富田直秀(Naohide TOMITA)     e-mail: tomita.naohide.5c kyoto-u.ac.jp  ←を半角に変えてください。


Dr.Tomita

プロフィール

富田直秀(Naohide TOMITA)材料工学出身。もと整形外科医。現在は医療工学、デザイン、再生医療、バイオメカニクス、バイオトライボロジーなどの研究をしています。

研究とは切り離しておりますが、学生の頃から少しずつ創りためている文章、絵、写真なども公開しています。興味のある方は右のMENUからお入りください。

E-Mail: tomita.naohide.5c@kyoto-u.ac.jp
(@を半角に変えて下さい。たくさんのメールをいただいており、お返事できない場合が多いと思います。申し訳ありません。)

2019年08月28日

絵がとしをとる

1980年ごろに描き始めて,未だに描いている絵です.この3年ほどでぐっととしをとってしまった,,



1980年ごろに描き始めた絵 富田(町井)直秀.jpg
posted by トミタ ナオヒデ at 19:13| Comment(2) | アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月07日

多様性を担う、攻撃性を受け止める、

多様性を担う、攻撃性を受け止める、
 
         富田(町井) 直秀

  5月2日ブログ「涙をこらえるのに苦労した、、、」のは、忌野清志郎さんの将来を案じる保護者を「何年か好きなことをやらせてみましょう」と説得した美術教師の小林晴雄さんに対してだ。小林先生は日ごろ、職員室を敬遠して美術準備室にいたらしい(参考:忌野清志郎「僕の好きな先生」)。
  もし私が教師として忌野清志郎さんのような生き方をする学生を担当したならば、叱ったり、説教もしただろうなあと思う。才能を信じたとしても、それが世にどう受け入れられるかなどわからない状況で、小林先生のように親御さんを説得する勇気があったかどうかも疑問だ。小林先生は、偉ぶらず、叱らず、説教もせず、そうして忌野清志郎さんを信じた。このやさしさが、絶望のぎりぎりのところから生まれているように感じて、私は涙を抑えることができなかった。
  蛇足を付け加えると、環境は常に不連続に変化をしていて、イキモノやヒトは環境に適合する能力だけではなく、現在の環境には不適合な多様性も有していなければ、その不連続な変化を生き抜くことができない。教師は、今の社会環境に適合する能力だけではなく、多様性も育てなければならない。たとえば、他とは異なる変わった人やモノは、現在の環境の中では嫌われ、排除される。その苦しさに対してしばしば攻撃性が生じ、その攻撃性は力で抑えることは難しく、社会を不安定にする。けれども、もし力で抑えて抹殺すると、多様性は消滅して社会はさらに不安定になる。
  多様性を育てる、と口で言うのは簡単だが、実際にそれを実践できるのは、自身も絶望のぎりぎりのところを経験した教師だけなのではないだろうか。私たちは、ただ、生れ出た多様な人やその仕事に、おもしろさ、かっこよさを感じているだけだが、本当にかっこいいのは、偉ぶらず、叱らず、説教もせず、攻撃性をやさしく受け止めることのできるコトであって、それは、目に見える行為ではなく、なかなか外からは見えない、しぐさのようなものだ。

posted by トミタ ナオヒデ at 14:35| Comment(0) | アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月06日

私のニセモノ性    富田(町井)直秀

私のニセモノ性

                            富田(町井) 直秀

上野の森美術館大賞展に「もくてきはない1 no purpose1」(作者名:町井直秀)が入選(賞候補)した.目的のないところにこそ,機能回復だけではない医療の本来の姿がある,という,この絵は私の医療工学の仕事のもう一つの表現でもある.医療現場で出会った多くの人たちは,実は技術に描かれた機能回復よりも目的をもたない純粋な祈りに救われている.医療を神秘主義に陥れようとしているのではない.安定化によって不安定となる逆説的な生体システムの中で,技術はその目的を一時的に達成するにすぎないが,目的のない祈りを内包した人と人,人と技術との関係性は自(おの)ずから多様性を生み,悪循環を徐々に脱していく力となる.医療や技術の本質を,雪深い森の,冷たい湖に根元まで浸かった樹木たちの像に託した.
では具体的に何をすればいいのですか?と学生たちに聞かれれば,私のニセモノ性はすぐにでもあらわとなるだろう.人工関節や軟骨再生の仕事のなかで,私は相変わらず機能を目的にしている.技術が人に対してできる行為は,結局のところ機能回復しかないのか,その不満を絵に発散しているだけなのか,,,.
3年前に出品した「メルトダウン melt down」は,裏から顔料を流したり焼いたり千人針をしたりして制作に4年かかったが,出品してしまってからも,本当にあれは私の描きたい絵だったのだろうか,絵が帰ってきたら燃やしてしまおう,などと悩んだ.「もくてきはない no purpose」,は,その名の通り,展覧会に入選しようとする目的性や,祈りの目的性や上述のような技術の目的性を恥じて3年前に制作を開始した.『色即是空 空即是色」の白い文字で線を消し,また描き,削り,また消しと,比較的単純な作業を繰り返した.目的性を否定する行為が,かえって目的を達成させる,,,絵のことを皆に知らせたくて,みてもらいたくてそわそわしている私のニセモノ性は,,絵を描くことによって,よりいっそう明白になっていく.


posted by トミタ ナオヒデ at 08:26| Comment(2) | アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月05日

Art-view 教育(筏義人先生の絵)

故 小池一範先生にはじめて芸大の講評会を見学させていただいたときに、素人目には下手にみえる絵ほど褒められているように思えたのを覚えている。あれから、多くの芸術家の方々とお付き合いをして、芸術家たちが、「できてしまう」「描けてしまう」ことに七転八倒して苦しんでいることを知った。この、できてしまうことによって自己が疎外されてしまうこと、こそが現代の科学技術が抱えているもっとも根本的な問題ではないだろうか、と、これまでの経験をエンジニアのart-view 教育論として英語論文に纏めている。

別の話なのだが、私が京大に赴任した時に「論文はもういいですから、役に立つ研究をしてください」と言われた筏義人先生から、柿の絵が送られてきた。最近、水彩画を習い始めたのだと言われる。そういえば、筏先生も優秀な研究者に厳しく、またそうではない研究者には、むしろやさしく接しておられたように思う。「役に立つ」も、本来はアートの問題なのだろう。論文を書くな、ということではなく、「他人事」のように研究をするな、という戒めであったのだろう、と勝手に解釈している。

 絵は、以前に娘たちが描いてくれた還暦祝いの絵の横に飾った。

筏先生 2017年11月 トリミンク2.JPG

posted by トミタ ナオヒデ at 14:50| Comment(0) | アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月02日

失われた何か?

約40年間少しずつ描き続けている家内の絵が、11月には右のようになりました。3月から11月までの8か月間に、線や色の技術がちょっと上達した分だけ、何かが失われてしまった、、どこか、わざとらしくなってしまったように感じます。

MARIKO 失われた何か .png
posted by トミタ ナオヒデ at 22:01| Comment(0) | アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月31日

体質変わった?

何年かぶりにクロッキーしてみたら,ものの見え方が全く違っている,,,
形に囚われるな,,と,自己暗示はかけていたけれども,,体質が変わった?




ひさしぶりのクロッキー 直秀 (Naohide).jpg
posted by トミタ ナオヒデ at 12:38| Comment(0) | TrackBack(0) | アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月07日

病気に苦しむ人は、芸術家である A patient is an artist



 「病気に苦しむ人は、芸術家である」

          富田 直秀

  芸術家の方々とお付き合いをするようになって、生きていることそのものが芸術なのだなあ、と実感する。すばらしい芸術家は、多くの人に、それぞれに生きている「私」を感じさせ、受け取る側も立派な芸術家にしてしまう。
  また、これはむしろ芸術家の方々にはわかりにくいのかもしれないが、素人が芸術活動のまね事をしてみると、芸術活動がその身近の周囲にとっていかに迷惑であるのかを思い知らされる。(実際、私の芸術活動のまね事は周囲に大迷惑を与えている)誤解を恐れずに述べるならば、「私」が生きることによって周囲に与える迷惑を、多くの人によって自主的に受け入れられた「私」こそが芸術家なのだ。この定義が正しいのならば、人はたいてい無自覚のうちに芸術家に始まる、そうして芸術家に終わるのが理想なのだろう。(芸術家を成立させているのは崇拝者であって依頼人ではない,,)
  多くの人にそれぞれの「私」を感じさせ、また、生きていることの迷惑を自主的に受け入れるか否かを、社会に問いかけているのが芸術であるのならば、同じように医療も、多くの人にそれぞれの「私」を感じさせ、また、生きていることの迷惑を自主的に受け入れるか否かを、社会に問いかけている。そうして、すばらしい医療は、患者を立派な芸術家にするし、また、芸術家となった患者は多くの人にそれぞれの「私」を感じさせる。この文章では、病気に苦しむ人とそれを支える人が共に芸術家なのだと、それを実現させるのが本来の医療なのだと主張したい。失われた機能の回復ばかりが医療なのではない。

しかし、、、そのために、私はいったい何をすればいいのだろうか、、



“A patient is an artist”

                     Naohide TOMITA

Art is “living” itself. Artist makes people to feel of "living" and good artist makes people to become another artist. On the other hand, my poor artistic activities are a big annoyance to my surroundings. These teach me that “One whose annoyance of “living” is voluntarily accepted by people, is an artist”. If this definition is true, people is usually begin as an artist, and is desirable to end up as an artist. (It is not a client but an admirer who makes an artist,,,)

Art makes people to feel of “living”, and asks the society to voluntarily accept the annoyance of “living”. Medical care also makes people to feel of “living”, and asks the society to voluntarily accept the annoyance of “living”. And the true medical care makes patient to be an artist who also makes people to feel of "living". Thus, recovery of lost function is not the only way of medical care.

But,,, How should I do for that,,


posted by トミタ ナオヒデ at 11:03| Comment(0) | TrackBack(0) | アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月23日

”ANSHIN”をみまもるしくみ(京都市立芸術大学×京都大学 「ANSHINプロジェクト」冊子まえがき) (Since it is beautiful, it is truly useful)

”ANSHIN”をみまもるしくみ
(Since it is beautiful, it is truly useful)

京都大学工学研究科
               富田 直秀

  ”ANSHIN”とは芸術活動なのだと,私は思っています.けれども,みなが同一の芸術的価値を共有するとそれは一種の宗教になってしまいますので,関わる人それぞれの”ANSHIN”はそれぞれ多様であって,しかも無目的であること,それが私たちの挑戦の最も難しいところではないかと考えています.
たとえば,安全は多くの人が共通に持つ願いですが,”ANSHIN”は,それぞれがそれぞれの価値観と形式に則って行う一種の祈りのようなもので,それは,日本画家の村上華岳が「画論」の中で「制作は密室の祈り」であると述べたように,”ANSHIN”も「わたし」という密室の中でそれぞれに祈られる芸術のような対象なのだろうと思います.また,詩人の吉本隆明は「良い文学作品というのは,そこに表現されている心の動きや人間関係というのが,自分にしかわからない,とそれぞれの読者に思わせる,そんな作品だ」と述べています.もし良い”ANSHIN”といったものがあるのだとしたならば,それは安全性のように,または宗教の教義のように多くの人に共通に理解されるのではなく,それぞれの「わたし」にとっての”ANSHIN”が異なる他の”ANSHIN”と偶然の出会うようにして,多様性を保ったまま,多くの人の間に広がっていくような,そんなものなのだろうと想像しています.誰かが定義をして共通に理解をする「安心」でも「あんしん」でもなく,あなただけの”ANSHIN”であることがまず出発点です.
  芸術か,よくわからんな,と思う人もおられるかもしれません.自分だけの”ANSHIN”であればそれはどこか自己満足的で,たとえば,いざ自分や家族が病気に罹患するような現実に直面すれば,科学的な治療が第一で,その後に考慮すべき内容のように思われるかもしれません.事実,私も家族の死の危機に直面した時には,たしかな知識と経験に裏付けられたより安全な治療を第一に求めました.多様ではなくしっかりとしたエビデンスが,そうして無目的ではなく治癒という目的に従ったしっかりとした行動が,医学の世界では求められています.そうして,しっかりとしたエビデンスを基盤とした治療体系が整いつつある現在の医療においても,いや,そうであるからこそよけいに忘れてはいけないもう一つの視点があります.医療の世界では,エビデンスを基盤とした医学としての治療体系をEBM(Evidence Based Medicine)と呼ぶのに対して,患者それぞれの物語(Narrative)と対話に基づく医療をNBM(Narrative Based Medicine)と呼んでいます.EBMとNBMは対立するものではなく,たとえば紙の表裏のように,またたとえば演奏の技術と感性のように,互いに補完し合って医療という現場で患者それぞれに触れていく行動の支えとなっています.
  NBMの実践を参考に,私たちがこれから目指す”ANSHIN”の行動指針を一つだけ述べるとすれば,それは「みまもり」という言葉に集約されるのではないかと思います.それぞれの「わたし」の「したいこと」と「すべきこと」を自身で探し出すこと,つまりそれぞれの「わたし」を起点とした自己組織的な実践であるところに「質」を伴った技術が生まれますが,そのためには目的や基準に従った管理や指導のみではなく「みまもり」に徹する姿勢の存在が,”ANSHIN”実践の一つのバロメーターになるように思います.一つ注意しなければならないのは,自主性を尊重することと安全などの環境をしっかりと整えることとはまったく別であることです.「みまもる」ことが管理や指導よりもはるかに厳しい行動であることの自覚は必要であると思います.実を申しますと,私はこの厳しさを理解していなかったおかげで,安全を脅かすミスを引き起こしてしまった経験が何度かあります.勝手な思い込みに走ってしまう危険性をそれぞれが自覚するような環境は(管理ではありませんが),年長者がしっかりと整えなければならないと思います.そうして,もしミスが生じてしまった時には,それぞれが積極的に責任を負うことも”ANSHIN”のもう一つの実践かもしれません.安全への脅威に皆がそれぞれの立場で自主的に立ち向かう環境ができれば,”ANSHIN”は「安全性」に勝る信頼性を実現できるものと考えています.想定された有害事象に対する安全検討はもちろん必要ですが,現実において危険性は想定され得ないところにこそ生じ,また,安全検討が単に責任の押しつけ合いとなっている場合も多いことは理解しておかなければならないと思います.その意味で,”ANSHIN”は安全性よりも,より現実的であるといってもいいのかもしれません.
  しつこいようですが,「みまもる」という明文化され難い行動は管理や指導とは比べ物にならない,鋭い予測能力と観察力を必要とします.しかし,それが達成し得ないほどに困難な作業なのか,といいますと,自然界では多くの生物が自然に行っている行動でもあります.「見守る」ではなく「みまもる」とひらがなで書きましたのは,機能などを客観的に「見る」ことと,それぞれの主体が出会って「みる」ことを区別しておきたかったからです.「みまもり」とはイキモノに共通した一種の芸術活動であって,その要点も多様性と無目的性にあるのだ,と私は感じているのですが,感じているだけで論理的にわかっているわけではありません.ただ,みまもる,みまもられるという行動が多様で無目的であるところにこそ私は美しさを感じます.兎にも角にも,現在までのところこの”ANSHIN”プロジェクトが大きな失敗をせずに多様性を保持して続けられているのは,京都市芸大,辰巳明久先生と京大経営管理大学院,山内裕先生の類まれな「みまもる」力に大きく依存していることは確かなようです.
  「みまもる」とはそれぞれの人格を尊重する行為でもあります.本来は「密室の祈り」である”ANSHIN”を,社会に定着させるために,たとえば,私たちの活動で創りだされる商品やサービスの著作者人格権(人格的な権利や責任),その中でも特に氏名表示権(創作者であることを主張する権利と責任)を発案者たちが積極的に担って,商品やサービスが育っていく過程を画像と名前入りで公開していく方法論も模索しています.またたとえば,著作者人格権のうち同一性保持権や名誉声望保持権(責任)はブランドを保持する法人などが,著作権などの財産的な権利と責任は実用化する企業などが担うことによって,それぞれが創造人格,同一性,利潤に関わるそれぞれの責任を積極的に担っていく,顔が見える”ANSHIN”ブランドの形成のしくみが一つの方法論として設定できるのかもしれません.
  最後に副題名の”Since it is beautiful, it is truly useful”の説明を加えておきます.これは,サン=テグジュペリ(Antoine de Saint Exupéry)作の「星の王子様」(Le Petit Prince)の14章の中にある言葉の英語直訳です.1分間に1回転する小さな星の上で絶えず街灯をつけたり消したりしている点灯夫(lamplighter)の星をみて,星の王子様がつぶやいた以下の内容の部分からお借りしています.「この点灯夫もおかしな星にすんでいるなあ.けれども,王さまや,うぬぼれ屋や,実業家や,のんべえの星よりは,なんとなくほっとする.この人の仕事には,なにか意味があるにちがいない.街灯に明かりをつけると,星がひとつ生まれたように,花が一輪ぱっと咲いたように見えるし,街灯の明かりを消すと,花や星は眠りについてしまう.ああ,なんてきれいなんだろう.きれいだからこそ,ほんとうに役にたつ仕事なんだ.」(富田の勝手な意訳です)
  ”ANSHIN”プロジェクトに集まった学生たちの仕事は,それぞれの専門家から見ると,どこか自己満足的でそのままでは役に立たないように見えるのかもしれません.けれども,診察用の机にも,子供が一人で受診できる病院にも,ベッドサイドポシェットにも,弔いの道具にも,病院の図書館にも,子供の待合室にも,,これら実践に私は美を感じます.すでに王さまや,うぬぼれ屋や,実業家や,のんべえの星の住人である我々の仕事は,この実践が他の多くの人のそれぞれの実践に広がっていくのをみまもる「しくみ」を作っていくことなのではないかと思います.




posted by トミタ ナオヒデ at 10:56 | TrackBack(0) | アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月27日

なぜ,医療にアート・デザインが必要なのか

           なぜ,医療にアート・デザインが必要なのか 

                            
                      京都大学工学研究科,医療工学分野
                        富田 直秀

  最近の私は医工学の研究仲間よりもデザインやアートの世界の人たちと頻繁に交流を続けている.現代の医工学研究の方向性だけでは,どこか納得のいかないものを感じているからだ.工学設計の本質は仕様に表された目的機能を達成するための機械的な「行為」だが,デザイナー・アーティストの仕事には,どこか「私が私である」ことの「仕草」や「有様」が含まれている.そうして,医療においては,命を長らえたり便利に快適に暮らしたりする機能よりも,まず「私が私である」という「仕草」や「有様」が考慮されなければならないと思う.病に倒れ,自身の行為を自己決定できず,周囲との関係性を断たれ,さらに死を意識したときに,人は身体の機能のみならず「私が私である」という自己を見失うのではないだろうか.医療現場で出会った人たちの多くは,それまで当たり前であった「私」が当たり前ではなくなってしまい,「私」という仕草や有様を探して彷徨っていたように思う.医療現場には,機能回復のための医学のみならず,「私」という仕草や有様を扱うデザインやアートの視点が必要であると切に思う.(行為(acte)と,仕草(geste)または有様の違いに関しては,(注)をご覧ください)
  もちろん,医学に工学設計の概念と手法が必要不可欠であることには何の異論もないし,また現に私の仕事の大部分は工学設計を基礎としている.工学は機能回復のための様々な技術を生み出しており,その技術は医学の中においても中心的な役割を演じつつある.しかし,医療現場ではそれぞれの患者が「私である」ための一つの手段として機能回復技術を用いているのであって,機能回復が最終目的なのではない点を誤解してはいけない.たとえば,ナースコールを頻繁に押す患者が必要としているのは,まず根本的に「私が私である」という有様の回復であって,眠剤や鎮痛剤の処方や監視モニターや自動介護装置は,そのための手段の一つにすぎない.検査や治療といった異次元の体験に,私たちはどのような仕草や有様で対峙するのだろう.文字で説明される原理や合理性のみならず,形や色や物音にも大きな役割が与えられる.治療が「安全」であることももちろん大切だが,100%の安全が不可能である中でいかにヒトが安心でいられるかはアートの問題である.失われた機能を補う最先端の医療機器や医療技術があって,その後にデザインやアートが考慮されるのではなく,医療現場ではそれぞれの私が私として生きるための有様がどのように崩されていて,それがどのように回復するのだろうか,と考えるところから技術開発は始まらなければならない.現場に脚を運ばずに,仕様に書き下された機能を目的として開発が始まり,書き下された設計解によって技術が作られるのではなく,設計の前に,そうして設計と共に,自己存在そのものに働きかけるデザインやアートの視点が加わらなければ,医療技術は人の生活に中に活きてこない.デザインやアートの視点とは,まず現場に脚を運び,そこにある様々な仕草や有様を直接に実感として感じ取ることでもある.
  京都市立芸術大学ビジュアルデザイン科では,3年ほど前から医療の現場が潜在的に抱える問題を発見し,その解決のためのモノやサービスをデザインするProblem Based Lerning 「病院のデザイン」を学部生の授業として行っている.大学近くに住むある老人が芸大ビジュアルデザイン科の辰巳教授のもとを訪れて,病院で使われているピルボックス(いつどの薬を飲むかを指示した薬のケース)を示して,こんなわかりにくいモノが今も使われている,デザインの力でなんとかできないだろうか,と訴えたところからこの活動が始まったらしい.「何の解答も出せないまま老人は亡くなってしまいました」と辰巳先生は言われるが,「病院のデザイン」でこれまでに発案されたアイデアの数々(ベット横に置く小物入れ,患者説明シート,子供の注射補助,患者への説明システム,小児待合室デザイン,生活支援グッヅとその販売システム,などなど,,)は,「私が私であること」を患者が取り戻すための具体性の宝庫だった.誤解を恐れず言うならば,国がここ十数年の間に何兆円もの経費をかけて進めてきた医療分野における技術革新を,ある意味において凌駕していると私は思っている.これまでの研究開発努力が機能回復を目的とする医学として頓珍漢であるわけではない,ただ,それらの開発の多くが言葉に表された要求機能を目的としていて,その中心にある患者の生活と自己存在性が製品やサービスの対象から排除(Exclude) されがちであったところに問題があるのだと思う.
  対話や観察から得た気づきをもとに開発を行うこのインクルーシブデザイン(Inclusive design) は世界でも少しずつ広がりつつあるが,方法論として二つの問題をかかえている.一方は,「みる」能力の欠如である.私たちは本当に病人を,障害者を「みて」いるだろうか.ちらりと形を見て,機能不全をかわいそうと思い,それを形式として理解していないだろうか.インクルーシブデザインの多くが芸術大学で行われている理由もここにある.芸術大学では徹底的に「みる」ことの訓練から始まる.直接的に経験し,主と客とが無分のところで「みる」ことで初めて,形式と内容の共存が可能になるからだ.「病院のデザイン」には今年から京大側の大学院生も参加させていただいているのだが,フレームワークを定めずに,つまり,目的を定めずに現場に行って,そこにある生活を「みる」力そうして,生活をデザインする力において,我々は終始圧倒されていた.もう一方の問題は,生まれ出たアイデアは「だれが」デザインをしたもので,「何が」特徴であって,今までの技術とどこが異なるのかを記述することがとても難しいことだ.ボランティア活動などの自主的に行われる活動の中で活かされるアイデアの場合にはそれがいちいち記述される必要はないが,持続的に役に立つ仕組み(事業)となるためには技術の明確化と記述が必要となる.特に医療現場で行われる活動には人の命にかかわる責任が伴うため,ある程度の利益と独占性が保証されなければなかなか持続性が得られない.医療現場の特殊性の説明は難しいのだが,極論を言うならば,命の長さよりも命の深さを優先させる概念は,現在の日本の医療システムの中ではまだ公認されていない.医師法によって医師のみに医業が許されており,生命維持や機能回復にかかわる責任が医師に集中していること,チーム医療システムの浸透度の低さ,日本の医療文化,などなど様々な要因が重なって,機能回復への貢献がエビデンスとして明白に記述される技術が優先して事業化されてきた.逆に,たとえ医療スタッフや患者が生活の質の改善を実感する技術やアイデアがあったとしても,ほんの少しでも機能回復治療を阻害する可能性のある行為は回避される傾向にあった.その大きなギャップを乗り越えて,生活の質を優先させる技術が持続的に医療システムの中に生き続けるためには,特有の専門的な知識と配慮を必要とする.現行の医療システムの中で,ああいいね,と実感を得る技術が持続的に運用されるためには,医療現場を熟知した専門家による事業化が欠かせず,そのために技術の明確化と知的財産化はとても大切な方法論となる.京都市芸大と京大の共同授業「病院のデザイン」では,「みる」ことに長けた芸大生と,「記述」に長けた京大生が,いかに相手を尊重し,吸収し合い,与え合っていけるかがカギとなっている.まず現場に脚を運んで「実感」をしっかりと捉え,そこで得られた気づきを実例画像やメタファーなども含めた様々な方法で提示し,アイデアを整理し,さらにその中からポイントとなる概念を明確に洗い出して記述し,試作し,最後にはまた実感に戻る,といった繰り返しが必要なのだろう.そうしてこれは,単にものつくりのための方法論にとどまらず,真の豊かさとは何か,生命とは何か,といった根本問題への問い直しを行うことにもなっているのだろうと思う.
繰り返すが,命の長さよりも命の深さを優先させる概念は,現在の日本の医療システムの中ではまだ公認されていない.医療分野におけるアートやデザインの視点とは,医師という個人だけではなく,社会全体が命の長さよりも命の深さを優先させることの責任を担いながら生きることの「質」を考えていく動きでもある.小澤竹俊(臨床看護,vol.30, no.7, 1023-1126,2004)によれば,自己存在には,自分の意志で生き自己決定できる「自律存在」,明日の自分を想像し過去を引き受け未来を展望できる「時間存在」,そうして,支えとなる関係がある「関係存在」の三つの意味があるのだという.医学が提供する機能回復技術は,これらの自己存在を回復させるための有力な一手段であって,機能回復自体が医療の目的ではないことの理解が大切であると思う.

  ところで,ここまでデザインとアートとを一緒くたに述べてきたが,両者の間の違いに関しては,私はまだはっきりと区別ができているわけではない.ここまで述べてきたように,機能を対象としているエンジニアから見ると,生活そのものを対象として扱うことのできるデザイナーはアーティストであるとおもえる.ただ,高い技術を有しながら,その技術を邪悪と感じ,技術から逃れようとする場面が,いわゆるアーティストと分類される人たちには多いように思う.技術には(自然に見せる)とか(すっきりさせる)といったような目的が不可避に付随するが,その目的性に形式・内容分離の欺瞞を感じ取るからだろうか,また創造する自分を客観的に観察する職業的なメタ認知をたいていのアーティストが身につけているが,その客観性に主客分離した邪念のような感覚を感じ取るのだろうか.エンジニアとアーティストとの共同作業の難しさの一因に,なかなか目的を設定することのできないもどかしさがあるが,形式に内容が内在するアートに本来目的はないのだろう.そうして,目的に向かう「行為」ではなく,存在そのものに働きかける「仕草」や「有様」を表現するからこそ,アートは誰にとっても重要なのだろうと思う.たとえば,一枚の絵が,一つのアイデアが,万人のそれぞれの生きる「仕草」や「有様」に働きかけることが可能ならば,何兆円もの国家プロジェクトを凌駕する力を持つのだと思う.



(注):行為(acte)と仕草(geste)または有様の違い.
  行為は客観的な空間の中で対象化されるが,仕草,有様とは受け取る側の内面で定義される.サルトルによれば,「存在するためになし遂げられる行為は,もはや行為(acte)ではなく仕草(geste)である」のだという.このサルトルの表現した仕草と,ここで言う仕草や有様との整合性には未だ確信を得ていないのだが,私の解釈によれば,サルトルの言う仕草は動きだけではなく,様子やたたずまいといった有様もあらわしていて,たとえば,植物やモノにも仕草を感じることがあるが,それは植物やモノではなく,あくまで「みる」側の自己存在に関わっている.
  「私が私である」ことが当たり前であるとして私たちは日常生活を営んでいるが,前述のように,疲労や病気の状況に陥ると私たちは自己存在が当然ではないことを思い出すのだと思う.魚住洋一氏(他者の現象学U(哲学と精神医学の間)中の「毀(こわ)れものとしても<私>」-自己意識の政治学のために-)の言を借りるならば,「私が私である」ために,わたしたちはニセの自分になりきるという<自己欺瞞>を代償として支払わなければならない.そういった無意識の自己欺瞞の上に,私たちの日常生活が成り立っている.以前私は,アートにはどこか絶望的なものを感じる,と述べたが,その絶望とは暗く陰湿で解決法の無い客観的な状態を指すのではなく,「私が私である」という仕草や有様を求めて彷徨っている状況を意味している.医療においては,患者の行為を客観的に観察する視点と,患者の立場となってその仕草や有様を感じ取る感性の双方が求められる.後者は単に感情の問題ではなく,感じ取る側も「私が私である」ことが当たり前ではない彷徨いがあって,まったく別々の彷徨いが偶然に出会うような状況であり,私はそれをアートと称している.
  蛇足だが,この定義に従うならば,たとえ目標に向かう計算された行為を行っている人であっても,その動機が自己存在のための仕草であると感じることができたとき,私はその人にアートを感じる.これはあくまでそれぞれの「私」の出会いの問題であって,仕草や有様は客観的に捉えられず,よってアートも客観評価され得ず,また,本質的にはアートは対象化さえ不可能なのではあるまいか.


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2012年07月23日

関係性の中に存在しているのがイキモノであり,アートでもある

関係性の中に存在しているのがイキモノであり,アートでもある

  京大デザインスクール(http://www.ai.soc.i.kyoto-u.ac.jp/design2/index.html)のサマースクール用ワークショップをいろいろと考えている.私は京都市芸大の日本画科の先生方や森桃子さんと一緒に,アートやイキモノの視点を取り入れたワークショップを提案している.「機能性とアートがつなぐ642ミリメートルコンテスト」と題したその内容の詳細はまたいつかご紹介するとして,問題はいかにアートやイキモノの視点をデザインの視点の中に盛り込むことができるか,だ.たとえば,ある美術系のワークショップでは,朝とりたての野菜をよく見て描く練習をするそうだ.とれたての野菜の新鮮な感じを葉の形やら色やらの特徴で表現するのだろうか,と聞くと,いや特定の形や色というよりは,その新鮮さそのものの感じ,なのだと言う.エンジニアの私は,絵の要素は結局は形と色なのだから,そこに「新鮮さ」の特徴が現れるはずだ,,と思ってしまう.そこで,この土日を使って自分で試してみた.私は植物を描いた経験がほとんどなかったので,まず,いろいろな植物の写真を撮って,その形をなぞって形の特徴を写し取ってから絵に描いてみた.その中から気に入った植物の現物を手に入れると(この現物支給がなかなか難しかったのだが),今度は触ったり匂いをかいだりした後に現物を目の前において描いてみた.
  下に示した絵(White Dragon 1と2)がそのときに描いた2枚の絵だが,さて,どちらが写真から描いた絵で,どちらが実物を「みた」絵か,おわかりになるだろうか.描く最中にも描いた後にもずいぶん創作を入れてしまったので,また,この写真では細部が見えないので見分けるのは難しいのかもしれない.どちらの絵がデザインとして面白いのかは別問題であるとして,どちらが生き生きとしているかは(少なくとも描いた本人にとっては)明らかである.芸大の先生方が言われた,特定の形や色ではない新鮮さの感じ,も,なるほど,と納得できる.これは,絵の上手さや熟達とは関係がなく,誰でもが自分に正直に描いてみることによって感じ取ることができるのではないだろうか.繰り返すが,デザインとしての面白さは別の問題である.生きている対象を見ているとき,私たちはその周囲の風や気温や触った感触や匂いまでも一緒に「みて」いる.対象のイキモノと私とその周囲の関係性の中で,私は無意識にどこか細部に集中してどこかを無視している.そうしてそれは時間とともに移り変わっていく.形や色は絵に固定される物理的要素だけれども,たとえその形や色が実物に似ていなくとも生き生きしている感じは絵に現れる時がある.それはおそらく,絵とそれを見る人と周囲の関係性も常に移り変わっているような時なのだろうと思う.なにも描く人と対象と周囲の関係性が,絵を見る人と絵と周囲の環境の中に正確に再現される必要はない.そっくりに再現させることよりも,関係性が動いていて固定されない「しくみ」に生き生きさの根本があるようだ.さらにいえば,おそらく,結果が原因を変える「しくみ」にその秘密あるのだろう.たとえば,「みる」結果が「みる」動機を変化させるしくみが次々と多様な関係性を生んでいく.なるほど,多様で相同な関係性の中に存在しているのがイキモノであり,アートでもある.その視点からみると,時間と空間に固定された「モノ」(や「概念」)は,移りゆく関係性の残骸にすぎないのかもしれない.
  私の話はすぐにややこしくなるが,これは頭で考えるのではなく,とにかく自分でやってみないとなかなか共感を得てもらえないだろう,,,はてさて,ワークショップをどうしようか,,,,.

PS:後でこの絵を森さんに見ていただくと,「まだしっかりと対照を『みて』いないでしょう」とのこと.なるほど,おそらく,私は「みる」という時間の意味もまだ全くわかっていないのだ,,



White Dragon 1     by 富田直秀 Naohide TOMITA.JPGWhite Dragon 2    by 富田直秀 Naohide TOMITA.JPG


posted by トミタ ナオヒデ at 15:56| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月09日

周梨槃特 chudapanthaka

  周梨槃特(しゅりはんどく,チューダパンタカ,小路,chudapanthaka,chuudapantaka)とは,サンスクリット語の名を,音写されたり意訳されたりをいろいろに呼ばれている釈尊の弟子で,わずかなフレーズさえも憶えることのできない愚者でありながらひたすら掃除をすることで悟りを開いた.インターネットを調べると,その出生から悟りを開くまでの様々な逸話が登場して,説法の方法論の例であったり,仏法は愚者を差別しない例であったり,空の思想と結びつけていたり,様々に解釈されているらしい.私はただ単に周梨槃特の記憶力の悪さに親近感を持ち,言葉や形式からの脱却の象徴としてこの名を心に刻んでいた.鴨長明の「方丈記」の中にも,「周梨槃特の行いにだに及ばず」という言葉を見つけてからは,私の中では「世に媚びない生き方」の象徴でもあった.
  この絵はもともと,クロッキー会の合間に休んでいたモデルさんを盗み見て2,3分で描いたものだが,後から,こぼれ落ちそうな書物を胸に抱えて呆然としている周梨槃特をイメージして,手と足指と髪の毛とを描き加えた.

Chudapanthaka   by 富田直秀 Naohide TOMITA.JPG
posted by トミタ ナオヒデ at 18:24| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月26日

Takoyaki(amplification of "Inori")コミュニケーションサイズのはなし

たこやき 太横左10%.JPG

  うちのかみさんは,神社のお参りやら墓参りやら仏壇への朝のお供えの時も,長々と手を合わせる.私は,祈りが物理法則まで変えて実質的なご利益をもたらすなどとは信じていないが,不幸を朗らかにやり過ごす心の準備をさせてくれるのではないか,ぐらいには考えている.私はあまり祈らないし,祈ったとしてもたいていはよこしまなお願いばかりなので,このところ不幸続きのかみさんの祈りを増幅してやろうと,1年前から休日をつかって,かみさんの祈っている姿と「色即是空,空即是色」の文字をぺらぺらの障子紙の上に描き続けている.百八十数名のかみさんと,おそらく2万字近くの文字が普通幅障子紙16枚,幅広障子紙12枚,ふすま1枚の面積に並んでいる,(写真はその一部,,写真を撮るだけでも日曜日を1日つぶしてしまう)
  話は変わるが,3月11日に「縮小研究会」という会合で,医療技術開発におけるリスクコミュニケーションの話をする.これからの社会は縮小を考えなくてはならない,という,いわば「モノ」(物質やエネルギーや力などの保存量)を中心とした考え方をする人たちの前で,「コト」(コミュニケーションなどの保存しない,量では表しにくい,対象化もされない)に関してしゃべる,,まったく異なる視点の話なので,批判で火だるまになるのかもしれない.結論は「コミュニケーションザイズの縮小が必要」となるのだが,,はてさて,理解してもらえるだろうか.
  ヒトが引き起こしているモノの増大がコントロールを失っているのは,(私から見ると明らかに)ヒトとヒトとの間の直接のつながりを超えて,言葉や数字を使ったコミュニケーションが広がりすぎているところに原因がある.絵描きでもない私がこの絵(書?)に休日をつぶすのは,言葉や数字を使ったコミュニケーションの氾濫と真のコミュニケーションの衰退に対する内なる反旗でもあるのだ,,おそらく.

(具体例がないとわかりにくいと思います.次のブログをご参照下さい.後述)
posted by トミタ ナオヒデ at 18:41| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月25日

2011年07月11日

「生きている時」を内包する形

Delight2     by 富田直秀 Naohide TOMITA.JPG手と脚.JPG
  素人クロッキーでも、たまに対象に没頭すると、実際には見えていない無意識の線が画面に現れる。描き写した線を名詞とすると、無意識に現れる線は動詞のように作用して勝手に語り出す.左の絵の線は、一般的な人体の線の美しさをむしろ否定しているが、まるで「生きていることに醜さなどないのだ」と主張しているようだ。もちろん,描いた私自身は全くそのようなことを意識していないが,描かれた線が勝手にそれを主張しているように,私には思える.
  右の写真は、ある障害児と私の手の写真である。動きを奪われた手と脚とは、たしかに私たちが見慣れている平均の形とは異なっている。けれども、生きている形の美と、そうして愛おしさがここに感じられる。私が感じているこの生命感は、写真の中に表されているだろうか。実際にふれて感じた者だけに伝わるものなのだろうか、、
 形はどこまでいっても単なる形、描かれた線は単なる線にすぎない。美しさは、それを見る主体の中に生じる化学現象にすぎない。客観的論理的に美術を捉えるならば,ある主体の中で美と捉えられた独りよがりが,ある集団の中で集団よがりに拡張したにすぎない。ただし、この化学現象には,生きていることに共通の普遍的な「時間」があるのかもしれない。もちろん,時間の普遍性には何の保証も無いが、そのような「時間」を信じていた方が,つまり,わたしたちが孤独ではないことを信じていた方が,生きるのに便利ではないか.
posted by トミタ ナオヒデ at 11:37| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月13日

私の部屋の鍵置き場(見張り付き)

Watch It for Me    by 富田直秀 Naohide TOMITA.JPG
posted by トミタ ナオヒデ at 14:11| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月11日

言葉や数字を用いた表現の,,

Daughterr of ONI      by 富田直秀 Naohide TOMITA.JPGHow Can I     by 富田直秀 Naohide TOMITA.JPGTon Ton      by 富田直秀 Naohide TOMITA.JPG

研究者であってつくづく思うが,,文字や数字を用いた表現のいかに不自由なことか,,
posted by トミタ ナオヒデ at 19:54| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月17日

@Professor’s hobby, Naohide TOMITA

Nothing@Professor’s hobby, Naohide TOMITA.JPGHead@Professor’s hobby, Naohide TOMITA.JPGA student@Professor’s hobby, Naohide TOMITA.JPGLady@Professor’s hobby, Naohide TOMITA.JPGSee@Professor’s hobby, Naohide TOMITA.JPG
posted by トミタ ナオヒデ at 20:19| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月25日

「動1」

動1 調整小,富田直秀.JPG
posted by トミタ ナオヒデ at 11:08| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月21日

「絵」,「素」

素,調整小,富田直秀.JPG絵,調整小,富田直秀.JPG
posted by トミタ ナオヒデ at 21:16| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月09日

クロッキー

 短時間で作画を行うクロッキーの会を立ち上げてみようと思っている。
 絵の練習をしようとしているのではない。創造を、要素の統合によって意味を生じされる動きと捉えるならば、多くの知識人たちが要素を論理的に組み立てることばかりにとらわれていて、要素が自ずから統合される本来の創造性(創発)を忘れているように思うからだ。作画は、様々な要素が自ら統合され、実体が記号化されて意味が創造される、最もわかりやすい記号過程でもある。
 以前は、要素の自己組織的統合は自明だった。例えば一つの事実を突き詰めることによって、そこから自然に様々な技術が生じてきた。これは、画家が線や色に集中してもやがて統合的な絵となる事と同じだ。以前は「遊ぶ」ことが当然だった。けれども現代では、要素を論理的に組み立てる科学手法が発達したためか、遊びが枯渇しているためか、要素が要素のまま留まってしまって、本当の創造にまで行き着かない。新技術も、コンピュータ上に描かれた絵も、刺激的だが、どこか自然の生気を欠いてしまっている場合が多い。
 欲を言うならば,クロッキーのモデルさんは裸体よりも,たとえば赤ん坊を抱いた母親(母子像)などのほうが適切なのかもしれない。裸体はその線の厳しさに翻弄されてしまい、写真を撮るような機械的な模倣に終わってしまって、実体と描く主体との間のコミュニケーションにまでなかなか行き着かない。ポーズが何らかの感情を呼び起こさなければ、そもそも創造が始まらない。母子像ならば、おそらく自然な形に対して誰もがそれぞれの感情を呼び起こすのだろう。どこかに、モデルとなってくれる母子モデルはいないだろうか、、


外(そと) 調整小 富田直秀.JPG豹、調整小トリミング 富田直秀 .JPG昼,調整小3 富田直秀.JPG
posted by トミタ ナオヒデ at 20:31| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月17日

裸体クロッキー

IMG_4508webdai2.JPGIMG_4500webdai2.JPGIMG_4507webdai2.JPG

 今年の初めから(もう二十数年ぶりになるだろうか)裸体クロッキー会に参加している。このことを学生に言うと、「美人の人のなら見てみたいですね」などと笑う。違うのだ、たとえば、でっぷりと突き出たおなかや、皺や、不対称な身体の動きの美しさが、裸体クロッキーをしてみるとよくわかる。いわゆる、美人、とは平均値のようなもので、美のほんの一側面でしかない。
 生意気で高慢な意見だが、クロッキーは私のような元来の下手くそこそ良いと思う。筆を制御できずに、しかしそれを気にせずに何枚も何枚も下手くそに描き散らす。すると、描き散らした駄作の山の中に、とても自分で描いたとは思えないような生き生きとした形や筆の勢いが(厳とした「モノ」として)残されていることがある。それが、なんとも不思議な喜びなのだ。
 日本画家の中尾美園さんに言わせると、そんな時は「対象にすっぽり入り込んでいる」のだそうだ。ああ、この感覚は、剣道や研究の心持ちにも似ている。何と自分はダメ人間なのだろうか、と頭を抱える日常だが、それにもめげずに動き続けているとに、まるで自分ではないようなところから思わぬ技やアイデアが生まれ出ることがある。平均の私は何にしても「美人」ではないが、醜いながらもなんとか没頭して動き続けていると、何かがひょんと生まれる。私だけではない。イキモノ、とはみなそうなのだろう。
posted by トミタ ナオヒデ at 17:13| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月17日

生きている記録?

081018MARIKO撮影縦向きプリント用のコピー2.jpg大学院を修了してからはほとんど絵を描いていません。しかし、この一枚だけは今も時々手を加えています。最初のデッサンを失敗しているので絵画としての価値はありませんが、28年間、塗っては削り塗っては削りを繰り返していますので、私の生きている記録のような作品です。
(この絵、当時学生のカミサンが長い卒業試験を終えた後に、久しぶりに会ったときのイメージです。カミサン曰く、「もう私の顔とは違うな」、、たしかに、、モデルを離れて、長く暗いトンネルを抜けた後の清涼の象徴として描いているのかもしれない、、富田直秀)



posted by トミタ ナオヒデ at 12:14| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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