性物質への働きかけによる治療であって,「町」とは環境の操作,つまり外科治療や装具・運動治療であってもよい.なにも生体情報の操作が悪いと言っているのではない.たとえば,変形性関節症の発症に,変形→力学バランスの破綻→潤滑機能破綻→組織破壊→変形という悪循環があるのならば,最も重要かつ確実な治療技術要素は変形矯正であろう.その悪循環を断ち切った上で「書を捨てず」に,薬物治療や軟骨再生等の生体情報の操作がその効果をより確かなものにするのだろう.

4.「質」を育てる工学
 工学はproblem oriented な,つまり,問題を解決するための定量的,客観的な評価方法や治療手技を提供する.ここまで概念的な話が続いたので,この章では臨床整形外科学に関連するであろうと思われる工学の専門用語を,筆者が思いつくままに列挙する. あえて参考文献などを記述しないが,インターネット等を使って,キーワードから目的とする技術ソースに行き着く事ができるであろうと思う.

(中略)

 近代日本の工業は,人に関わる様々な技術を発展させてきた.たとえば,肌に優しい繊維や暖かな繊維,使いやすい電化製品,乗り心地の良い自動車,健康を守る電子機器,人と機械をつなぐ情報・通信技術,といったように,おおかたすべての産業が人の生活に関わる技術を成熟させる時代になってきた.それにしたがって,工学の特に設計論の分野においては,従来の「作る」工学から「育てる」工学への変換がささやかれている.たとえば,ロボット工学では,命令された動作を自動的にくり返すロボットから,環境との相互作用の中で適正な動作を育てていく型のロボットが活躍しだしている.坂や階段などの多様な環境の中でも2足歩行ができるロボットや自動操縦ヘリコプター,自ら概念を創出するロボット,等がその例である.また,建築や地域興しの分野においても,景観や産業が作られるのではなく住民との関係性の中で育てられる,としてグループ・ダイナミクスが盛んに研究されている.
 これらの動きは,時代の要求が効率や実利などの「実」から,人の価値観を大切にした「質」に移り変わってきていることに関係している.そうして,生活の「質」とは作られるのではなく育てられる対象であることが,工学としても広く認識され始めている.

5.結論(幻想から生活の質へ)

 さて,「書を捨てよ,町へ出よう」の作者:寺山修司は,「家出のすすめ」の母恋春歌調の章で告白しているように,母子家庭の一人っ子に育ち,12,3才の頃に母に捨てられた.誰も掃除をしない散らかった部屋に一人暮らしをしていた寺山修司を,福祉事務所の人が親類のもとに送った.その夜汽車の中で,少年:寺山修司は,母が畳の下に隠していた春本を,ひたすらひとり読みした.それが,彼の膨大な読書(おそろしい「わが読書」)の始まりであったという.寺山が,「書を捨てよ,町へ出よう」と書いたその「書」も「町」も,私が現代の基礎外科学に感じている閉塞感とは比べモノにならない,命がけの価値観の転換を表現している.
 だがしかし,書を捨てて町に出ようとした寺山が求めたのは,春本なる書に操られた性の「幻想」から「生活の質」への解放ではなかったか.寺山は,読書と作詞の合間の放蕩生活で,悪徳に生きざるを得なかった人たちと暖かな心の交流を交わしている.また彼の母は,家出の後に遠く九州の炭坑町で酌婦をしながら,月に一度の愛情のこもった手紙を寺山修司に送り続けるのである.何が幻想で何が生活の質であるのかは,実のところ混沌としているが,しかし,寺山修司は決して書を捨ててはいない.彼がもがくように振り捨てようとしたのは書にまつわる「幻想」であったのだろう.そうして,むしろ書を礎として「生活の質」を見いだしていったのではないだろうか.
 近代の基礎外科学においても,ゲノムや生体活性物質などの生体情報の操作で表される「書」を捨てる必要はまったくない.ただそういった科学的事実から生まれ,現代の臨床医学を翻弄している「幻想」こそが捨てられるべきであろう.「町」に出て,生体内外の環境の保全を考える外科本来の治療を基礎とした上で,科学的事実を書いた「書」を開いてみるのが外科学の本道ではないだろうか.つまり,基礎科学をただの「幻想」に終わらせず,治療に生かして「生活の質」を育てることが,今の基礎外科学には求められているのではないだろうか.基礎科学の提示する科学的事実は,必ずしも我々の実生活における事実に結びついているわけではない.工学は華やかではないけれども,科学的事実を医療や生活に生かす多様な技術を堅実に創り続けている.
 寺山修司著「書を捨てよ,町へ出よう」の最後には,歌の文句を口ずさみながらにっこり笑って七人の敵に立ち向かっていくような,そんな歌謡曲人間こそが時代の変革に参与する強い人間であると述べられている.例えば,当時,西鉄ライオンズの中西が口ずさんだ「姿三四郎」の文句はこうであったという.

花と咲くより踏まれて生きる
草の心が
僕は好き
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2007年10月10日

機能設計から生体環境設計へ 「安心」を育てる科学と医療(丸善)

再生医療、生体材料などの開発研究の経験をご紹介し、生体の機能を「作る」のではなく、「育てる」ための方策を読者との対話形式で探っていこうと意図しました。本の各所に読者の意見を書き込む欄を設けてありますが、しかし、やはり本という形式の中では対話は難しいようです。おそらく読者の本には、私の思い込みに対するさまざまな批判が書かれているのだろうなあ、と想像ますが、それ読むことはできません。
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2007年08月10日

科学では解決できない問題について

出版した本の原稿の一部です。不勉強 のために
似非科学的になってしまって後悔しています。

原稿を読む
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ちゃっちゃんの遊園地

「ちゃっちゃんの遊園地」
(ゆみる出版.ISBN: 4-946509-33-X)2003年出版

 「憶える」ことによって、ものごとの違いを見分ける知性が始まります。しかしそれだけではなく、「忘れる」ことによってものごとの類似性を知る知性が始まります。忘れた対象を探し出そうとする推理には、ものごとの「しくみ」が必要であり、そこから、目には見えない類似性を知ることができるからです。
 「憶えること」と「忘れること」のどちらも、つまり、違いを見分けることと類似性を知ることのどちらも人間の知性にとって必須の作用ですが、この本では特に後者の意味を探ってみました。本では、忘れっぽい子供「ちゃっちゃん」に登場してもらっています。

 客観性を要求される研究においては、「憶えて違いを見分ける知性」が必要とされる場合が多く、また、こころを扱う芸術分野では「忘れて類似性を知る知性」が必要とされる場面が多いようですが、この二つの作用は決して単独では意味を持ち得ないことを、この本では主張しています。様々な方々から反響をいただいていますが。
http://www.yoshimotobanana.com/cgi-bin/diary/diary.cgi?yy=2006&mm=01
には、作家のよしもとばななさんが感想を書いてくれています(よしもとばなな公開日記(2006.01.30)。叶恭子さん、って誰だろう。作家だろうか?と調べてみて、びっくりしました。

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