富田直秀(Naohide TOMITA)     e-mail: tomita.naohide.5c kyoto-u.ac.jp  ←を半角に変えてください。


Dr.Tomita

プロフィール

富田直秀(Naohide TOMITA)材料工学出身。もと整形外科医。現在は医療工学、デザイン、再生医療、バイオメカニクス、バイオトライボロジーなどの研究をしています。

研究とは切り離しておりますが、学生の頃から少しずつ創りためている文章、絵、写真なども公開しています。興味のある方は右のMENUからお入りください。

E-Mail: tomita.naohide.5c@kyoto-u.ac.jp
(@を半角に変えて下さい。たくさんのメールをいただいており、お返事できない場合が多いと思います。申し訳ありません。)

2012年03月23日

自分ができることは人もできる?

 昨日の夜,学生たちと四方山話をしていて,一つ思い出したことがあった.中学生の頃,記憶力の極端に弱い私は,歴史の年代や人の名前は読んでも書いてもどうしても憶えることができず,社会はいつも落第点を取っていた.ある日,社会の先生が採点した答案を配りながら「テストの点数はみな平等につけているが,富田は答えが違っていてもよく考えて書いていたので少しだけおまけした.」と,皆に言った.答案を見ると,確かに,少しだけ,加算されていた.
  今,教育者の立場から学生をみると,「どうしてこんなことができないのだろう.できないのではなく誠意がないからだ」と思ってしまう時がある.たしかに京大生は,できるはずだ,と強く言えばできてしまう場合も多い.そーれみろ,やればできるじゃないか,と教師は満悦する.けれども,できるかできないかでレベルを判断する「評価」とは,自分ができることは人もできるはずだ,という教師側の傲慢と,それぞれの学生が飛び抜けてできる何か,を探し出してやる教師側の誠意の欠如の結果でもあるのだ.もちろん,ある客観基準にしたがった「評価」は大切だが,それで誠意の有無や人の可能性までも判断してしまってはいけない.評価はモチベーションを高めるための一つの道具にすぎない.
  私はすっかりと忘れていた.中学生のころの先生のあの一言と、少しだけ、の点数は,本来劣等生である私を今もどこかで支えていてくれる.
posted by トミタ ナオヒデ at 08:02| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月11日

姨捨・爺捨・子捨と袂を分かつ「深く短く生かせる医療」 

  縮小研究会での発表を無事終えた.
  以前にも書いたが,これからの社会は縮小を考えなくてはならない,という,いわば「モノ」(物質やエネルギーや力などの保存量)を中心とした考え方をするグループの中で,「コト」(コミュニケーションなどの保存しない,量では表しにくい,対象化もされない)に関して話さなければならなかったので,少なからず緊張していた.講演の正式の題名は「医療技術開発におけるリスクコミュニケーションの現状」だったが,その内容の本筋は「深く短く生かせる医療」だった.「深く短く生きる」は,レスパイト医療活動をされている富和清隆先生 (東大寺福祉療育病院副院長)がよく口にされる言葉だ.医学の進歩によって障害を持つ子供は増加している.「深く短く生きる」は,難病や障害(LTI:life threatening illness)を持つ子供の家族を支援するレスパイト活動のコンセプトとして提唱されている.医療における縮小を考えるときには,自分自身が深く短く生きるだけではなく,愛する家族を深く短く生かせる選択肢を考えることが,重要なポイントになってくるのだと思う.けれども,この内容は今回の講演題名からも,また,前回のブログにも紹介した抄録からも削っている.それは,この「深く短く生かせる医療」の内容が,大きなコミュニケーションの中で語られると,姨捨思想になってしまう,と感じたからだ.姨捨・爺捨・子捨のシステムは,その根底に(生産性∝生きる価値)という概念を含んでしまう.
  まずはお互いが直接に合って信頼し合うことができる「コミュニケーションザイズの縮小」があり,その小さなコミュニケーションサイズの中で「だれもが生きるに値する」という価値観の上に立って「深く短く生きる」そうして「深く短く生かせせる」という自己選択システムが自然に生じてくることを待たなければ,この主張は姨捨・爺捨・子捨になってしまう.たとえば北欧では,スプーンを自分で持ち上げられなくなった時が寿命である,という漠然とした概念があって日本ほど食事介護が普及していない.1990年代に大熊由紀子著「『寝たきり老人』のいる国いない国」をきっかけとして,要介護者の自立を支援する欧米の文化が注目されだした.日本の介護福祉文化は,予想以上にその動きが重いが,おそらく日本においても.自己選択において食事介護や胃ろうなどを拒否するケースが増えていくのだろうと思う.けれども,これがもし大きなコミュニケーションの中でトップダウンに決められていくのならば,それは現代の姨捨・爺捨・子捨となってしまう.「深く短く生きる」そうして「深く短く生かせせる」という自己選択システムは,信頼し合う小さなコミュニケーションの中でこそ語られなければならない.おそらく,北欧にはグローバル社会の中でもそのような小さなコミュニケーションサイズを維持させているのだろう.日本における「世間」というコミュニケーションは,時として暗黙の圧力を個人に与えることがある.欧米の生活の中に維持されている小さなコミュニケーションには,個人の自由を束縛しない「しくみ」があるのだろうか,,.

posted by トミタ ナオヒデ at 23:57| 論文調の独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月04日

リスクコミュニケーションとコミュニケーションサイズの縮小

前回のブログで述べた内容は,具体例がないとわかりにくいと思います.
医工関連の講演会でしゃべる内容を少し変化させてここに掲載しますね

「医療技術開発におけるコミュニケーションサイズの縮小」

     富田 直秀
    京都大学工学研究科機械理工学専攻医療工学分野

はじめに:  医療・福祉技術が高度化すればするほど,その対価の支払いの多くを保険に頼る現行の医療・福祉制度を不安定にしてしまうジレンマを抱えている.講演では,生活及び経済活性と健康との関係を定量的に計測する効用値計算に関してその例を示し,後半に医療・福祉技術開発におけるコミュニケーション環境の役割に関して述べる.本稿では,後半の話題からコミュニケーション環境の充実による医療技術開発の適正化を提案する.専門家が机上で発案したアイデアをトップダウンに実用化させるのではなく,現場に密着したニーズの中からボトムアップに創成されるワークショップ型の医療・福祉技術開発が望まれている.

1. 医療技術と医療崩壊
 日本の次世代の成熟産業として医療・福祉技術に注目が集まっている.事実,日本発の医療・福祉技術の質の高さは世界に認められつつある.しかし,医療・福祉技術が高度化すればするほど,その対価の支払いの多くを保険に頼る現行の医療・福祉制度を不安定にしてしまうジレンマを抱えている.また一方において,難病とされてきた疾患が救命可能になった一方で,救命し得たものの,何らかの障害を残し家族や関係者が日々様々な挑戦を余儀なくされる状況も増加しつつある.そもそも医療・福祉技術は何のためにあるのか,社会経済基盤と医療・福祉の関係はどうあるべきなのか,といった哲学を欠いたまま,科学者が予算獲得のために描いた夢に踊らされているのが現代の医療・福祉技術開発の現状であろう.
本稿ではコミュニケーションの充実による医療技術開発の適正化を訴える.それは,増大する医療負担の根本原因の一つに,本来コミュニケーションで解決すべき問題がモノで解決されている現状があるからである.また,現場とのコミュニケーション,特に,医療を受ける側とのコミュニケーションがないままに,専門家の独断で医療・福祉技術開発が長年行われてきた結果,日本には臨床にとうてい使用し得ない,レベルだけが高いとされる技術が山積されているからである.
世のため人のためと鳴り物入りで開発される医療技術が,かえって医療を崩壊させる方向にも働いている現実を,開発者である我々はしっかりと自覚しなければならない.

2. リスクコミュニケーションの重要性
 技術の事業化にともなうリスクは,過誤と有害事象とに分けることができる.有害事象の中には発生頻度は低くとも,有害性がとても高く,またその防止策がとても難しい「魔の領域」が存在する.この魔の領域への対処として,従来よりリスクマネージメントの考え方が適応されてきた.相当量の安全性確認作業の後にも,確率が低く有害性の高い事象の可能性をゼロにすることは困難であるため,リスクマネージメントでは,たとえば発生確率と有害性をかけ合わせることでそのリスクの大きさを評価する.しかし魔の領域には,「想定外を想定する」という自己矛盾的な構造も内包されているため,その発生確率の定量化はきわめて困難である.また,1パーセント以下の低い確率で生じる有害事象に対する心理的な理解には限界がある.現実には,「大丈夫」「安心」といった価値観の違いが放置されたまま,価値観と関わりのない科学的説明だけが繰り返されている.
「魔の領域」の有害事象は,本来マネージメントによって対処される対象ではない.異なる価値観を有する人同士がコミュニケーションを行い,もともと何が求められているか問い直す場の設計(リスクコミュニケーション)がなければならない.科学者や専門家の多くがこのリスクコミュニケーションの立場を基本的に誤解している場合が多い.(科学に基づいた正しい情報を伝える)のみならず,その情報の上に立った(科学者自身の価値判断の自覚と双方向的な価値観の共有)こそが,リスクコミュニケーションの基本である.たとえば,発生頻度が低く有害性が高い事象に対する「大丈夫」という科学者自身の価値判断が,科学的判断として一方的に説明し得ると誤解されている場合が多い.リスクコミュニケーションでは,研究者個人が自身の価値観を自覚し,相手の価値判断を尊重する真摯なコミュニケーション能力が求められている.

3. 安心(ANSHIN)性と安全性
 「安心性」という言葉はリスクコミュニケーションの立場から筆者が造語した用語である.前述のごとく,リスクコミュニケーションにおいては,科学に基づいた正しい情報を伝えることのみならず,科学者自身の価値判断の自覚が重要となる.たとえば,人工膝関節の寿命を延ばすために筆者らが開発したビタミンE添加ポリエチレンにおいて,dl-α-tocopherol (ビタミンEの一種)を選択した最大の理由は,「身体内に存在しているから未知の危険性が少ない」と自身の価値判断(科学的判断ではない)を比較的容易に患者に説明し得るが故である.また,現在開発中の貼付型軟骨再生システムにおいてフィブロインスポンジ(絹糸をさらに精製し他タンパク質)を選択した理由も,この材料が近傍に組織を形成する cell derivery 機能を有している云々以前に,手術用絹糸として外科に用いられた長い歴史を有しているからである.これらはみな安全性を証明する情報ではなく,あくまで未知の危険性に対する主観的な安心性ゆえの選択である.
この「安心性」は安全性のように客観的定量的な評価の対象外である.医療技術においては効果のみが得られる治療はきわめて稀であり,効果と副作用とが量として対比されてその事業化が検討される.そのため定量比較が難しい「安心性」は,現場においては最重要項目でありながら,事業化プロセスの中に取り込まれにくい.しかし,たとえば整形外科分野のように直接に生命予後には関わらず日常生活の質を改善する医療分野においては,この「安心性」が事業化における最重要事項の一つとなる.
 これは何も難しいことではない,たとえば「現在あなたが開発している技術は,あなたやあなたの家族に用いてほしい技術だろうか」,あなたがもし医師であれば「あなたが患者に対して行っている同じ治療を,あなた自身や家族に対しても行うだろうか」,といった問いを医療福祉技術の開発者たち自身が自問するところに,安心性が生じる.安全性は考慮していても,本当にその技術を自分が受ける側となったときに,本当に安心だろうか,本当に必要とされている技術なのだろうか,と,まず開発者が自身のモチベーションを自覚するだけでも,現行の医療・福祉技術開発で行われている膨大な無駄のボトムアップな解決が始まると,著者は考えている.

4. コミュニケーションサイズの縮小
 かく偉そうに述べてきた筆者は,「脚」を使い実質的に医療現場を改善してきたのか,と問われれば,その答えは「否」である.おおかたの公的研究機関の研究者と同じく,筆者も文章書きと予算の獲得に奔走してきた.もし言い訳を許されるならば,論文のレベルや研究費獲得額で成果評価が行われる現行の制度下では,創造的なものつくりに必須である試行錯誤的な作業に注力することは難しい.また短期間で学生に論文を書かせるためには,試行錯誤による創成よりも論理形式を重んじる論文のための研究を選択させる場面も多い1,2).
では,研究の評価を変えれば問題は解決するのだろうか.確かに,試行錯誤を重んじる評価方法の確立は,役に立つ研究の推進にとって必須の作業である.ただ,より根本的には,現代の医療技術開発や医療そのものの巨大化・専門化がある.その巨大化・専門化に対応して,専門家間のコミュニケーションは言葉や数字を媒介としてつながれている.前述の「仕様」も現場と技術者とを媒介する言葉の一種である.言語化によって目的が明確化する一方で,利他的なモチベーションや「勘」による総合的な創造作業が希薄にとなってしまった.試行錯誤が評価されるか否かの問題以前に,試行錯誤を繰り返すエネルギー源としての利他的なモチベーション自体が衰退している.医療・福祉分野のように多様な価値観の中で試行錯誤的に育てられなければならない技術開発では,「勘」とモチベーションの欠如は決定的打撃である.直接に接することのできる距離にまで近づくコミュニケーションサイズの縮小が必要とされている.

5. インクルーシブデザイン等の動き(小さなコミュニケーションに始まるものつくり)
前述のコミュニケーションサイズの縮小に関連する様々な動きがすでに開始されている.福祉分野ではインクルーシブデザインという概念が提唱され,高齢者や障害のある人などの特別なニーズを抱えた消費者がデザインプロセスの上流工程で積極的に参加する開発が成果を出しつつある3,4,5,).思えば,医療・福祉分野において当事者である患者,障害者がその開発過程から排除(Exclude)されてきたことこそが異常な開発形態であったようにも思える.知的財産権の所属,秘密契約のありかた,試作過程の簡略化,安全性保証など実際的問題は多々あるが決して乗り越えられない壁ではない.利用者個人を含んだ(Include)ワークショップ型の医療・福祉技術開発の利点は,できあがったモノの合理性のみならず,その開発過程の真摯さ,明るさにある.直接に「ほんね」をぶつけ合う小さなコミュニケーション環境の中でヒトの多様性に対峙した技術が育っていく過程は,ものつくりの楽しさの原点でもある.

Reference
1)富田直秀.: 書を捨てず,町へ出よう 科学的事実を生活に結びつける工学. 臨床整形外科, 46(4): 348-352, 2011.
2)著者ブログ: http://tomitaken.seesaa.net/ .
3)フィールド情報学入門 ―自然観察,社会参加,イノベーションのための情報学― 共立出版 (2009)
4)塩瀬 隆之,隅田喬士,戸田健太郎,川上浩司,片井 修,聴覚障害ユーザが参加するデザインワークショップにおける情報保障,ヒューマンインタフェース学会研究報告集 : human interface 9(4), 17-20, 2007-11-21
5)西山 里利,塩瀬 隆之,西山 敏樹,他 ,看護におけるインクルーシブデザインワークショップ手法活用の可能性. 日本看護技術学会誌 9(1), 50-54, 201
posted by トミタ ナオヒデ at 18:29| プロフィール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月26日

Takoyaki(amplification of "Inori")コミュニケーションサイズのはなし

たこやき 太横左10%.JPG

  うちのかみさんは,神社のお参りやら墓参りやら仏壇への朝のお供えの時も,長々と手を合わせる.私は,祈りが物理法則まで変えて実質的なご利益をもたらすなどとは信じていないが,不幸を朗らかにやり過ごす心の準備をさせてくれるのではないか,ぐらいには考えている.私はあまり祈らないし,祈ったとしてもたいていはよこしまなお願いばかりなので,このところ不幸続きのかみさんの祈りを増幅してやろうと,1年前から休日をつかって,かみさんの祈っている姿と「色即是空,空即是色」の文字をぺらぺらの障子紙の上に描き続けている.百八十数名のかみさんと,おそらく2万字近くの文字が普通幅障子紙16枚,幅広障子紙12枚,ふすま1枚の面積に並んでいる,(写真はその一部,,写真を撮るだけでも日曜日を1日つぶしてしまう)
  話は変わるが,3月11日に「縮小研究会」という会合で,医療技術開発におけるリスクコミュニケーションの話をする.これからの社会は縮小を考えなくてはならない,という,いわば「モノ」(物質やエネルギーや力などの保存量)を中心とした考え方をする人たちの前で,「コト」(コミュニケーションなどの保存しない,量では表しにくい,対象化もされない)に関してしゃべる,,まったく異なる視点の話なので,批判で火だるまになるのかもしれない.結論は「コミュニケーションザイズの縮小が必要」となるのだが,,はてさて,理解してもらえるだろうか.
  ヒトが引き起こしているモノの増大がコントロールを失っているのは,(私から見ると明らかに)ヒトとヒトとの間の直接のつながりを超えて,言葉や数字を使ったコミュニケーションが広がりすぎているところに原因がある.絵描きでもない私がこの絵(書?)に休日をつぶすのは,言葉や数字を使ったコミュニケーションの氾濫と真のコミュニケーションの衰退に対する内なる反旗でもあるのだ,,おそらく.

(具体例がないとわかりにくいと思います.次のブログをご参照下さい.後述)
posted by トミタ ナオヒデ at 18:41| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月25日

2011年12月19日

本質は伝わらず形式が伝わる

 本質は伝わらず形式が伝わる

  (大器晩成を育てる環境)では,形式に翻弄されて本質を見失っている現代の科学技術を批判的に述べたが,もともと科学や技術がどうしても形式を離れることができない事も述べておかなければならない.前述のように,本質はなかなか伝わらず形式のみが伝わる.本質とは常に直感的であって,共通の理解の下地がなければ直感は伝わらない.私たち人間は,生得の,つまりイキモノとして共通に持っている下地で直感を伝え合うが,それ以上に様々なコミュニケーションの形式を発明してきた.言葉や数や論理性もその発明された形式の一つだろう.一見直感的のようにみえる絵画や音楽でさえ,いや芸術分野にこそコミュニケーションのための精緻な形式を有している.芸術家たちは共通の形式の器にそれぞれの本質を注ぎ込み,かろうじて自分の存在を文化という形式の中に位置づけている.自分の両の手だけで水(本質)をすくってもそれを人に与えて飲ませるのがなかなか難しいように,芸術という公のコミュニケーションでは,技術(形式)という器を使って本質を伝え合い,結局のところ本質そのものよりも器(:技術:形式)の良し悪しと容積が,その質として評価されてしまう.それはたとえば,優れた技術(形式)を有する芸術家のいかにも気の抜けた演奏や作品に接しても,また逆に,たどたどしい演奏や作品の生き生きとした生命感に圧倒されても,なお,本質は形式を離れることができないだろうと思う.両手に水をすくって水を差し出すような形式にとらわれない芸術を私はこよなく愛するが,それは独りよがりかもしれないし勝手な思い込みかもしれない.プロフェッショナルとして文化を伝える者が,形式や伝統を重視することは,一つの責任でもあるのだろうと思う.
  これと同じように.科学技術や合理性そのものもコミュニケーションのための形式であろうと思う.繰り返えせば,本質は常に直感的で,同じ理解の下地がなければなかなか伝わらない.私たち人間は,生得の,つまりイキモノとして共通に持っている下地を超えてコミュニケーションを交わすために,科学技術や合理性という形式も発明してきた.たとえば,医療・福祉技術において,私たちは技術という形式の器にそれぞれの価値観を注ぎ込み,かろうじて私たちの生命や健康を医療・福祉技術という形式の中に位置づけている.技術によって生きていることの意味が伝わるわけではないけれども,医療の現場では医療・福祉技術という器の良し悪しと容積が,どうしても評価される.それはたとえば,高度な医療・福祉技術を有した医師が医療の本質を無視してモノのように患者を扱う姿を見ても,また逆に,たどたどしい技術でも心のこもった診療に感謝しても,なお,技術や合理性という形式は医療にとって大切なのだろうと思う.形式がなければ,独りよがりや勝手な思い込みが横行してしまう.もちろん,個人的には技術(形式)だけで心の通じない医療は大嫌いだが,医療・福祉に技術という形式を与え,それを客観的に評価し,事業として成り立たせていくことは,医療・福祉技術にプロフェッショナルとしてたずさわる者の責任でもあると思う.
  現代の科学技術が形式に翻弄されてその本質を見失っている事は先にのべたとうりだ.医療技術に医療の本質が在るわけではないことも当然だと思う.しかし,形式を離れた本質はその姿を捉えることができず,かえって独りよがりや勝手な思い込みを作りだしてしまう.似非科学や証拠のない治療が横行したり,また逆に事実を確かめずに名だけでいかがわしいと決めつけてしまう事の弊害は,私たちの日常や科学技術の世界にまで深く浸透している.形式の中には本質がないことを十分に認識した上で,本質を注ぎ込むことのできるしっかりとした器(形式)を創り出すのが私たちの仕事なのだろうと思う.そうしてもちろんのこと,新しい器(形式)を創り出すためには,その形式を十分に理解したうえでそこをいったん離れて本質に立ち戻ってみなければならない.
  千利休が粗末な器に国の財政にも近い値段を付けたのは,モノや形式は本質ではなく器であって,しかし良い器には想像を超えた価値をそこに注ぐことができるのだ,という象徴であったように,私には思える.
posted by トミタ ナオヒデ at 09:53| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月30日

大器晩成を育てる環境

大器晩成を育てる環境

  本質はなかなか伝わらず,形式のみが伝わる.たとえば,私が担当しているある授業では,ある一つのトピックに対してその真実をボトムアップに定めることとした.授業中に問題を提示して,班ごとにその解答を考える.次に各班の代表者がそれぞれの解答とその根拠を説明する.最後には班を解消して,それぞれの個人がどの代表者の説明に一番納得したかを明示してレポートを書く.そのクラスの大多数が至った解答を真実と認めてそれ以降の授業を進めることとした.幸い,大多数の学生が現在真実と信じられている解答を選択したので,以後の授業を無理なく進めることができた.しかし,誰の説明に納得したか,に関しては興味深い結果が得られた.形式的に専門用語を並べただけで本質的には間違った説明をした代表者と,本質を語ったが説明がたどたどしかった代表者では,前者の方がより多くの賛同者を得たのだ.
  昨日まで関わっていたある学会の賞の審査でも,結局のところ形式の整った論文を多数発表している研究者が優先された(ように思う).研究のように本質を追究する場においてさえ,本質はなかなか伝わらず,形式のみが伝わるのだ.一般に,優秀と呼ばれる人たちは本質から形式への衣替えが実にスマートなのだと思う.何かがわかると,それをすぐに形式として表現してみせる.わかった本質がすでに形式的であるのかもしれない.もちろんのこと,本質を直感するだけではなく,きちんとした形式で表現され,次に実証を経て初めて真実と認められるのだから,形式化も真実追究の重要なステップだ.問題は,本質がわかっていなくても形式だけで評価されるためのテクニックが,受験ばかりではなく学術分野や私たちの生活の中にまで深く浸透してきてしまっていることだ.
  かつて,夏目漱石が英文学研究の官費留学生としてロンドンに留学した時のこと.彼は文部省への報告書を書くことができなくなり、白紙の報告書を送って「漱石狂えり」と噂されたという.おそらく,漱石は本質を知るが故に形式への衣替えができなかったのだろう.漱石は絶望の中から,自分を徹底的に見つめる「個人主義」に活路を見いだした.これは文学の話だが,さて,凡人教育者の私たちは学生たちにどのような背中を見せるべきなのか.本質とは本来直感的であって,あまりにスマートな形式化は真の創造性を離れている,と,個人的には思う.大器晩成型の学生が,つまり本質をしっかりと見つめているがゆえにその形式化と表現が不得手な学生が,ゆっくりとその真実性を表現していくような,そんな環境を私たちは彼らに提供しているのだろうか.高く評価されるための形式のテクニックに翻弄されている,そんな後ろ姿を見せてしまっているのではあるまいか.
posted by トミタ ナオヒデ at 12:58| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月03日

歌舞伎(KABUKI)嫌い

  歌舞伎を,私は食わず嫌いで,昨日までは一度も見たことはなかった.名古屋の御園座「第四十七回吉例顔見世」で,生まれて初めての歌舞伎を体験してみると,まずは,そのおもしろさに白旗をあげざるを得なかった.能楽に比べるならば,そのやくざなところ,やんちゃなところ,大げさなところが鼻につくだろうと思っていたのだが,逆にそこが歌舞伎のおもしろさの肝でもあるようだ.
  たとえば,「双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)」では,人気力士濡髪長五郎と素人力士の放駒長吉の達引と侠気を描いた,,とあるが,要するに今の相撲界で問題になっている八百長相撲が,昔は侠気で堂々と行われていたことを背景にしている.濡髪は,自分を贔屓(ひいき)する若旦那の与五郎と遊女との仲を取り結ぶために素人力士の放駒にわざと負け,それを知った放駒は怒って,頑として濡髪の願いを聞き入れない.八百長をした濡髪は世をわきまえてどっしりとした貫禄のある役柄として吉右衛門が演じ,不正に怒った放駒にはどこか慌て者で活きの良い役柄を与え,さらに若旦那を染五郎が純真に演じることで,八百長というやくざな罪を人情話として笑い飛ばしている.特に吉右衛門の演技は,大げさ,であることの深さを見せつけて,私の歌舞伎嫌いを笑い飛ばしていた.次の「棒しばり」では,主人の留守にいつも酒を盗み飲んでいる家来二人を登場させて,主人に縄で縛られてもなお二人で協力して酒を盗んではしゃぎ回る役に,ついこの間,酒の席での喧嘩で謹慎になったばかりの市川海老蔵と,テレビでも人気役者の三津五郎を登場させて,はちゃめちゃの酔いどれを演じさせる.これも,いかにもやくざでやんちゃで大げさだ.最後に,「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」では,夜ごとに吉原で喧嘩に明け暮れている色男;助六を,海老蔵の父,市川団十郎が演じる.さんざんの悪口の言い合いと理不尽なけんかの末に,助六が誰かれかまわず悪態をついて相手に刀を抜かせるのは,奪われた宝刀;友切丸を捜し出して母に返すためであった,とする物語である.それぞれ要約すると短い物語だが,絶妙の間で現れる音は混沌とした心にはっと響き,台詞の言外に込められた意を汲み取るために目は舞台に釘付けとなり,直線に仕切られた色彩は非日常の物語を何千倍にも豊かに表現してみせる.
  さて,これらの物語は正義という基準に照らせばみな罪となる「やくざ」な主題だ.大げさに人情をひけらかし,罪にはしらーとそっぽを向くようなところが,私の歌舞伎嫌いの一つの要因だ.その思いに変わりはないが,実際にその場で観覧していると,そのやくざなところを何か大きな優しさのような概念で包んで愛嬌のある「やんちゃ」に換えてしまうところがある.この正義よりも人の良さを優先させるところは,たとえば山本七平氏に言わせれば,人情ある良い人を教祖とする「日本教」の教義なのだろうか.私は.先の相撲の八百長問題や海老蔵の喧嘩には眉をしかめる自称堅物であるが,歌舞伎に表される「やんちゃ」を大いに楽しんでしまったところをみると,山本七平氏言うところの日本教徒の心も持っているのだろう.山本七平氏は,ユダヤ教と対比させてこれを日本教などと表現したが,もしやこれは人類誰もが持つ母性へのあこがれなのではあるまいか.つまり,極端に未熟な状態で産み落とされて母親に育てられるヒトという種は,弱肉強食の「やくざ」な話を,何か大きな優しさのような概念に包まれた「やんちゃ」に換えてしまうような,共通した心の故郷を持っているのではあるまいか.食わず嫌いだった歌舞伎にも,一旦その懐に入ってみると,そこはかとない心の世界も垣間見える.
  たった一回の体験で歌舞伎嫌いを返上するわけではないが,その,言よりも言外を重んじ,音よりも間を重んじ,さらにやくざなところ,やんちゃなところは,良くも悪くも日本文化の一面を表しているには違いないだろう.グローバル社会の中で,日本文化のもつ不合理は今も世界から不思議がられている.近年のインターネットの普及によって日本文化が文字を介さずに動画として紹介されるようになってくると,その不合理が許容されて合理ともなっている社会の複雑性や,グローバル社会におけるローカルの意味が世界の場でも論じられる日が来るのかもしれない.これは社会文化のみならず,現在私が仕事の上で対峙している問題「いかに技術の質を育てるのか」にも深く関わっている.貧乏学者にはずいぶん高い授業料ではあるが,日本文化と社会の表と裏を知る上にも,歌舞伎はよい教材なのかもしれない.


posted by トミタ ナオヒデ at 13:42| 論文調の独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月01日

やりたいことが,ひとのためになる,,

  昨日,「京都大学は東北大震災に対して何ができるのか」を話し合うタスクフォース会議に参加した.現地から寄せられている問題には,お金と,技術と,時間と,そうして,それぞれの価値観ががんじがらめにからまっていて,どれも一筋縄に解決できる内容ではない.大学人は,懐に持った比較的単純で論理的なモデルを見せては,このモデルの実物を働かせればきっと役に立ちますよ,などと提案をする.そう理屈どうりに現実の事が運ぶのか否かはおいておくとして,まずは,その様々なモデルを(お偉いさんではなく)だれよりも現地の人たちに見てもらって,役に立ちそうなモデルとその提案者を現地に派遣するようなシステムが,まず必要なのだろう.現行の科学技術政策のように,お偉いさんが脚を使わずに書類だけで選考するような方式は,この場面ではおそらく全く機能しない.
  しかし,より根本的そうして概念的には次のように思う.震災によって生じた多くの不自由を,どのようにして皆で負担するか.という視点で国全体が動かざるを得ない中で,大学の役割は,誰もが不自由を負担せずにすむ妙案をひねくり出すことなのではないだろうか.あまりに楽天的な考え方だろうか.しかし大学人とは,そうして特に京都大学の研究者は,「自分が自由にやりたいことが,結果として人のためになる(かもしれない)」ことを社会に認めさせた集団なのだと,私は信じている.ここで言う「自由」とは,freeにやりたい放題できるという自由ではない.学問に伴う苦労や苦悩は,それ自体がおもしろく,また自由であると感じるところに学問の自由がある.学問の自由とは,賢ければfreeにやりたい放題できる自由なのではなく,大きな社会的な義務を負った自由である.ただし,その社会的な義務をも「おもしろさ」に換えてしまう妙案を,たいていの研究者は持っている.おもしろくなければ,自由でもない.この,社会的な義務をおもしろさに換えてしまう能力を発揮して,たとえば,困窮する現地の人にかえって労働を課して,それが地域の朗らかな活性になるような妙案はないだろうか.たとえば,放射能汚染が低線量照射の資源となるような活用法はないだろうか,たとえば,たとえば,,,.研究者は,結局のところ子供なのだろうと思う.この子供じみた多様なアイデアの中にこそ,起死回生の妙案があるに違いない.
  繰り返すが,大学人とは,そうして特に京都大学の研究者は,「自分が自由にやりたいことが,結果として人のためになる(かもしれない)」ことを社会に認めさせた集団なのだと,私は信じている.京都大学が大切にしている自由とは,社会貢献と利他意識とを内在させた自由である.今回の大震災は,研究者の「やりたいことが,人のためになる」事を事実として証明する好機でもあるのだろう.何とかこの天の邪鬼の頭脳を結集して,悪循環を断ち切り,不自由を克服する妙案をひねくり出せないものだろうか.

posted by トミタ ナオヒデ at 12:17| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月26日

「リスクコミュニケーション」と「モチベーションマネージメント」

「リスクコミュニケーション」と「モチベーションマネージメント」

           京都大学工学研究科機械理工学専攻医療工学研究室
                             富田 直秀

  技術の事業化にともなうリスクは,過誤と有害事象とに分けられる.また.有害事象の中には発生頻度は低くとも,有害性がとても高く,またその防止策がとても難しい「魔の領域」が存在する.この魔の領域への対処が,特に人を対象とした技術のリスクマネージメントにとってとても重要となる.しかし,相当量の安全性確認作業の後にも,確率が低く有害性の高い事象の可能性をゼロにすることは困難であり,また,低い確率の危険性に対する科学的理解には心理的な想定限界があるため,「大丈夫」「安心」といった価値観にコンフリクトが生じると,異なる価値観を有する人同士がコミュニケーションを行う場の設計(リスクコミュニケーション)が必要となる.
  しかし,科学者や専門家の多くがこのリスクコミュニケーションの立場を基本的に誤解している場合が多い.(科学に基づいた正しい情報を伝える)のみならず,その情報の上に立った(科学者自身の価値判断の自覚と双方向的な価値観の理解)こそが,リスクコミュニケーションの基本である.たとえば,発生頻度が低く有害性が高い事象に対する「大丈夫」という科学者自身の価値判断が,科学的判断として一方的に説明し得ると誤解されている場合が多い.リスクコミュニケーションでは,研究者個人が自身の価値観を自覚し,相手の価値判断を尊重する真摯なコミュニケーション能力が求められている.
  また,総じて,我々公的研究機関の研究者は公共の福祉を看板に掲げているが,多くの場合は現場を知らず,日々論文書きと予算の獲得に奔走している.論文で仕事が評価される現状のシステムでは,論文になりにくい試行錯誤的な作業は軽視されがちである.一方,企業は利潤を追求するが故に,リスクが小さく市場の大きなマーケットが優先され,その結果として医療費が増大し,必要とされている技術の実用化が阻まれている現実がある.これらの根本的な解決のためには,トップダウンに開発の方向性をコントロールする(ex.アンメット・メディカル・ニーズ)だけではなく,また,文章化された目標に向かって技術を開発するだけではなく,技術者が能動的に現場に関わり,そこにある問題を試行錯誤的に解決しようとする動機を育てるモチベーションマネージメントが重要である.
  資源のない日本が今日成り立っているのは,「質」の高い技術をたえず創り出してきたが故であり,ヒトを対象とする技術において「質」を育てる基盤として,上記のリスクコミュニケーションとモチベーションマネージメントはきわめて重要である.医療・福祉分野では,プライバシー保護等の観点から,現場と開発とのコミュニケーションの多くが文章を介しており,現場性の高いリスクコミュニケーションやモチベーションマネージメントが育ちにくい環境にある.たとえば,単なる延命や苦痛の除去を目的とした技術は必ずしも現場の問題を解決せず,何が「良い」技術かを体感することが,まず大切である.この問題を解決するために,当研究室では現場と開発者を結ぶ様々なコミュニケーションの場(医療福祉現場の方々と,研究者,学生,企業を交えたブレインストーミングの開催1)等)を行ってきたが,やはり,上記の現場性の体感においては不十分であったと反省している.今後,可能であれば現場性を考慮して,研究者が現場を訪れる研修なども企画していきたいと考えている.

(参考)
1. 近畿地域における革新的な医療福祉機器開発に関する調査研究報告書(平成22 年3月)  http://unit.aist.go.jp/kansai/innovation/report201003.pdf
2. 富田直秀.: 工学からみた整形外科 3書を捨てず,町へ出よう 科学的事実を生活に結びつける工学. 臨床整形外科, 46(4): 348-352, 2011.
3. 著者ブログ: http://tomitaken.seesaa.net/    その他
posted by トミタ ナオヒデ at 12:07| 論文調の独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月10日

自分のやりたいことが,,

  昨日,数年前に修士を修了した卒業生が研究室に顔を出してくれた.彼は,私がいつものようにふっかける無理難題を,最後にはなんとか形にしてしまう,優秀で多能で頑丈な人物だった.社会人らしい風貌も身につけて,かわいい嫁さんまで連れてやってきた彼を目の前にして,私は,そうして研究室は,いったい彼に何を与えることができたのだろうか,と自問する.
  学生の頃の私は,人に命令されるよりも自分であれこれと探して実験をするのを好んだ.指導する立場となった今も,研究の目的は学生自身が探す方が,つまり,こんな事が求められているよ,けれども,やりたいことをやれよ,と突き放されるほうが良いのだ,と決めつけている.しかしそれは,自分の専門性さえまだままならない学生たちにとっては,極限に近い重労働だ.Probrem oriented research と言うと聞こえはいいが,当の研究者たちは七転八倒の思いをして,やりたいこと,と,やらなければならないこと,を結びつけていく.うまく事が進むと,独創的で,生き生きとした研究になるのだが,どの分野の研究とも判断がつかない,悪く言えばお手製の研究論文ができあがる場合もある.今日訪問してくれた卒業生が研究室にいた頃は,ちょうど細胞培養を用いた実験系を構築し始めた頃で,今にして思えば機械系の学生には無理難題をそれぞれの学生に強いていたと思う.彼は,現在はエンジン部品の開発を行っているのだが,同僚たちに学生時代の研究内容を話すと,皆びっくりするのだという.「それでも,うちの研究室に入って良かったと思うか?」とは,少し怖くて聞けなかった.目の前の卒業生は,かわいい嫁さんと並んで,ただにこにこと笑ってこちらを見ている.
  ところで,「持続的に役に立つしくみ」つまり,事業化を,医療科学の世界でも実現させるのが,私の一つの夢だ.近年では,研究費獲得のために基礎の研究者までもが,事業化事業化,と言うが,これはそう甘いものではない.もともと,政策や計画や原理といった,研究者がお得意のトップダウンの考え方だけでは実現することは不可能だ.ボトムアップに,関わるひとりひとりがモチベーションを持ち,しかも,「自分のやりたいことがヒトのためにもなる」という処世と力量を身につけることが,まず第一の条件なのだ,,,,,,
  「で,今は,自分のやりたい仕事をしているのか?」と,この卒業生に聞くと,「今は満足しています,将来はわかりません」と言う.微妙なところだ.彼のことだから,職場では大いに認められているに違いない.しかし,ここから先に,彼が大きく躍進する時には,なにが必要なのだろう.そのときに「自分のやりたいことがヒトのためにもなる」ために,大学は何を教えておくべきなのだろうか.座学とテストの繰り返しだけではだめなのだと思う.しかし,指標を与えずに漠然とやりたいことを探させるのも,雲をつかむようなものなのかもしれない.まず,自分はいったい何ができて,何ができないのか,をしっかりと自覚させるところから始めてやらなければならないのだろう.
  計画された実験系を最初から学生に示してみせる,いわゆる「ここ掘れわんわん実験」を,私は大嫌いなのだが,「ここ掘れわんわん実験」は,たしかに,一つの確固とした方法論を学生に教え込むことができる.つまり,ある専門の範囲内で事実をしっかりと確定させていく作業を体験させることができる.第一,ここ掘れわんわん実験の構築には多大な努力と才能とが必要なのだ.私も,これを避けていてはいけないのかもしれない,と思う.おっさんのように少し広くなった卒業生の背中(と,しつこいようだが,並んだかわいい嫁さんの背中)を見送って,改めて教師の責任の重さを思う.
posted by トミタ ナオヒデ at 08:35| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月11日

「生きている時」を内包する形

Delight2     by 富田直秀 Naohide TOMITA.JPG手と脚.JPG
  素人クロッキーでも、たまに対象に没頭すると、実際には見えていない無意識の線が画面に現れる。描き写した線を名詞とすると、無意識に現れる線は動詞のように作用して勝手に語り出す.左の絵の線は、一般的な人体の線の美しさをむしろ否定しているが、まるで「生きていることに醜さなどないのだ」と主張しているようだ。もちろん,描いた私自身は全くそのようなことを意識していないが,描かれた線が勝手にそれを主張しているように,私には思える.
  右の写真は、ある障害児と私の手の写真である。動きを奪われた手と脚とは、たしかに私たちが見慣れている平均の形とは異なっている。けれども、生きている形の美と、そうして愛おしさがここに感じられる。私が感じているこの生命感は、写真の中に表されているだろうか。実際にふれて感じた者だけに伝わるものなのだろうか、、
 形はどこまでいっても単なる形、描かれた線は単なる線にすぎない。美しさは、それを見る主体の中に生じる化学現象にすぎない。客観的論理的に美術を捉えるならば,ある主体の中で美と捉えられた独りよがりが,ある集団の中で集団よがりに拡張したにすぎない。ただし、この化学現象には,生きていることに共通の普遍的な「時間」があるのかもしれない。もちろん,時間の普遍性には何の保証も無いが、そのような「時間」を信じていた方が,つまり,わたしたちが孤独ではないことを信じていた方が,生きるのに便利ではないか.
posted by トミタ ナオヒデ at 11:37| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月04日

イキモノ生物の特徴「生き物ってなに?(その2)」



イキモノの特徴「生き物ってなに?(その2)」

(7月3日のブログ「生き物ってなに?(その1)」を,まず先に読んでみてください.自分でいろいろと考えたり悩んだりしたあとに,ここを読んでみてください.)

  生き物ってなに?(その1)では,「どうして,私たちは,イキモノが「自分」を持っている,と感じるのでしょうか」,という質問で終わりました.皆さんは,どんな答えを頭に浮かべましたか?生き物ってなに?(その2)では,もっとびっくりする質問からはじめてみます.「どうしてあなたは,あなたが「自分」である,と感じるのでしょうか.」

  あなたが「自分」であることは,理由も何もなく,当然のことですよね.これこそ答えのない質問のようです.けれども,じつはこの質問には答えらしきものがあります.
  あなたは,「自分のしていることがまるで自分がしていないように感じる」とか,「自分が自分ではないように感じる」と,こんなふうに感じたことはありませんか?これは別におかしなことではなくて,誰でもが時々は感じてしまうこころの状態だそうです.

  たとえば,人は考えるしくみや言葉を記憶するしくみを進化させて文明を築きました.けれども,この考えるしくみや記憶するしくみはいつもいつも働いているわけではないですよね.眠っている時や疲れている時には,考える能力も記憶する能力もちょっと休んでしまいます.
  自分を「自分」であると感じるしくみも,考えるしくみや記憶するしくみと同じように,いつも働いているわけではないと考えられています.ですから,あなたが「自分」であることはあたりまえですが,そう感じることは,あたりまえではありません.自分を「自分」であると感じるしくみが休んでいるときには,先ほど書きましたように,「自分のしていることがまるで自分がしていないように感じる」とか,「自分が自分ではないように感じる」と,こんなふうに感じることがあります.

  「自分」とは何か,これは,まだ誰も答えることのできない人類の一番のなぞです.けれども,少なくとも人間には,自分を自分と感じることができる「しくみ」があることは確かのようです.ここから先は私の想像ですが,そのしくみを使って,私たちは生き生きとした感覚を感じたり,ほかの人や,ほかの生き物や,時にはほかのモノにまで「自分」を感じることができるのだと思います.そうして,「自分」を感じた,他人や他のイキモノや,時には他のモノに対して,私たちはまるで自分のようにそれを助けたり大切にしたりすることができるのだと思います.
  一人の人間だけ,一種類のイキモノだけ,そうしてイキモノだけでは,この地球上に生きていけないことは明らかですから,この,「他人や他のイキモノや他のモノに「自分」を感じることのできるしくみ」は(もしそれが本当にあるのならば)イキモノのもっとも大切なしくみのひとつかもしれません.


posted by トミタ ナオヒデ at 23:06| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月03日

イキモノ生物の特徴「生き物ってなに?」その1


イキモノの特徴「生き物ってなに?」(その1)

(6月16日の「イキモノの特徴」を少しだけわかりやすく書き換えてみました)

  イキモノにはいろいろなおもしろい特徴があります.とてもやわらかいのにとても強い,しかも,しばらくすると形がもとにもどります.またイキモノの体はいろいろなところがヌルヌルです.関節や消化管の中,からだの外側がヌルヌルの動物もいます.なんでヌルヌルなのか,なぜそんな体が作れるのか,まだよくわかっていません.生体材料学,再生医工学や生体摩擦が私の専門なので,いつもは,やわらかくて強くてヌルヌルのイキモノの話,そんなイキモノの体をどうやって再生させるのか,という話をするのですが,今日はもっと不思議な話,「イキモノってなに?」を考えてみます.

  「イキモノってなに?」と聞かれても,実は,まだだれも正確に答えることはできません.イキモノはそのいちばんもととなるところがまだよくわかっていないのです.「イキモノってなに?」と聞くと,ある中学生は「こころがあるのがイキモノだと思う」と答えてくれました.これはあとでも述べますようにとてもすばらしい答えなのですが,「じゃあ,こころ,ってなに?」と聞かれると,また頭を抱えてしまいますよね.わかっている言葉だけをつかって,なんとかイキモノを説明できないでしょうか?

  たとえば,私の横に1年前の私がいたとします.1年前の私も今の私も形や機能はあまり変化していません(あまり勉強も成長もしていない,ってことですね).けれども,骨や歯以外の私を作っているほとんどのモノは入れかわっています.ぱっと見ただけではわかりにくくても,長い時間をかけてみますと,イキモノはモノとまったくちがっています.イキモノの体(モノ)はどんどんいれかわっているのに,イキモノの形や機能は残っているのです.時間を越えて続いているのはモノではなくて「しくみ」です.そうして,そのしくみはたいてい,「自分を残すため」のしくみであるようです.ですから,ここではまず思い切って「イキモノとは,自分を残すしくみである」と言ってしまいましょうか,

  さて,では次に「自分を残すしくみ」のなかの,「自分ってなに」を考えてみましょう.私たちは,イキモノには「自分」があるようにどうしても感じてしまいますよね.ある種の結晶はイキモノのようにどんどん増えますし,こわれたところが自然になおってしまう材料や,人間そっくりの形をしたロボットもいます.けれども,そんな結晶や材料やロボットがイキモノか?といわれますと,ちょっと違うように思いませんか.私がそう思うのは,それらが,みな「自分」を感じたり,自分からいろいろなことをしようとする「意志」がないように見えるからです.細菌のように小さなイキモノでも,私たちはなにか生きようとする「意志」のようなものを感じてしまいますね.なぜそう感じるのでしょうか?どうして,私たちは,イキモノが「自分」を持っている,と感じるのでしょうか.

(ここまでで,一度いろいろと考えてみてくだされ.)
イキモノ生物の特徴「生き物ってなに?(その2)」 に つづく,,

posted by トミタ ナオヒデ at 16:01| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月20日

モチベーションマネージメント

  総じて,我々公的研究機関の研究者は世のため人のためと看板を掲げているが,結局のところ自分のために日々論文書きと予算の獲得に奔走している.論文で仕事が評価される現状のシステムでは,論文になりにくい試行錯誤的な作業は軽視されがちである.一方,企業は利潤を追求するが故に,リスクが小さく市場の大きなマーケットが優先され,その結果として医療費が増大し,必要とされている高リスク技術の実用化が阻まれている現実がある.
  私が携わったビタミンE混合ポリエチレンの開発に当たって,私自身は論文書きと予算の獲得に翻弄されてきた.しかし,プロジェクトメンバーの方々は「とにかく,いいモノを作りましょう」と利益を度外視して開発に当たられたり,また当時大学院生だったT君は「本当の安全性は生体反応を確かめてから」と,単独イギリスに留学して生体反応性を評価した.多くの人の利他的なモチベーションによって開発は実用化に至ることができた.
  資源のない日本が今日成り立っているのは,「質」の高い技術をたえず創り出してきたが故である.私は最近,各種精密加工,船外機などの開発や,新しい価値を生み出している芸術分野など,生活に密着して「質」を創り出してきた開発例の調査をしているが,それぞれに共通する基盤は,良いモノを育てようとするグループの共感と徹底した試行錯誤である.その土壌の上に技術やビジネスモデルの合理性が加わって初めて「質」が育っている.しかし,医療・福祉分野での開発では,利他的なモチベーションの収束場所が定まっていない.医療現場では,単なる延命や苦痛の除去は必ずしも「良い」とは限らず,何が「良い」技術か,がまず多くのプロジェクトで捉えられていない.技術者が医者の求めに応じて受動的に技術を開発するだけではなく,エンジニア自身がそれぞれの価値観に従って能動的に現場を「みる」そうして,そこにモチベーションを持って関わるための環境作りと,モチベーションマネージメントが重要であるが,残念ながら日本にその土壌はまだ無い.

  これは,私自身への反省の記でもある.私のようなわがまま人間にとっては,利他的なモチベーションは当たり前でも義務でもない.直接に多くの人と接して,「みて」,コミュニケーションを交わして,やっと利他的なモチベーションが育ってくる.しかし,だれでもがそうなのではないだろうか,,

  ここで「みる」とは,自身の価値観をも含めて能動的に対象とかかわることだ.絵を描くとよくわかる,へたくそでも歪んでいても「みる」を経た絵はどこか生き生きしている.世の中全体が,この「みる」を忘れて,上手な絵ばかりを描こうとしているのではないだろうか.たとえば,最近の臨床医の症例報告では,データばかりが並べられていて,この人は病気の原因を追究するばかりで,本当に患者を助けようとしたのだろうか?と疑問に思えてくるときがある.大きな予算を得てレベルの高い雑誌への論文を次々に発表している医療技術開発のプロジェクトをみると,この研究者たちは本当に医療現場を良くしようとしているのだろうか?と不思議に思うときがある.かく言う私自身も,同じ穴の狢だ.しっかりと「みる」ことを失って,見栄えばかりを気にしている.

  そんな時代なのだろう.しかし,医療に関してはこのままではいけない.このままでは何かが壊れる.

posted by トミタ ナオヒデ at 11:08| プロフィール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月16日

イキモノの特徴

イキモノの特徴(7月3日のブログに,わかりやすく書き換えました)

  昨日の授業で,「イキモノの特徴を一言で述べてみよ」と問うと,ある学生が「自由意志を持つモノがイキモノである」と言う.すると別の学生が,「イキモノといえども物理化学法則に従っているのだから,本来,自由意志など無いと思う」と反論した.自由意志に関わる根本的な議論である.この論議に対して,哲学者でもない私は,壇上から top down に学生たちに述べるべき言葉を持たない.ただし,1人の(哲学を専門としない)個人としては,以下のような考えを頭の中に持っている.昨日は,ややごまかして終わってしまったので,(もちろん,これは正解ではないが)私の個人的な意見をここに示しておこうと思う.

(ちなみに,授業ではこのようなややこしい話はいっさいなく,生体の材料としての特徴(やわらかくて強いゴム弾性,形がもとにもどるはなし,ぬるぬるの生体摩擦)や,医療産業の現状などの(まっとうな)講義をしますので,学生諸君はご心配なく.)



  「イキモノの特徴を1行で述べてみよ」と言われれば,私ならば「自己存続の仕組みを持った散逸構造」と表現するだろうか.散逸構造とは,エネルギーや物質の流れの中に自己組織的に現れる比較的安定な構造で,たとえば,1年前の私は,現在の私と形・機能ともにあまり変化していないが,骨などの代謝の少ない一部の組織以外は私を構成する元素のほとんどが入れ替わっている.イキモノはモノとその存在様式がまったく異なっている.イキモノで存続しているのはモノよりも,情報である.(エネルギーや物質は保存量であるが,情報は保存量ではない.このことがイキモノの解釈を難しくしている一因でもある)また,自己存続の仕組みとは,たとえば遺伝の仕組みや記憶の仕組みであったり,また自由意志であったりする.遺伝や記憶によってイキモノの情報や形が存続する,言い換えれば,生体の記憶機構によって単発的な自己組織反応が永続性を持つことは直感的にも理解されるだろう.さてしかし,自由意志も自己存続の仕組みなのだろうか.そもそも「意志」とは何であろうか.
  たとえば,意志の存在を否定してしまうと,機能という概念の成立も怪しくなる.原始人が石ころを使って狩りをすれば,石ころは武器という機能を持つことになるが,これは使う人や観察者の意志と記憶があればこそ成立する概念である.もし意志と記憶がなければ,原始人と石と獲物で構成される物質系の(物理化学法則に従った)相互作用があるにすぎない.機能ということばの概念や機能に関連する物事が存在すると認めるならば,人の意志と記憶も現に在ると認めなくてはならない.これは,たとえば木村敏の言うアクチュアリティという言葉を借りて表現すれば,石の物理化学的作用というリアリティを,人が能動的にアクチュアルに「みる」ことによって機能として捉えられる.石が武器という機能を持つことは,一見,客観的事実のように聞こえるが,実は原始人やそれを「みる」観察者の意思なくしては成立しない概念である.科学では客観的な捉え方を教えるが,その実,完全に客観的な認識は不可能であって,われわれが「みて」いる世界はリアリティとともにアクチュアリティとして捉えられている.木村敏は,たとえば離人症(自分が外部の傍観者であるかのように感じる,誰にでもある体験が反復・持続する)がアクチュアリティとしての認識の不全であると述べている.このアクチュアリティを認めるところに,まず議論の出発点がある.つまり,我々が「機能」という概念の存在を認めて議論を進めるのならば,アクチュアルな意志(意志が意識的であるか否かは別として)の存在も認めて議論を進めなければならない.「機能」という概念の存在をも認めない徹底した客観的な議論にこだわるのならば,意志の存在を認めない立場も納得できるが,それはこれから述べる内容とは議論の前提を異にしている.ここから議論したいのは,一旦意志の存在は認めた上で,その意志が「自由」であるか否かの問題である.
  さて,その「自由」を考えるときに,なぜイキモノにアクチュアリティが生じたのだろうか,と(木村敏に言わせれば,よけいな客観願望に従って)さらに進んでみなければならない.たとえば,同じ行動を繰り返すのみの物体に「自己」を感じ取ることができるだろうか.自己を規定するある情報のパターン,たとえば,ある人にそっくりの形や行動が再現されたとしても,その行動パターンがただ機械的に繰り返されるだけで,そこに「自己」を感じ取ることができるだろうか.これは,たとえば人を真似たロボットの場合はどうか,植物人間となってしまった状況をどう捉えるのか,さらには意識が保たれたまま外界とのコミュニケーションを失ってしまう封じ込め症候群はどうか,と,様々な状況において,様々な判断が考えられる.しかし,ある個人に対する思い出や思い入れを可及的に抑えて自身の正直な感覚に尋ねてみると,多様性を失って同じパターンのみが繰り返される状況で,そこに「自己」を感じ取ることは難しいと感じる.たとえば,植物人間となってしまった家族に話しかけたり手を握ったり様々なまた多様な働きかけを行っても,もはやそれは一方的な働きかけにならざるを得ないが,封じ込め状態では,コミュニケーションが寸断されているだけであって,家族から患者へ,また患者から家族への多様な働きかけは存在している.しかし,もちろん,このことと患者が「生きているか否か」の問題とはまったく別の次元の話である.「自己」を感じ取る条件には,この多様性とその多様状態を挟んで,ある類似のパターンが出現する状況が必要であるように思う.たとえば,日常の多様な行動の中に,ふとその人を思わせる「くせ」があったり,その人しか知らない記憶がある脈絡の中で思い出されたりするからこそ,その人の個性が確認されるのであって,ただひたすらその「くせ」が繰り返されたり,ただ記憶だけがある状態は,自己のないロボットを想起させる.「自己」があることを感じ取るためには,固有な情報の類似パターンだけではなく,予測不可能な多様な状況も現れていなければならない.
  このように,多様で混沌とした状態と,己に特徴的なパターンとの入れ替わりを,「自己」を感じ取る条件であるとすると,さらにそれを拡大解釈して,これが「自己」の成立に必要な条件である,と飛躍してみる.すると,類似パターンが自己組織的に現れる現象のみならず,予測不可能な多様性(またはカオス)状態が出現する現象も,「自己」の定義にとっては同等に重要なのかもしれない.いや,これらの現象をコンピュータ上にシミュレーションすることを考えると,類似パターンの出現よりも,むしろ,パターンが消滅した後に毎回異なった予測不可能な多様性が出現する仕組みの方がはるかに困難であろうから,後者こそが自己の成立にとってより「本質的」なのかもしれない.
  繰り返すが,類似パターンが消滅して予測不可能な多様性が出現する仕組みは,類似パターンを再現させる記憶機構と同じく,またはそれ以上に「自己存続」のためには重要であるのかもしれない.ここで,この多様性を生じる仕組みを「自由意志」と認識させる脳の仕組みを仮定してみる.ここでいう自由とは freeという英語の訳語としての「自由」ではない,これは日本語本来の「自らに由る」また禅に表現される自由自在(あるがまま)の意味に近いのかもしれない.つまり,何の制約も受けない状態をあらわす free ではなく,物事が自然の自己組織的な摂理に従ってあるがままに様々な多様性を表す仕組みを「自由意志」という認識に代える機構が脳にあるのだと仮定する.すると,「自己存続の仕組みを持った散逸構造」を特徴とする生命が,たとえばゲノムやタンパク質などの記憶機構とともに自由意志を,つまり予測不可能な多様性を生じさせる仕組みを,自己存続のための「形質」として獲得してきた構図が浮かび上がってくる.
  結果が原因を変えることによって生じる多様性は本当に予測不可能なのか,多様性出現に永続性があるのか.そもそも予測,永続性とはどう定義されるのか,といった数学的な関心に,私はあまり頓着していない.多様性を生じる仕組みを「自由意志」と認識させる脳の仕組みがあると仮定するのならば,予測の定義も永続性の程度も,数学的な定義云々の以前に,この脳の持つ記憶現象の性質に規定されているのだろう.数学者からは異端視されるだろうが,前述のようにヒトには完全なる客観視は不可能であり,何らかのアクチュアルな認識の上に数学の概念さえもが成り立っているのだとすると,多様性発現における予測も永続もヒトのアクチュアルな認識の範囲内であると理解すればいいのではないだろうか(数学自体が認識のバイアスを受けているか否かはコメントを避けておこう).
  しつこいようだが,イキモノの特徴を「自己存続の仕組みを持った散逸構造」と表現するならば,自由意志(多様性を生じる仕組みと仮定した)もまた,記憶現象と同様にイキモノがイキモノであるためにその進化の過程で獲得した最重要形質の一つであろうと思う.本来は,あるがまま,である「自由」に,脳が「free」という数学概念を置き換えてしまったために生じた混乱が,自由意志をめぐる論議を複雑にしている.ただし,私にはこれを「正しい」と主張する知識も,また意志もない.ただ,このように理解すると,イキモノやその主体性の不思議にかかわる私の客観願望はどこか満たされて,ほっとする.ここまでの文章は,ただ私個人の持つ「自己」という感覚を,私個人の知識の範囲で可及的客観的に表現してみただけのことで,これが正しいか正しくないか,という議論には,おそらく決着どころがない.「自己」という感覚のこのような表現に,読者が共感する部分があるか否かである.イキモノの機能を扱う仕事をしている者として,「イキモノとは何か,機能とは何か,意識とは何か」という,このとてつもない(危ない)疑問にも,しっかりと対峙して,その歴史を知り,科学的に議論をしておかなければならないのかもしれない.おぼろげながらの記憶をたどれば,これに近い思想も,また,生じた多様性を後から自由意志と感じている,と解釈できそうな心理学(脳科学?)の実験結果もあったように思う(運動野の脳波は自由意志よりも先行して現れる?Benjamin Libet(1983)).けれども,哲学や心理学や脳科学を専門としない身としては,自己満足(納得)したここまでの時点で思考を休止しておくのが賢明だろう.これ以上詳しくわかりやすく説明するのも,やれ,面倒な話でもある.しかし,専門の立場からご意見のある方は,ぜひ連絡をくだされ.

  私が,わざわざ専門外の内容にまで踏み込んで「イキモノ」を論じるひとつの目的は,次のような主張をしたいからかもしれない.

「人間には,自分を自分と感じることができる「しくみ」があり,そのしくみを使って,私たちは生き生きとした感覚を感じたり,他人や,他の生き物や,時には他のモノにまで「自分」を感じ,その対象を,助けたり大切にしたりすることができる.これも,人間(または生物)が自己保存と共生のために獲得した形質のひとつである.」

「縁」の自己流の解釈なのですが,,

posted by トミタ ナオヒデ at 10:23| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月13日

冷暖房,,

  エネルギーにかかわる意見をあれこれ述べる以前に,自身の省エネルギー感覚を確かめなければ,と,震災後には「暖房なし」を遂行してみた,が,,これから始めようとする「冷房なし」は,6月にして,すでにめげそうである,,,
  私は,未だに原発に関する自身の意見を固めていないが,この程度の暑さに耐える意志や知恵がない状況で,「反対」が選択できるのだろうか,,かなしや,我と文明のこの体たらく,,,
posted by トミタ ナオヒデ at 16:08| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

私の部屋の鍵置き場(見張り付き)

Watch It for Me    by 富田直秀 Naohide TOMITA.JPG
posted by トミタ ナオヒデ at 14:11| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月28日

京都大学

Kyoto Univ.2011,5,27    by 富田直秀 Naohide TOMITA.JPG
いろいろとあるけれども.やはり,京都と京都大学はすばらしい,,
posted by トミタ ナオヒデ at 11:56| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月12日

書を捨てず,町へ出よう (科学的事実を生活に結びつける工学)

(雑誌「臨床整形外科」46巻4号に掲載した解説[書を捨てず,町へ出よう(科学的事実を生活に結びつける工学)]から,出版社の許可を得て転載)

 京都大学工学研究科機械理工学専攻医療工学分野
 富田 直秀Naohide TOMITA

はじめに

「書を捨てよ,町へ出よう」とは寺山修司が書いた評論の題名だが,その言葉の持つ開放感に共感した人たちが,演劇や映画などの分野で幻想と現実が交錯する様々なパフォーマンスを展開したらしい.らしい,というのは,実は筆者も寺山修司のなんたるかをあまりよく知らない野次馬なのである.ただ,「工学から見た整形外科」という企画と,馬淵清資先生や藤江裕道先生の書かれた,第1回,第2回の文章を拝見して,はてさてこれだけの文章の後にいったい何が書けるのだろうか,と思案したときに頭に浮かんだのが「書を捨てよ,町へ出よう」という言葉であった.書名だけ盗んでおいて,その内容に触れぬのもあまりにいい加減なので,表題本をはじめ寺山修司の文庫本をいくつか斜め読みしてみた.すると,どの本にも近親相姦,強姦,嬰児殺し,売淫,姦通,殺人,窃盗,獣姦,放火,略奪,親殺し,,,と,あらゆる悪徳があからさまに論じられている.これは,品位ある学術誌に使うべき題名ではないのか,と諦めかけたのだが,しかし,読み進むうちに,この作者はむしろ徹底的にまじめな人なのではないだろうか,と思えてきた.第一,寺山修司は書を捨てるどころか,むしろ常人離れした読書の虫であったらしい.ではいったい彼は何を捨てようとしているのだろうか,などと迷いながら,やはりこの言葉の類似品を題名に盗用させていただくことにした.

1.生物学の台頭

 ところで,生命や人体の不思議に対峙すると,工学的なアプローチはどこか従属的な感を避けられない.たとえば,ヒトをまねたロボットも,組織形成を予見する生体シミュレーションも,また,手術などを支援するヒューマンインターフェース技術も,結局のところ,どれだけ本物のイキモノに似ているか,どれだけイキモノ機能を補助できるかで,その真実性や有用性が判断される.そうして,当然の事ながら,工学の作り出す動きや機能は生体のそれには遠く及ばない.それに比べて近代生物学の発展が提示する事実と夢の何とも壮大なことか.たとえば,2000年には,当時の米国大統領までもが「ゲノム計画は,ほとんどの病気や診断や予防,治療に革命をもたらすだろう」と述べた.ゲノム計画のかかげた夢は未だ達成にはほど遠いが,たとえば整形外科の関連する分野では関節リウマチの治療が根本的に変化したのも,大きな目で見れば近代における生物学的なものの考え方の一つの成果なのかもしれない.多能細胞を作り出すiPS技術も,病気に相関する何百もの共通SNPの発見も,もちろん,そう簡単に臨床を変えはしないが,たしかに私たちに大きな夢を抱かせるのである.工学技術が生体機能のほんの一部を模倣したり補助するのに懸命になっている一方で,生物学的なアプローチは,ややもすると,生命機能の操縦桿にさえ,あわや手が届きそうな勢いである.

2.変化した整形外科医の基礎研究

 筆者は,工学研究科を修了した後に医学部を再受験して整形外科医となった.私が奈良県立医大整形外科で研修をさせていただいていたころ,市中病院で働く先輩たちが夜になると大学に集まってきては,臨床からヒントを得た治療アイデアを実現させようと,こつこつと実験にいそしんでいた.一日の臨床が終わって,やれやれ疲れた,と帰宅に向かう脚を大学の方角に向かせるそのモチベーションの高さには,今でも本当に頭が下がる思いである.しかも,昼間は臨床のために働かせていた脳を,夕方には研究用の脳に切り換えなければならない.年寄り研修医であった筆者には,その臨床脳と研究脳との切り替えがなかなかできなかった.それが,筆者が後に臨床を離れて研究を中心とする生活に入った一つの理由であったかもしれない.膨大な多様性の中から安全で効果的な治療を選択する臨床的な脳の活動と,同じく膨大な多様性に不変の原理を当てはめようとする研究的な脳の活動は,一見似ているようであって,まったく異なる方向性を有している.臨床では経験を統一的に捉える勘や試行錯誤が必要だが,研究脳ではものごとの要素化と客観化が必要となる.臨床における様々な観察結果を客観化するか,もしくは臨床を模擬するモデルを確立してそこから客観的なデータを得なければ,どのような経験も科学的には事実とは認められない.もちろん,客観的なデータがなくとも臨床は遂行できるが,臨床的な問題を科学的に,つまりエビデンスを確認しながら解決するためには,客観化されたデータがどうしても必要なのである.
 この実験や臨床から客観化データを得る方法は,生物学の進歩によってずいぶんと様変わりしてきている.サイトカインや遺伝子解析によって,一見,生命機能の客観化データが簡便に得られるようになってきた.たとえば,○○によって□□細胞の△△への分化マーカーが有意に上昇する,などと記述されると,あたかも○○が△△の機能不全を回復させる証拠のように聞こえてしまう.これらのデータは,先に述べた臨床的な脳の活動と研究的な脳の活動とを,一見,無理なく会合させてしまうのである.臨床試験や実験を慎重に行いさえすればこれらの生化学データは紛れもない事実を提示しており,また,これらのデータの臨床における意味を想像させる論文をいくつか引用することによって,研究者は科学的信頼性の高い論文を創り出すことができる.

3.科学的事実から生まれる幻想

 だがしかし,近代生物学はそれだけで整形外科臨床現場の問題を本質的に解決するのだろうか?誤解を恐れず言うならば,「絵に描いた餅」ならぬ「論文に暗示された夢」に翻弄されて,現代の基礎外科学はどこか幻想化していないだろうか?題名とした「書を捨てず,町へ出よう」の,「書」とは科学的事実でもよく,また,「町」とは現実的な問題解決でもよい.たとえば,アインシュタインの相対性理論によって予測される時空間の歪みは,普段の我々の生活に直接には関係せずにタイムマシンなどの様々な夢想を暗示していた.しかしその後,工学の発展は人工衛星信号から自身の位置を計測するカーナビゲーションシステムを生み,その位置のずれの問題を解決するのに相対性理論を生かしている.相対性理論という科学的事実を我々の日常生活につなげたのは工学である.
 またたとえば,「書」とは生体情報であって,「町」とは生体環境であってもよい.生命起源を情報の側面から解釈するならば,そもそもゲノムが生命の設計図であるという考えは全くの間違いである.イキモノは散逸構造,つまり常に物質が変化しながらその形態と機能とを維持しているしくみを有している.大部分の構成物質が変化せず固定されているモノと,大部分の構成物質が常に変化しながら構造と機能を維持しているイキモノとは,その存在様式がまったく異なるのである.物質や情報の流れの中に,結果が原因を変えるしくみがあると無数の多様性が生じる事がわかっている.その多様性の中から,自己存在に有利なしくみが淘汰によって選別され,また同じく淘汰によって,そのしくみが記録・再現可能な現象に到達すると,生物のような相同で多様な散逸構造が安定化する.淘汰の生じ得る空間の範囲内に安定した生命機構が出現し得るほどの多様性の集積が継続することは,確かに希有ではあるが,しかし宇宙の大きさを考えれば不可能ではない.ここで重要なことは,ゲノムのような生体情報は,複雑な生体の構造を逐一記録した設計図ではないことである.モノのように固定された構造や機能の記録ではなく,環境との相互作用で自然に作られる自己組織的構成の安定化情報が,生体情報の正体である.
 われわれが見ている構造や機能の裏には多様な構造や機能が重複して存在している.これは何も生命だけの特殊な状況ではなく現象の見方の問題であって,たとえば,常温の水の中にも短時間小範囲においては水蒸気の種も氷の種も存在する(これをエンブリオという)が,1気圧常温という環境下においては液体である水の状態がマクロにおいて具現化している,と捉えることができる.生体のように,つねに物質が変化して機能と構造を維持している(いわゆる散逸構造を有している)物体では,さらに多数の多様な種の状態が重複して存在していて,環境との相互作用によっては多数の多様な構造が自己組織的に具現化し得るのである.ある一連の自己組織化が安定化するための比較的小さな情報がゲノム等の生態情報であって,それは,固定された構造をいちいち書き取って記録してある設計図とはまったく異なっている.そうして,一つの生体情報は,マクロに具現化されている機能・構造のみならず,その時には具現化されていない複数の構造・機能にも関連している.たとえば,骨形成因子と名付けられた生体情報が,その発現する環境によっては老化や生命の基礎的な現象にも関連していることはよく知られている.
 このように生命活動を情報の流れとして捉えると,ある情報がある構造や機能の発現(安定化)と深くかかわっているからといって,その情報のみで機能を計測できると考えたり,また,その情報を操作することによって生命の構造や機能を操れると感じるのは一種の幻想である.たとえば,生体のカスケードにピンポイントに作用する治療は効果を先鋭化させるが,だからといってその治療だけで病気の持つ悪循環が正常に復帰すると考えるのは幻想である.生体を病気にいたらしめる悪循環のもう一方の要因は生体内外の環境であって,身体を正常な流れに回帰させるための生体環境を提供することこそが外科治療の本質ではないだろうか.生体内外の環境を考えずに,医師が「分子機械」的な思想に走り,設計図や部品のようにゲノムやタンパク質に対峙するのはとても危険な傾向であろうと,筆者は考えている.その意味において,特に整形外科を対象に考えるならば,「書を捨てず,町へ出よう」の「書」とは生体情報の操作,つまりゲノムや生体活性物質への働きかけによる治療であって,「町」とは環境の操作,つまり外科治療や装具・運動治療であってもよい.なにも生体情報の操作が悪いと言っているのではない.たとえば,変形性関節症の発症に,変形→力学バランスの破綻→潤滑機能破綻→組織破壊→変形という悪循環があるのならば,最も重要かつ確実な治療技術要素は変形矯正であろう.その悪循環を断ち切った上で「書を捨てず」に,薬物治療や軟骨再生等の生体情報の操作がその効果をより確かなものにするのだろう.

4.「質」を育てる工学
 工学はproblem oriented な,つまり,問題を解決するための定量的,客観的な評価方法や治療手技を提供する.ここまで概念的な話が続いたので,この章では臨床整形外科学に関連するであろうと思われる工学の専門用語を,筆者が思いつくままに列挙する. あえて参考文献などを記述しないが,インターネット等を使って,キーワードから目的とする技術ソースに行き着く事ができるであろうと思う.

(中略)

 近代日本の工業は,人に関わる様々な技術を発展させてきた.たとえば,肌に優しい繊維や暖かな繊維,使いやすい電化製品,乗り心地の良い自動車,健康を守る電子機器,人と機械をつなぐ情報・通信技術,といったように,おおかたすべての産業が人の生活に関わる技術を成熟させる時代になってきた.それにしたがって,工学の特に設計論の分野においては,従来の「作る」工学から「育てる」工学への変換がささやかれている.たとえば,ロボット工学では,命令された動作を自動的にくり返すロボットから,環境との相互作用の中で適正な動作を育てていく型のロボットが活躍しだしている.坂や階段などの多様な環境の中でも2足歩行ができるロボットや自動操縦ヘリコプター,自ら概念を創出するロボット,等がその例である.また,建築や地域興しの分野においても,景観や産業が作られるのではなく住民との関係性の中で育てられる,としてグループ・ダイナミクスが盛んに研究されている.
 これらの動きは,時代の要求が効率や実利などの「実」から,人の価値観を大切にした「質」に移り変わってきていることに関係している.そうして,生活の「質」とは作られるのではなく育てられる対象であることが,工学としても広く認識され始めている.

5.結論(幻想から生活の質へ)

 さて,「書を捨てよ,町へ出よう」の作者:寺山修司は,「家出のすすめ」の母恋春歌調の章で告白しているように,母子家庭の一人っ子に育ち,12,3才の頃に母に捨てられた.誰も掃除をしない散らかった部屋に一人暮らしをしていた寺山修司を,福祉事務所の人が親類のもとに送った.その夜汽車の中で,少年:寺山修司は,母が畳の下に隠していた春本を,ひたすらひとり読みした.それが,彼の膨大な読書(おそろしい「わが読書」)の始まりであったという.寺山が,「書を捨てよ,町へ出よう」と書いたその「書」も「町」も,私が現代の基礎外科学に感じている閉塞感とは比べモノにならない,命がけの価値観の転換を表現している.
 だがしかし,書を捨てて町に出ようとした寺山が求めたのは,春本なる書に操られた性の「幻想」から「生活の質」への解放ではなかったか.寺山は,読書と作詞の合間の放蕩生活で,悪徳に生きざるを得なかった人たちと暖かな心の交流を交わしている.また彼の母は,家出の後に遠く九州の炭坑町で酌婦をしながら,月に一度の愛情のこもった手紙を寺山修司に送り続けるのである.何が幻想で何が生活の質であるのかは,実のところ混沌としているが,しかし,寺山修司は決して書を捨ててはいない.彼がもがくように振り捨てようとしたのは書にまつわる「幻想」であったのだろう.そうして,むしろ書を礎として「生活の質」を見いだしていったのではないだろうか.
 近代の基礎外科学においても,ゲノムや生体活性物質などの生体情報の操作で表される「書」を捨てる必要はまったくない.ただそういった科学的事実から生まれ,現代の臨床医学を翻弄している「幻想」こそが捨てられるべきであろう.「町」に出て,生体内外の環境の保全を考える外科本来の治療を基礎とした上で,科学的事実を書いた「書」を開いてみるのが外科学の本道ではないだろうか.つまり,基礎科学をただの「幻想」に終わらせず,治療に生かして「生活の質」を育てることが,今の基礎外科学には求められているのではないだろうか.基礎科学の提示する科学的事実は,必ずしも我々の実生活における事実に結びついているわけではない.工学は華やかではないけれども,科学的事実を医療や生活に生かす多様な技術を堅実に創り続けている.
 寺山修司著「書を捨てよ,町へ出よう」の最後には,歌の文句を口ずさみながらにっこり笑って七人の敵に立ち向かっていくような,そんな歌謡曲人間こそが時代の変革に参与する強い人間であると述べられている.例えば,当時,西鉄ライオンズの中西が口ずさんだ「姿三四郎」の文句はこうであったという.

花と咲くより踏まれて生きる
草の心が
僕は好き
posted by トミタ ナオヒデ at 14:12| 著作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月11日

言葉や数字を用いた表現の,,

Daughterr of ONI      by 富田直秀 Naohide TOMITA.JPGHow Can I     by 富田直秀 Naohide TOMITA.JPGTon Ton      by 富田直秀 Naohide TOMITA.JPG

研究者であってつくづく思うが,,文字や数字を用いた表現のいかに不自由なことか,,
posted by トミタ ナオヒデ at 19:54| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月30日

良循環の兆しを,今

   「良循環の兆しを,今」

                              富田 直秀

 この3,4週の間に,身内の死や震災や子の受験失敗などが,あわただしく私の内外を通り過ぎた.苦しみは身を削り心を裂く,,それでも,苦は必ずしも悪ではなく.また,楽は必ずしも良ではないのだ,とそう思う.たとえば,悼む思いや心配は愛情でもあるし,逆に麻薬は人に楽を与え悪を生むではないか.苦そのものが悪なのではなく,苦の悪循環,つまり絶望こそが私たちの対峙すべき悪であろうと思う.
 かつて私が整形外科医であったころ,傷害の原因が人災(ex.労災や交通事故)であった場合に,その苦痛が何十倍にも増大してしまう例を多く経験した.また,時として安易なサポートがかえって社会復帰を妨げて,誰よりも本人自身が苦しむ場合がある.それは長く辛い負の悪循環である.今思い返せば,無意識に心に根付いてしまう人や社会とのかい離こそが,この悪循環の兆候ではなかったろうか.いわゆる,罪を憎んで人を憎まず,ならず,罪よりも人や社会を恨んでしまったところに悪循環のきっかけはなかっただろうか.
 「循環」とは,悪循環も良循環も,結果が原因を変えるところに生じる.先の人災の例では,不信が苦痛を増大させ,その苦痛がさらに不信を深くする悪循環があったのだろうと思う.しかし一方で、「循環」とは生命の特徴の一つである多様性を成立させる第一の条件でもある.結果が原因を変えるしくみが多様性を生み,その多様性の中から淘汰によって選ばれた安定なしくみがイキモノであるとするならば,「循環」は生命の源でもある.では,生命を育む良循環と生命を危うくする悪循環とを,私たちはどのようにして見分けたらいいのだろうか.大波小波とくり返す苦と楽とのうねりの中で,私たちは時間の物差しを片手に,いったい何が良循環なのか何が悪循環なのかと右往左往している.人の対立は破壊を生むが,一方では対立が社会の活性の源となっている場合がある.病の痛みの中で死にゆく人には麻薬処方も良であろう.今回の大震災は膨大な苦を生み出しているが,しかし,長い歴史の中で私たちはこれを逆に活力として生かしていかなければならない.
 しかし,悪循環を良循環に変えることなどできるのだろうか.人や社会がいったん悪循環に陥ると,自力のみでは制御が難しい場合が多い.病気や戦争,また流行などがいったん悪循環に陥ると,体力や資源や人気が枯渇するまで循環しがちである.また,結果の乏しさが動機を蝕み,その動機の乏しさが結果を悪くさせる負の循環が生じると,その重い失意の底から抜け出すのもやはり自力では容易ではない.循環が極端な方向性を持ってしまう以前の兆し,つまり悪循環の兆候を見分けるところに,私たちの自律と自尊の要があるのではないだろうか.
 今回の震災や原発事故には人災の側面がある.けれども,人や社会への恨みによってこの膨大な苦しみが悪循環に陥ってしまうことだけはなんとか避けなければならない.人災を否定しようとするのではない.人災によって生じてしまう悪循環を阻止するためには,モノだけではなくコミュニケーションの寸断を一日も早く回復させなければならないのではないだろうか.たとえば,科学的な議論では,リスクを想定し,その想定に対する対処としてリスクマネージメントの骨格が形成される.発生頻度が極端に低く予想が困難な事象には「想定外」という名称が与えられ,リスクにかかわるコミュニケーションにおいては,この想定外を不安という感情で捉えるか,大丈夫という心構えで捉えるかが,反対派と推進派の間のおおよその亀裂であった.今回の震災では,まず想定やその対処の妥当性が科学的に再検討されるべきであろう.そうして,より重要な事は,「想定外」を巡る議論を決裂させない事であろうと思う.本来,大丈夫という心構えも心配という感情も科学的に説明され得る対象ではない.推進派がそれを科学の言葉で説明しようとしていたとすると,そこにまず推進の大きな誤解がある.そうして,心配という感情も同様に科学の言葉で表す事ができず,先の想定やその対処の科学的妥当性の議論と混同するならば,それも大きな誤解である.科学的な議論は文字を用いて行う事はできても,心構えや感情にかかわる議論は,直接に顔を会わせてお互いの価値観を尊重する環境でなければ大きな亀裂が生じてしまう.価値観を含む議論は文字によって分断され,悪循環を生むのみである.
どうだろうか,たとえば,原発事故現場で必死の活動を行っている人たちの姿を見て,そこにエールを送る,といった行動は共通の価値観の土壌を形成させないだろうか.こういった,良循環の兆しを今のうちにしっかりと育てておかなければ,将来に社会というものの成立を根本から揺るがす悪循環を生んでしまうのではないだろうか.それは国策としてトップダウンに操作したり命令するのではなく,各個人の動機に立脚した自然な行為でなければ良循環とはならない.社会からかい離して人は生きてゆけず,また,人からかい離した社会も存続が難しいことを考えると,いま,個人と社会との関係の健全性が,私たち一人一人と日本という国に問いかけられているのだと思う.その健全性の上に立ってはじめて,いわゆる「想定外」の是非を議論し得る土壌ができるのだと思う.
 くり返すが,苦しみ自体は必ずしも悪ではない.苦の悪循環,つまり絶望こそが私たちの対峙すべき悪であろう.苦楽や目先の価値観に翻弄されず,過ぎゆく時間の流れの中にたたずんでみると,,被災地を照らす暖かな陽の光やボランティアの笑顔は,せめてもの良循環の兆しかもしれない.少しずつ回復している流通や社会活動も良循環の兆しだろう.震災を経て,自己主張や利便性のみを目的にした科学技術の発展は,むしろ悪循環の兆しなのだ,と改めて思う.
 そうして,どのような苦の中でも,また価値観を異にする議論においても,まず,ほがらかであることは,これは,まちがいなく良循環の兆しである.
posted by トミタ ナオヒデ at 14:55| 論文調の独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月17日

@Professor’s hobby, Naohide TOMITA

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posted by トミタ ナオヒデ at 20:19| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月11日

医療・福祉技術は,ARTに行き着く?

 医療・福祉は,結局ARTに行き着くのではないか,と日頃感じている.それは,この分野で本当に現場を支えている人たちは,実利を追求するわけでもなく,また「世のため人のため」とも言わず,自分の人生を一つの芸術作品のようにして生活しているからだ.
 一方で医療・福祉技術の開発はとても大きな「無駄」を内蔵している.市場原理にしたがって人に関わる技術が開発されると,リスクが低く市場の大きな技術ばかりが優先して事業化される.個々の技術は役に立っているように見えても,本当に必要とされる技術が角に押しやられて,全体としては大きな無駄を呼んでいる.要するに,実利以外の動機(モチベーション)がどうしても必要なのだ.定まった宗教を持たない日本社会において,我々がその動機を育てるには,やはりARTが必要なのだろう.
posted by トミタ ナオヒデ at 12:21| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月25日

「動1」

動1 調整小,富田直秀.JPG
posted by トミタ ナオヒデ at 11:08| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月21日

「絵」,「素」

素,調整小,富田直秀.JPG絵,調整小,富田直秀.JPG
posted by トミタ ナオヒデ at 21:16| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月07日

私の本姓

 最近になって,なぜか思い出す.ゴトン,とゴミ箱に捨てたアイスクリームの音が今も耳に残っている.私は工学研究科の修士を出てから佐賀医科大学に再入学した.それまで参加していた小児科ボランティア(むらさき村,という名前だった.腎臓病などで長期に入院している子供たちに勉強を教える学生ボランティアで,会を指導する人たちは役所などとかけあって院内学級の立ち上げを主張していたけれども,私はそういった活動が嫌いで,ひたすら子供たちと遊んでいた)での子供たちとの出会いが忘れられず,佐賀医大の小児科のプレールームにも長期入院児に勉強を教える学生ボランティア(すずめの学校:よく,麻雀教室ですか?と誤解された)を立ち上げた.私を知る人ぞ知る,私の全くの計画性のなさに,結局のところ同級生や後輩たちに頼りきった活動だったのだが,それでも,まだ院内学級のなかった当時の入院児たちには何らかの貢献ができたのではないかと思う.それは良かった,,けれども,私はやはり自分のエゴからは逃れられなかった.
 当時,4,5才頃の男の子だったろうか,半乾きの鼻水がいつも顔にへばりついていた人なつっこい子で,これ以上はないと思われるような親愛の笑顔で私たちにアイスクリームを配ってくれた.お母さんが用意してくれたのだろう.きちんとビニールに包まれたアイスクリームで,それをもらった私の同級生はおいしそうにそれを食べたのだが,,私はそのアイスクリームを食べることができずに,,あとで,ゴミ箱に捨てた.私たちボランティアには子供たちの病名が知らされていなかったので,もしや,と疑心を持ったのだ.
 ゴトン,とゴミ箱に落ちたアイスクリームの音は,今も私の耳の奥に残っている.結局のところ,これが私の本姓なのだろうと思う.自分のエゴからは一生離れることはない.
posted by トミタ ナオヒデ at 21:16| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月01日

円座の学問

いつも思うのだが.皆が教師を向いて前向きに座って学ぶような内容は既にインターネット上に溢れているのではないか.理科系科目でも,そろそろ円座になって共に学ぶゼミ形式の授業が必要なのではないか.
posted by トミタ ナオヒデ at 16:18| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月26日

絵を買う

101125,大丸日本画作品展,Class 128825507820101117daimaru-1.jpg 京都芸大の小池先生が京都芸大日本画科の若い画家たちと一緒に,大丸で日本画作品展を開いている(日本画をつなぐ 130th Series 日本画作品展 CLASS)
私は,未だ絵を買った経験はほとんど無いのだが,まだ修士課程の若い画家(上坂秀明君)の絵(帰舟)を衝動買いした(上記の作品展案内の写真の中で制作室の背景に移っている絵です).教員と学生たちの絵との間には,確かに大きな違いがあるように思うのだけれども,この若い人の場合は,その違いが新鮮な才能に,私の目には映ったのだ.素人の評なので当てにはならないが,若い人たちの絵に込められた物語はあまりにストレートで,教員たちのように,その物語の中で遊んだ時間の深さがないように思える.それは,購入した若い画家の絵もそうなのだが,この人の場合はどこかあきらめきった諦念のようなものが作意を隠していて,そこに私自身の物語(死生観)の落ち着く場所があるように感じた.これがこの画家の才能なのか,私の思い込みなのかは判断がつかない.
 「この作品を買ってしまっても良いだろうか?」と息子ほどの年齢の作者に尋ねたときに,私は躊躇を期待していた.作者の強い思い入れがあり,また未完成なところがある作品だと感じていたからだ.絵を売る,つまり作品を商品化してしまうタイミングというものが,素人の私には理解できない.特にこの作品のように,生身を切ったような作品を商品化してしまうこと,絵と作者とを引き離してしまうことの残酷性に,買った方の私だけが心を痛めている.いやしかし,この作者が将来有名になれば値が上がるかもしれない,とか,直接に買えばもっと安かっただろうに,などと勘定高く考える自分はこの残酷性をどこか楽しんでいるのかもしれない.作品を売り買いする,ということは,作品を売って生活をする,ということは,消えゆく時間を切り売りする芸術という残酷性に,買う側も売る側も不感症になっていくことなのだろうか.

 クレジットカードを大丸の店員に手渡すと,店員は,若い方が初めて絵を売るのだから嬉しいでしょうねえ,などと笑顔で言い,さらに,作者を個人的にご存じなのですか?と,少し意味ありげに私に尋ねた.この作品が本当に気に入られたのか,つまり,この学生が商品価値を生み出す有望な作者なのかを値踏みしているのだろう.この絵を中心に,くるくると空回りしている私の妄想やら感傷をよそに,世の中は(私の言うところの,残酷な)微笑みをたたえながら力強く息づいている.
posted by トミタ ナオヒデ at 10:35| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月17日

たまり場,その2

 前回の「たまり場」の話題のスポーツバージョンです.京大ホッケー部のOB会誌への寄稿文を転載します.


「たまり場」

   部長 富田 直秀
  (工学研究科医療工学分野)


 若者の「たまり場」が少なくなってきているように思います.ネット上にはそれらしきサイトが存在するのですが,直接に会って無駄話をしたり,目的のない時間を共有したりする場が少なくなってきているように思います.私たちが若者の時代にはクラブの部室がそのようなたまり場だったのですが,今はどうでしょうか?
 ヒトの活動には,たいてい「実」と「質」があると思います.前者では,たとえば,勝利や功利といった目的があって,モノやエネルギーや力をその達成のために効率的に利用できるか否かが鍵となります.つまり,なにが得で何が損であるかが的確に判断できる能力が必要とされます.一方において,我々の生活の「質」を支えているのは,むしろそういった得失を除外した考え方である場合が多いのではないでしょうか.たとえば,前述のたまり場で交わすコミュニケーションは一見無駄のように思えますが,そこで共有した時間はチームワークの形成に深く関係しています.一人一人は自分のために行動しているのに,それが自然に他人のためにもなっているような関係性が,このたまり場では育っていたように思います.
 「実」を第一とするか「質」を第一とするかは主義主張よって大きく異なりますが,実際は「実」と「質」はどちらも欠くことのできない生活の要であるのだと思います.勝利のために切磋琢磨する合間には,たまり場で思う存分に無駄話を交わしてみて下さい.スポーツの第一線を離れた年寄りの目から見ますと,勝利のための手段としてコミュニケーションがあるのではなく,コミュニケーション自体が目的であると捉えるところに,実と質とを備えた本当の勝利があるように感じられます.
posted by トミタ ナオヒデ at 16:28| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月16日

たまり場と「質」の育成

 なかなかブログを書くことができない.文字を通じたコミュニケーションの重さが,私の問題点の一つだ.しかし一方では,本当の「質」とは,文字を介さずに直接に集う「たまり場」的な環境の中から育つと確信している.創造性セミナー(http://www.keikikai.jp/salon/croquis.pdf)も,やはり直接に見て言葉を介さずに表現をし合う「たまり場」の一つだと思っている.

 12月に九州大学で行う集中講義の中日(12月3日)に行う特別講演の要旨を以下に転載する.研究においても,私の目的はやはり「たまり場」の形成なのだが,理解していただけるだろうか,,


講演名:「ヒトに関わる研究が役に立つための二つの視点」
 
 医療・ウェルネス産業は日本の次の成熟産業として期待されている.しかし,日本は世界をリードする高い医工学の基礎技術を有しながら,特に治療分野における実用化は欧米に大きく後れをとってきた.様々な理由を挙げることができるが,ヒトにかかわる技術の「目利き」が十分に行われていないことも,その根本的な理由の一つである.
 ヒトに関わる研究が「事業化」つまり,技術が持続的に役に立つためのシステムを獲得するためには,「実」(鳥の目)と「質」(虫の目)の双方の視点が必要であると言われている.前者の視点から考えると実用化による「功利」が「リスク」を上回っていなければならない.客観的大局的に事業化を考えると,個人の価値観をも量で表し(経済社会評価),その得失が判断される場面も必要となる.講演の前半では「どれだけヒトの役にたつのか」を定量的に評価する様々な手法(Visual analog scale, Standard gamble, Time trade-off)を実際に体験していただく.
 しかし一方において,ヒトを対象とした技術の「質」を支えているのは,得失を超えた「利他意識」である場合が多い.日本の産業の底辺を支えてきた利他的な技術への取り組みが,いま研究現場から急速に失われつつあることが科学・技術の根本問題であると言っても過言ではない.講演の後半では,前半に述べた事業化に伴う「リスク」を例として,その分類とリスクへの対応にあらわされる日本の特徴的な文化,そうして,リスクコミュニケーションに関する内外の動きに関して言及し,ヒトに関わる研究が実際に役に立つために考慮しなければならない実と質の問題を様々な角度から討議してみたい.

posted by トミタ ナオヒデ at 10:41| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月09日

クロッキー

 短時間で作画を行うクロッキーの会を立ち上げてみようと思っている。
 絵の練習をしようとしているのではない。創造を、要素の統合によって意味を生じされる動きと捉えるならば、多くの知識人たちが要素を論理的に組み立てることばかりにとらわれていて、要素が自ずから統合される本来の創造性(創発)を忘れているように思うからだ。作画は、様々な要素が自ら統合され、実体が記号化されて意味が創造される、最もわかりやすい記号過程でもある。
 以前は、要素の自己組織的統合は自明だった。例えば一つの事実を突き詰めることによって、そこから自然に様々な技術が生じてきた。これは、画家が線や色に集中してもやがて統合的な絵となる事と同じだ。以前は「遊ぶ」ことが当然だった。けれども現代では、要素を論理的に組み立てる科学手法が発達したためか、遊びが枯渇しているためか、要素が要素のまま留まってしまって、本当の創造にまで行き着かない。新技術も、コンピュータ上に描かれた絵も、刺激的だが、どこか自然の生気を欠いてしまっている場合が多い。
 欲を言うならば,クロッキーのモデルさんは裸体よりも,たとえば赤ん坊を抱いた母親(母子像)などのほうが適切なのかもしれない。裸体はその線の厳しさに翻弄されてしまい、写真を撮るような機械的な模倣に終わってしまって、実体と描く主体との間のコミュニケーションにまでなかなか行き着かない。ポーズが何らかの感情を呼び起こさなければ、そもそも創造が始まらない。母子像ならば、おそらく自然な形に対して誰もがそれぞれの感情を呼び起こすのだろう。どこかに、モデルとなってくれる母子モデルはいないだろうか、、


外(そと) 調整小 富田直秀.JPG豹、調整小トリミング 富田直秀 .JPG昼,調整小3 富田直秀.JPG
posted by トミタ ナオヒデ at 20:31| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

役に立つ、とは

「役に立つ」とは何か,,を問う質問集として「ふぞろいの技術」という本を書き出してもう何年にもなる.ほとんど内容はできあがっているのだが,ここに来て作業が止まってしまった.鳥の目のページでは,技術が持続的に役に立つためのしくみ:事業化をとりあげて,その動機となる功利とリスクの定量化やその問題点を質問形式で議論する.虫の目のページでは,技術の「質」をとりあげていて,結局のところ(いつも主張しているように)コミュニケーションが手段ではなく目的であるところに最良の質が生まれる,その事実を述べようとしている.
さてしかし私自身はどうだろうか,とふり返ってみて,筆が止まってしまった.たとえば,ボランティア活動をすると,私が,自分を犠牲にしてまで人を助けようとはしていない,ということを思い知らされる.また開発研究においても,こつこつと「質」を作り上げる最後の作業では,結局のところ人に頼ってしまう.おまえは本当に人の役に立ちたいと思っているのか,と問われると,私はただ人の役に立ちたいと思っている人たちと共にいたいだけなのかもしれない.
 学生たちにはこう言っている.「諸君のやりたいことと,社会が諸君に求める役に立つことを一致させるのが,処世なのだ」と.しかし,それは結局のところ私の言い訳なのだろう.
posted by トミタ ナオヒデ at 20:18| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月04日

ホッケー部、部誌原稿

ブログに手が回らないため、京大ホッケー部部誌に書いた原稿を転載いたしまする。申し訳ない。関西リーグ1部で活躍していた京大ホッケー部は、今年2部に転落してしまいました。残念!!


       「得」

          部長 富田 直秀
            (工学研究科医療工学分野)

 私は遠距離通勤者ですので,今でも週の半分は研究室に寝袋で寝泊まりをしています.たいへんでしょう,と,よく言われるのですが,本人は実に気軽なもので,特に早朝のジョギングは私の日々の生活に大きな功利を与えてくれます.功利とは,何がどれだけ「得」であるかを基準に行動決定を行う功利主義者(utilitarian)が好んで使う言葉で,健康,幸福感,大学ブランドや人の命にまでその平均的な「得」の度合いが定量的に設定されます.早起きは三文の得,とはまさにこの功利主義的な表現なのかもしれません.
 さて,早朝の農学部グラウンドをてくてく走りながら大文字山や周りの木々を眺めると,無数の鳥の声が京都の広い空にネットワークを形成しているのを聞き取ることができます.自然に囲まれた大学は無数にありますが,都会的な自由と質の良い情報,そうして情緒ある安全な街に囲まれた京大は,世界でも有数のすばらしい環境の中に在るのだと思います.
 京大にストレスがないわけでは決してありません.いや,むしろその自由の代償として京大生諸君は一般大学生よりも大きなストレスの中にいるのかもしれません.けれども,京大に学び,この農学部グラウンドに共にプレーをする仲間がいて,応援する友人やOBや監督、コーチがいることの功利はまさに「有り難い」ほどなのだと思います.もともと,人の「功利」とはエネルギーや運動量のように保存されず(つまり,誰かが得をした分だけ誰かが損をする,という関係ではなく),常に相対的にしか判断することができません.おそらく,就職などで京都を離れてみて初めて,京大生やホッケー部員であったことの幸福に気づくのだと思います.勝つことは,,もちろん大切な礎ですが,いったい何が本当の功利なのか,と考えてみますと,共通の目的を持ってこの環境の中に精一杯の生活を送ること,それ自体がとてつもなく大きな「得」であるのだと思います.
 要するにこの文章では,「二部転落残念,しかし,落胆するな」と言いたいだけなのですが,格好をつけてこのような回りくどい表現になってしまいました.諸君が頑張り,私たちが(心の中だけですが)その応援をすることによって,だれもが得をしているのだと思います.
posted by トミタ ナオヒデ at 01:32| 喫茶室(創作、笑い話、その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月17日

裸体クロッキー

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 今年の初めから(もう二十数年ぶりになるだろうか)裸体クロッキー会に参加している。このことを学生に言うと、「美人の人のなら見てみたいですね」などと笑う。違うのだ、たとえば、でっぷりと突き出たおなかや、皺や、不対称な身体の動きの美しさが、裸体クロッキーをしてみるとよくわかる。いわゆる、美人、とは平均値のようなもので、美のほんの一側面でしかない。
 生意気で高慢な意見だが、クロッキーは私のような元来の下手くそこそ良いと思う。筆を制御できずに、しかしそれを気にせずに何枚も何枚も下手くそに描き散らす。すると、描き散らした駄作の山の中に、とても自分で描いたとは思えないような生き生きとした形や筆の勢いが(厳とした「モノ」として)残されていることがある。それが、なんとも不思議な喜びなのだ。
 日本画家の中尾美園さんに言わせると、そんな時は「対象にすっぽり入り込んでいる」のだそうだ。ああ、この感覚は、剣道や研究の心持ちにも似ている。何と自分はダメ人間なのだろうか、と頭を抱える日常だが、それにもめげずに動き続けているとに、まるで自分ではないようなところから思わぬ技やアイデアが生まれ出ることがある。平均の私は何にしても「美人」ではないが、醜いながらもなんとか没頭して動き続けていると、何かがひょんと生まれる。私だけではない。イキモノ、とはみなそうなのだろう。
posted by トミタ ナオヒデ at 17:13| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月26日

コミュニケーションは手段ではなく目的

コミュニケーションの重要性を主張するコメントが続いたけれども、大切なことは、「コミュニケーションは手段ではなく目的である」事だと思う。

医療にかかわらず、たとえば、科学における自然とのコミュニケーションは手段ではなく目的であるし、美術における対象とのコミュニケーションは手段ではなく目的であるし、商売においても客とのコミュニケーションは手段ではなく目的であるところに活路があると思う。政治、文学、音楽、スポーツ、性の問題に至るまで、すべてそうだろう、、

「実質」とはなにか、、いつか時間のあるときにまた論議してみようと思う。
posted by トミタ ナオヒデ at 07:48| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月25日

医療福祉機器開発

とんでもなく忙しい日々が続いて、なかなか書き込みができない、、
委員長を務めさせていただいた、経産省の医療福祉機器開発に関する調査研究の「結び」に書いた文を転記します。

 医療・福祉技術の開発では、言葉や数字に表されない多様な知識(暗黙知)を考慮した職人的な作業が必須ですが、研究分野の細分化によって研究者と現場との結びつきが希薄となった現在では、なかなか技術シーズが現場に応用されにくい問題があります。またたとえば、誰でもが持っている(つまり,市場が大きな)問題を,簡便に(リスクが少なく)診断・治療できる技術は精力的に開発されますが、たとえ大きな効果を生む技術であっても(一般に効果が大きいほど副作用も大きくなりますので)リスクが大きく市場の小さな技術は,なかなか実用化されない問題があります。これらの問題の解決のためには、国の適切な補助と共に、直接に顔を合わせるコミュニケーション環境の設定が必要不可欠であると考えます。今回は、現場、研究開発者、学生などが直接に顔を合わせ、お互いの悪い点,至らぬ点を「ほがらかに」指摘しあうブレイン・ストーミングを試みましたが、4ヶ月の期間では特定の needに関する解決策を具体的に検討するところにまで至ることができませんでした。しかし、研究開発の方向性のみならずそのモチベーションを形成させる効果も、主観的には確認されたと考えています。
 生物学的に見ても、ヒトの社会は利他行為によって支えられており、ヒトはその特異的なコミュニケーション環境の中で利他行為を獲得していると考えられています。医療・福祉関連の研究開発においても、利他的なモチベーションが最も重要な基本姿勢であり、その育成のためには、現場、研究開発者などが直接に顔を合わせ、お互いの悪い点,至らぬ点を「ほがらかに」指摘しあうコミュニケーション環境の設定が必要不可欠であると考えます。
(後略)

 富田直秀 
posted by トミタ ナオヒデ at 14:40| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月21日

Problem Oriented Research

 医療・福祉関連の研究開発は、現場におけるニーズを主体としたProblem Oriented な方向性を持たなければならないにもかかわらず、現実には研究者主導で我田引水的に研究費の引っ張り合いをしている感がある。私の研究は、Problem Oriented を心がけているつもりではあるが、この我田引水ゲームに参加している点では、私も他の研究者と同じ渦中にいる。もちろん、基礎研究は大切であるし、世に認められた基礎研究はさらに発展する道を約束されるべきだと思う。ただし、それと平行して、ニーズ提供者とシーズ提供者が直接に問題点を検討し合い、どんな技術が真に社会に求められているのか(これは文化の問題でもあるが)を検討する必要があると思う。
 たまたま仰せつかった経産省のプロジェクトで、その試行をしてみた。(http://www.srdi-u1.jp/aist-welfare/brst3youyaku.pdf
posted by トミタ ナオヒデ at 11:39| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月12日

狡さを恥じる処世

 あわただしく、恥の多い日々がすぎている。

 生きるためにも勝つためにも、不可避に狡さが生じてしまう。この狡さを徹底的に(死ぬるほどに)恥じるところに、ただ狡猾に生き抜くのとは異なったもう一つの処世があるのだろう。誤解され様々に利用された歴史を持つ『葉隠』の一節、

「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」

は、そういった狡さを恥じる文化の一つの到達点を表しているのにちがいない。

 私は20代後半になってから剣道をはじめ、今も時々学生に相手をしてもらっている。剣道には、強く速く狡猾な数多くの技に混じって、一見ひ弱で愚直なほどに無防備だが飛び抜けて強く美しい技が、たしかにある。もちろん私はその域には遠く到達していないが、しかし、時として狡さを廃した捨て身の技に本当の強さがあることを、学生たちの動きの中にも垣間見ることができる。
 剣技と社会生活とのアナロジーがどの程度妥当であるかは議論があるかもしれないが、社会の中で日々画策される強く速く狡猾な数多くの企みの中で、時として、狡さを恥じた捨て身の行動が社会の中で大きな力を発する例が歴史の中には散見される。たとえばガンジーのインド独立運動がその典型的な一例だろうか。またたとえば、武器商人の一介の仲介者であり、見方によれば内乱を画策したとも読みとれる坂本龍馬の行動が、幕末の日本に大きな仕事をなしたとして現在も多くのファンを引きつけるのは、彼が徹底的に(死ぬるほどに)狡さを恥じた逸話を持つからではないだろうか。
 ガンジーや坂本龍馬の評価云々は歴史家に任せるとして、私個人としてはこの狡さを恥じる処世に対して相反する2つの思いがある。一方は、現代の日本では強く速く狡猾な企みばかりが功を奏していて、狡さを恥じる処世の、その細く鋭い一線を理解し実践できる人が、もういないのではないか、と思われることである。また一方は、もしそのような人が再び現れたとしても、感情を刺激する情報表現が発達しすぎた現代においては、その影響力が誇張されて不自然に大きな力となり、かえって社会を危機に陥れはしまいか、という危惧である。
 狡さを恥じる心を思い出させてくれる人は今の社会にぜひとも必要だが、それは等身大の人物であって、清く正しい偶像である必要はない。
posted by トミタ ナオヒデ at 13:25| プロフィール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月19日

秋野不矩の「うらしまたろう」

 先週末はインフルエンザに罹患してしまったので、研究室で自己隔離をしていた。長い時間を研究室で過ごすのだから、溜まっている論文校正やら報告書作製やら授業準備ばかりしていればいいものを、、何かおもしろいモノはなかったろうか、と引き出しや本棚を物色する。すると、本棚の奥に秋野不矩(あきのふく)の絵本「うらしまたろう」を見つけた。以前、京都で開催された秋野不矩展に行って買ってきたものだ。
 この絵本は、子供の頃の私だったら欲しがらなかっただろうなあ、、、などと思いながらぱらぱらとめくってみる。最近の絵本のように、わくわくしない、どっかーんがない。もぞもぞも、うるうるもない。けれども、この作品のすばらしさに、あらためて身体が震えるような感動をおぼえた。(インフルエンザの熱のせいではありません、、)
 まず見開きの冬の海の絵は、もう何時間見ていても飽きないだろうと思う。雪が舞う荒々しい海。海が緑だ。雪の舞うこの海の底にはいったい何が棲んでいるのだろう。恐ろしく、不思議にやさしい、深い海がどこまでも続いている。大きな波の打ち寄せるすぐ近くで、うらしまたろうがじっとその冬の海を見つめている。「たろうは くるひも くるひも さかなを つっては それを うり としおいた りょうしんを やしなっていた」、それが、うらしまたろうの始まりだ。お話しを読んでいくと、竜宮城で暮らしていた たろうは、この雪が舞い北風が吹き荒れる海を見て、ふるさとが恋しくなり、ヒトの世界にもどってくる。その大切な風景だったことがわかる。
 こんなふうに、この絵本ではまず、様々な海の描写に圧倒される。上記の冬の海だけではない。助けられたかめが「たろうのほうを なんども なんども ふりかえりながら あわだつ なみのなかに きえていった」の場面では、砂浜に白い波が打ち寄せる海辺の様子が、単純な一筆で描かれているにもかかわらず、きらきらといつまでも輝いている。そうして、さらにすばらしいのが、うらしまたろうの身体の描写だ。ゆらゆらと単純に描かれた身体の線に、うらしまたろうの純朴なやさしさ、所在の無さ、時にたくましさ、そうして貧しさと美しさが見事に表現されている。
 秋野不矩は、かめになりおとひめになって、うらしまに恋いこがれたのではなかろうか。「ふしぎな ひかりに つつまれた りゅうぐう」に見とれているうらしまたろうの細い腰に、そっと優しく添えられているおとひめの手は、これは秋野不矩の手に違いない。それから、亀をいじめる子供たちの手足のたどたどしさ、かわいさと残酷さ、竜宮城で踊る踊り子の腕と柱の造形、変わり果てたふるさとを見て呆然としているたろうの身体の表情、そうして、玉手箱を開けたたろうの突然の老いのかたち。それらがみな、一見たよりない細い線や薄い色で表されていて、じんと心にしみてくる。
 「うらしまたろう」とは、こんなにきれいで哀しい物語だったのだ、とこの絵本は改めて気づかせてくれる。それはおそらく、作者、時田史郎と、画家、秋野不矩の心が、やはりきれいで哀しいからなのだろう。

posted by トミタ ナオヒデ at 11:02| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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