富田直秀(Naohide TOMITA)     e-mail: tomita.naohide.5c kyoto-u.ac.jp  ←を半角に変えてください。


Dr.Tomita

プロフィール

富田直秀(Naohide TOMITA)材料工学出身。もと整形外科医。現在は医療工学、デザイン、再生医療、バイオメカニクス、バイオトライボロジーなどの研究をしています。

研究とは切り離しておりますが、学生の頃から少しずつ創りためている文章、絵、写真なども公開しています。興味のある方は右のMENUからお入りください。

E-Mail: tomita.naohide.5c@kyoto-u.ac.jp
(@を半角に変えて下さい。たくさんのメールをいただいており、お返事できない場合が多いと思います。申し訳ありません。)

2013年03月26日

京都大学

  大学院の修了証書授与式の後に謝恩会(のようなパーティ)が開催された.その中で,昨年退職され,今は同窓会長を勤められているMAT先生と,今年ご退職予定のMAK先生のお二人のお話が好対照で特に印象的だった.MAT先生は,グローバル社会の中で世界の優れた人達と競い合っていくためにも,また個人的な悩みを解決していく上においても人脈を持っておくことが大切である,と述べ.その人脈が持続的であるためには教えてもらうだけではなくgive and takeの関係性が大切だ,と語られた.またMAK先生は,縦軸に能力達成のような量,横軸に年齢を対数目盛にしてグラフを描いてみる,と話を始められた.たとえば,横軸は1〜10歳と10歳から100歳が同じ長さとなるように目盛ってみると,幼児や若い人のその一つ一つの能力の向上がいかにすばらしいものであるか,を語られた.MAT先生が仕事や結婚など,学生のすぐ目の前にある心配事を例として挙げたのに対して,MAK先生は赤ん坊が立ち上がるということがいかにすごいことか,を例に淡々と述べられた.MAT先生が人生にはっきりとした目標と目標に向かう方法論を明示されたのに対して,MAK先生は多様な人生のサビのようなところを語られたように思う.私の偏った視点から見ると,MAT先生は「実」を中心に,MAK先生は「質」を中心に語られたように感じたのだが,それはまあ,どうにでも解釈できるのだろう.面白いのは,同じ機械系の中にも実に様々な価値観の人が混在していて,お互いに迎合するでもなく反目するでもなく,うまく棲み分けているところだ.上に紹介したおふたりの言葉は,それぞれの人生の基軸を最後まで曲げずに貫かれた結果でもあるのだと思う.これは,一般社会ではそう簡単なことではない(もちろん,お二人ともまだ「最後」に至っているわけではないが).
  そもそも,誰もが心の奥底にその人だけの強いこだわり(芸術を語るときには「絶望」と訳すが)を秘めていて,たいていそのこだわりは人に理解されない.理解されなくとも安易に迎合せず,人のこだわりも(とやかく言いはするが)尊重するところに,京都大学の真骨頂がある.一色には染まらないのだ.京都大学は自由を尊重する,とよく言われるが,それは英語の freedom ではなく,それぞれが自らに由る,ところの「自由」だろう.行動の自由度が高いのではなく,行動に自主性が求められている.安易にそれが心地よいとは言わない.自らに由ることの,迎合しないことの厳しさも十二分にあるのだ.京大で思春期を過ごした若者たちには,安楽な生活が提示されているわけではなく,辛くともどこか小気味良い生き方が提示されているのだと思う.
posted by トミタ ナオヒデ at 21:31 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月07日

(目に見えない)悪循環をターゲットとする

  イキモノや社会の関わる問題の多くは悪循環に起因する.ここで詳しくは述べないが,例えば,痛みの悪循環,貧困の悪循環,廃用症候群の悪循環,,,などなど,悪循環の名称が付けられた現象だけでも数多く知られている.そうしてたいていの場合は,痛み,貧困,廃用変化,,といった悪循環の中心となる現象がその問題解決のためのターゲットとなっている.しかし,本当に痛み,貧困,廃用変化,,といった現象への対処が悪循環への根本対策なのだろうか?
  最近,耳鼻科分野での興味深い話を聞いた.有効な治療方法が確立しておらず,未だに多くの人が苦しんでいる(長期に続く)耳鳴りの治療に対して,音が聞こえる,という現象のみではなく,その悪循環全体をターゲットとした治療システムが発達しつつあるという.長期の耳鳴りの場合,耳鳴りが不快と認識され,その不快のために頭の中にその音を強く意識する現象が発生し,その現象がストレスを招き,そのストレスがさらに耳鳴りに対する不快感を深める,という悪循環の存在があるという.夜間のように,悪循環を遮断する刺激の少ない時には,不眠,精神的緊迫などのためにさらに悪循環が生じやすいらしい.たとえば,TRT(Tinnitus Retraining Therapy)では,この悪循環を壊すために,別の音をかぶせて耳鳴りに気が向かないようにする音響療法や,悪循環の回路を理解するカウンセリングなどが行われている,という.つまり,「音が聞こえる」という現象をターゲットにするのではなく,目に見えない心理作用を含めた悪循環回路全体への理解と対処をおこなう治療システムであるらしい.まだその治療現場を取材したわけではないので,あくまで聞き知った知識として把握しているだけだが,心理,聴覚,看護などの様々な要素が多様に絡んだ悪循環に対応できる多分野横断型のシステムが成立しつつあるのではないだろうか,と想像している.
  悪循環の中心となる現象のみではなく,悪循環回路全体をターゲットとするシステムの構築は,言葉で言うのは簡単でも,実際にはとても大きな問題を含んでいる.たとえば,整形外科分野では痛みの悪循環への対処が重要だが,ただ単に「痛みと友達になりましょう」などと,その痛みの渦中にない者が言葉で説明するだけではかえって不信を招いてしまう.現実の痛みに苦しんでいる患者にとっては,やはり痛みという現象の消滅が治療に求める第一の効果だからだ.最近では少量のオピオイド(麻薬の仲間)を含んだ様々な製剤が広く使用されつつある.もちろんその適応には厳しい基準があるが,それらの優れた除痛効果がエビデンスとして定量的に示されやすいだけに,かえって危惧も感じざるを得ない.痛みは,正常な身体異能を維持させるための大切な感覚でもあるので,除痛のための強力なツールをしっかりとコントロールして使うのはそう簡単なことではない.治療者は,「痛み」という現象だけに振り回されずに,目には見えにくい悪循環全体を見据えていなければならないだろう.
  私自身の例をお話しよう.先日の腰痛発作で,動作のたびに全身を貫いていた激痛は,神経根症状と思われる右臀部の疼痛に変化して,今も残存している.たとえ痛みは鈍痛となっても,常に痛みの中で暮らしていると,時に,居ても立ってもいられない焦燥となることがある.おそらく,この痛みとは長い付き合いになるのだろう,と(一応専門家としては)観念しているのだが.一方では,やや楽観しているところもある.こういった神経根性の痛みとの付き合いは,これが初めてではなく,20代の後半に剣道の練習中に受けた外傷から頚椎症を患い,その時には左肩から親指にいたる逃げ場のないしびれと痛みに苦しんだことがある.その症状自体は今も消えてはいないのだが,私の脳は上手にこの症状を隠しているらしく,このように思い出した時にだけ,左腕のしびれと痛みが襲ってくる.おそらく,この臀部の痛みもいつか同じように「忘れる」ことになるのだろう.
  この「忘れる」または「痛みと友達になる」という目に見えないあやふやな結果は,それをエビデンスとして定量評価するのがとてもむつかしい.先に紹介した耳鳴りの治療では,耳鳴の苦痛度及び生活障害度としてTHI(Tinnitus Handicap Inventory)が提案されており,さらに一般的な尺度としては様々なQOL(Quality of Life)評価も存在するのだが,それらの多くは暗示や先に述べたオピオイドを含んだ製剤でも改善してしまう.たとえば,同じような障害を受けても交通事故などでは長くその症状が消えないことが多いのだが,以前に整形外科医をしていた私の実感としては,わざと症状を訴えている場合はむしろ少ないように思う.心理作用も加わった痛みの悪循環が患者本人を相当に苦しめていたように思い出す.そうして,愁訴を根気強く聞いてあげることと,抗不安薬などの投与くらいしかなすすべがなかった例も多い.
  東北震災時のブログにも書いたが,社会的にも,こういった心理作用も加わった逃げ場のない苦しみの悪循環が日本の各所で生じているのではないだろうか.痛み,貧困,,のような悪循環の中心となる現象のみをターゲットとするのではなく,悪循環回路全体をターゲットとした科学的な対策方法が,つまり,心理やコミュニケーションなどの見えない対象を扱う専門家と,エビデンスとして見える現象を扱う専門家とがチームとなり,多様に絡んだ悪循環に対処するシステムとその構築理論が,イキモノや社会に関わる問題解決のための科学的方法論として求められている.集学的なシステム構築のポイントは,その効果の評価方法の構築であろうと思う.エビデンスとして評価できなければ,様々な胡散臭い方法論の巣窟となってしまうからだ.

(TRT療法の説明では,名古屋第一赤十字病院耳鼻咽喉科,柘植勇人氏のHP(http://www.nagoya-1st.jrc.or.jp/3/library/trt.html)を参考とさせていただきました)


posted by トミタ ナオヒデ at 16:56 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月03日

目に見えない絶望

  外から見ることのできない絶望というのは,とことん目に見えず,また他人に理解されることもないのだと思う.先日,性同一性障害の人とお話をさせていただく機会があった.その人の持つ絶望は,どう言葉で表現しても理解されないのだろうと思う.その人に限らず,誰もがそれぞれの「目に見えない絶望」を抱えていて,お互いの絶望が共鳴し合うことはあっても,理解し合うわけではない.この目に見えない絶望が,芸術という活動の胆のところにあるのだと,私は勝手に決め付けている.
  2年ほど前に,藤浩志という芸術家の講演を聞いたことがある.彼は,鴨川に鯉のぼりを流したり、地面にお米を敷きつめたり,そのお米から無数のカエルを作ったり,ペットボトルをつなげてドレスを作ってファッションショーをしたり,いらなくなったおもちゃを交換する催しを主催したり,,とにかく,これまでの芸術家というイメージからは外れた活動をしている.それでも彼が芸術家であるのは,彼が芸術家としての基礎を身につけているからであり,芸術家であると社会から認められているからだろうが,私にとっては,何よりも藤浩志の活動や作品の中に漂っている目に見えない絶望の匂いが彼を芸術家たらしめているように思う.   「暗い」ということでは決してない.「目に見えない絶望」は,時として,はた目にはかえって明るくひょうきんでもある.たとえば,身体の病気やいじめや差別といった目に見える絶望が,逃れようとしても逃れることのできない暗さを有しているのに対して,目に見えない絶望は逃れようとすること自体がおかしいほどに,その絶望が自分自身の内面の姿そのものでもある.夕日や星を見て,ああきれいだ,と感じているのは私ではなく私の絶望なのかもしれない.
  いかに感動的な作品であっても,作者の絶望の匂いが感じられなければ,それは芸術ではなく感動を目標としたデザインであると,私は決め付けている.藤浩志の持っているかもしれない目に見えない絶望を私は全く理解していないが,私だけではなく多くの人と共鳴し合う,個性の根源のような絶望が,芸術家としての彼の中にはあるのだろう.ゴッホの風景画,ショパンのプレリュード,竹久夢二の黒船屋,,,,,それらの作品が私に新鮮な出会いを感じさせるのは,彼らが感動を仕様としたデザイナーである以前に芸術家であるからだろうし,それは私の思い込みによれば,それぞれの目に見えない絶望が,私のそれとどこかで共鳴しているからなのだろうと思う.
  ところで,その性同一性障害の方が,本来の自分にはふさわしくないその乳房を切り取る手術を計画しているのだという.芸術分野に進んでいるという,自分の子どもくらいの年齢のその人に,私は初期乳がんを患った妻の話やら,そもそも自分とは何か,などとピント外れな話をしてそれに反対した.あれからもいろいろと考え続けているのだが,そうしてその結果としてこの文章を書いているのだが,私の目に見えていないその人の絶望は,その人にとっては厳然とそこに見えているのだから,その対象を取り除こうとするのはむしろ自然の流れなのかもしれない.ただ,手術の是非どうのこうのといったことではなく,外から見ることのできない,決して他人に理解されない「目に見えない絶望」が,一方では多くの人と共鳴し合い,それがその人のとても貴重な個性とモチベーションを形作る可能性もあるのだ,と私は信じている.


posted by トミタ ナオヒデ at 11:27 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月20日

自分でパンツをはきかえる

  先日の朝.泊まりがけで研究室の引越し後の整理をしていて,ひょいと荷物を持った拍子にぎっくり腰になってしまった.数年に一度の定例行事ではあるのだが,今回は起き上がることもままならない,けっこうな重症例だ.ぶざまな姿で研究室に転がりながら,いやこれもチャンスなのかもしれない,と,周囲のモノたちとぎっくり腰を患った自分との関係性をじっくりと観察した.
  まず,やはりモノは整理整頓しておかなければこんな時にどうしようのない.ちょっとした邪魔モノをよけるのにも激痛が走る.部屋が整頓されていなければどこにも移動できず,何も取り出せないのだ.床を横切る一本の配線が大障害になる.床や机の汚れはそのまま衣服に付着する.やっと椅子に座れるようになってから重宝したのは,キャスター付きで背もたれのあるシンプルな椅子だった.高さや背もたれの角度を自由に調節できる高機能椅子は,とにかく重くて場ふさぎで不自由だった.トイレには頑丈な手すりが設置してあるのだが,一番手が届きやすい便利な場所にトイレットペーパーがあって邪魔をしている.このトイレットペーパーの取り付け具を丈夫にして体重をかけられるようにするのがまずは第一歩だろう,,,などなど,いろいろと発見はあったのだが,他を圧倒して最も重要であったのは,
「自分でパンツをはきかえる」
これができない不自由だった.私のこの一日の動作の中で,誰にも言いたくなく,誰にも手伝って欲しくなく,かつ,なんとも困ったのがパンツのはきかえだった.いや,どうにかこうにか一人ではきかえはしたのだが,無様な格好でパンツと格闘している姿は想像さえして欲しくない.
  12月03日のブログ「病人・身障者クロッキー」に,「言語に表されないその人の情報を形に残し,頭に叩き込む作業が必要不可欠である」,と述べて,病人・身障者のクロッキー画を描く試みを紹介したが,たとえば,たかが半日間患者と接していただけで「自分でパンツをはきかえることができない」というこの尊厳に関わる屈辱的.問題を「みる」ことができるのだろうか.体験装具などを使ってもっと根本的に企画を考え直さなければならないのではないだろうか,,,などと,また迷いが生じる.
  実を言うと,この企画を芸術家の方々に相談した時に,多くの人が暗い反応を示した.ある画家は,「芸術家はとにかく対象に入り込んで,吸い込みすぎるところがあるので,芸術家がそこに入り込むと相当にしんどいかもしれない,はたして持つだろうか,,」といわれた.なるほど,私はまだまだ鈍感なのだ.エンジニアにも,いや,これからのエンジニアにこそ,この芸術家たちの吸い込みすぎるしんどさが必要なのだろう.とにかくは,まず体験してしてみなければならない.

,,,それにしても,この時間と無さと腰の痛さはどうにかならんものなのか,,,




posted by トミタ ナオヒデ at 11:27 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月16日

名前付きの仕事

   15日のブログに,「『誇るべき研究』とは,もちろん論文のみを意味しているのではない」と書いて論文を目的とした研究を非難しておきながら,その同じ日に学生には,「論文は,時代を超えて名を残すことのできる数少ない仕事の一つだ」などと言って,論文の重要性を語っている.どちらも私の本心であって嘘はないのだが,,誇れる仕事とは何だろうか,という私の迷いは今もまだ続いている.

  ところで,家の屋根裏に無造作に置かれていた古い掛け軸の中に,私が特に気に入っている作品がある.朝起きると床の間にか下げられたその絵をしばらく眺め,出かけにまた視線を送り,帰ってくるとまた見る.その構図にはどこかぎこちなさがあって,しかし,その繊細な描写から想起する精神性が尋常ではなく,何度見ても飽きが来ない.この構図と描写のちぐはぐさは,模写に感じるあのモゾモゾとしたちぐはぐさとも異なっている.構図も描写も非の打ち所が無い,のではなく,むしろその構図の微妙なぎこちなさと描写の素晴らしさが重なり合って,作者の生き様が心に迫ってくる感がある.名人が隙なく描いて見せる秀作もいいが,それとはまた違った,どこかねちねちとした命がけの重さがある.
  この絵は,高い評価を受けなかったからこそ,こうして私の目の前にあるのだろう.しかし,毎日眺めていると,これこそが時を超えても輝きを失わない「誇れる仕事」なのだ,と,頭ではなく実感としてそう感じる.
  絵画も研究も,時代を超えて保存されるための,つまり何らかの財産として認められるための基本的な技術は備えていなければならない.その上で,本当に誇れる第一級の仕事であるか否かは,多くの人が長い時間をかけてじっくりと付き合ってみてはじめてわかるのではないだろうか.その時代の評価云々に,そう焦ることもないのだろう.
  あとにつなげることのできる仕事を完成させるのであれば,自分の名前を残しても残さなくてもいいのだろう.しかし,たとえば,もうだめだ,と途中で息が途切れそうになったり,実際に息が切れて野垂れ死にをしてしまったとしても,信念に従ってさえいればどこか大きく構えていられるのは,研究や芸術や報道,,といった仕事が名前付きであることも大きな要因なのではないだろうか.
  名前付きの仕事を残す,ということは,単なる自己表現や自己顕示だけではなく,ヒトがその時代の評価に惑わされずにおおらかに一生を終えるための一種の祈りのようなものかもしれない.



posted by トミタ ナオヒデ at 08:36 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月15日

揺るぎない知恵

  一年の計は元旦にあり,などと言いたいわけではないが,年賀状に手書きで書き込まれる一言一言には考えさせられることも多い.
  私の恩師の一人である筏義人先生からの年賀状には「中途半端にならないよう,よく考えて誇るべき研究を行ってください」と添え書きがあった.研究が役に立つことに厳しい姿勢を貫かれた筏先生が言われる「誇るべき研究」とは,もちろん論文だけを意味しているのではない.論文は,役に立つための一つの手段ではあっても決して目的ではないのだが,短時間で学生に論文をかかせなければならない大学では,どうしても論文が目的のようになってしまう.私は,自分を賢く偉く見せるために研究をしてきたのではないだろうか,私の誇るものは何だろうか,,と七草粥と小豆粥を食べ終えた今もまだ考えている.
  もう一つ,生命誌研究館館長の中村桂子先生から届いた年賀状には,「研究が日の丸を背負わないほうが良いと思っています」とあった.実は,この正月休みに私は日章旗の絵を描いていたので,なにか私の心を見透かされているように思えた.
(添付写真)
この大晦日から正月にかけては,何年ぶりかで自由時間を取ることのできたので,”pray for Japan”という題名だけを心に刻んで何枚かの絵を描いてみた.当初は双葉の写生に始まったのだが,何度も何度も書き直しているうちに,いくつかの日章旗の形に変貌した.政治との関わり合いを極度に嫌う私にとっては躊躇を感じざるを得ない題材なのだが,震災後の日本の危機感や役に立つ研究への焦りが,知らず知らずのうちに日の丸や国家や助け合いへの気持ちを際立たせたのかもしれない.ただ,私の描いた日章旗にはどこか怖さもあって自分でもギョッとするところがある.中村先生に,この添え書きをブログで公開することの承諾を乞うたメールをお出しすると,「皆で助け合うのは大事ですが,そこに日の丸はいりませんでしょう.一人一人が見えるのが好きです.」と追記を書いていただいた.中村桂子先生が「生命史」ではなく「生命誌」と表記される意図も,誤差を持った塊としての集団の平均値ではなく,主体性と多様性を持った一人一人に対峙する姿勢から自然に生まれたことなのだろうと想像する.思えば,中村先生も,そうして筏先生も,とてつもない忙しさの中で専門外の方々からの様々な質問に一つ一つていねいに返事をされていた.私にはない「揺るぎなさ」が,つまり多様な価値観に真摯に対峙して,なお強く活き続ける知恵とモチベーションが,お二人にはある.
  フォークグループかぐや姫の歌「神田川」に次のような一節があった.
「若かったあの頃,何も怖くなかった.ただ,あなたのやさしさが,怖かった,,」
純粋で一途なやさしさでも,多様な価値観と対峙してなお揺るぎなき知恵がなければ,後戻りできない残酷さを内包してしまう.私は,そうして,おそらく現代の学者の多くは,「神田川」に歌われた若者のように,純粋で,一途で,そうして怖さも内包した存在なのだ.
  誇れる仕事をすること,そうしてその誇りが独りよがりや集団よがりではなく,多様性に対峙した揺ぎの無い知恵を基盤としていることの重要性を,今年の年賀状の添え書きは教えてくれている.


IMG_1109 明.jpg


posted by トミタ ナオヒデ at 08:34 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月03日

病人・身障者クロッキー (虫の目活動 その1)


  医療現場には,そこに入ってみなければなかなか理解することのできない「冷たさ」がある.たとえば,患者の痛みを自分の痛みとして捉えるならば,針一本,メスの一太刀もその肌に施すことはできない.私が研修医であったころには「痛みは患者持ち,と思わなければ治療を冷静に行うことはできない」と教えられた.身体を構造物として扱う徹底した冷たさも,医療従事者には求められている.その冷たさを補うのがコミュニケーションと記憶力なのだと思う.コミュニケーションの大切さは常に語られるが,目の前の構造物がどのような名前を有していて,どのような表情で話をして,どんな生活をしていて,何に困っていて,何を喜びとしているか,どんな家族がおられてどのような背景を背負っておられるのか,,,,と,その人の歴史を知り,憶えていることのできる記憶力も,医療に求められる「職業的な」優しさの中核にある.子供のころから名詞を覚えることのできない脳を有している私にとって,臨床は一つの試練の場でもあった.私が研修医であった頃,その左手の手背には憶えねばならない患者情報がいつも真っ黒に書かれていたのを思い出す.臨床を離れて医療技術の開発研究を行っている現在は,手背に文字を書き込むことはなくなった.文字で表すことのできる情報は手背ではなく,きちんと紙やコンピュータに記録することができる.そこで気がついたのは,(思えば当たり前のことなのだが)言葉や数字では表わされた情報の本当の意味は言葉や数字では表わされていない,ということだった.
  前回(2012年11月13日)のブログで,不自由な生活を続けている親戚の方のクロッキー画を描かせていただいたことや,来年度から病人や身障者のクロッキー画を描くワークショップを始めることなどを述べた.言語に表されないその人の情報を形に残し,頭に叩き込む作業が医療(または医療技術開発)に必要不可欠である,と考えるからだ.一般の技術開発のように,要求事項を言葉や数字で表現し,それのみを仕様として設計をすすめると,医療技術は時として「質」を大きく損なう.たとえば,よく見えることだけを仕様にしてメガネを作成すると,画像が歪んだり目が疲れたりしてかえって日常生活に支障が出る場合がある.さらに,デザインや色など,言葉や数字で表すことのできないその人の生活を「みる」ことができて,初めてメガネという技術が意味を持ってくる.もちろん,文字や数字で表された情報も重要であるが,技術の「質」はそれだけでは達成されない.ただその「みる」という能力が,病人や身障者のクロッキー画を描くワークショップで鍛えられるのか否かは,その評価方法がない.私の思い込みなのだろうか.まだワークショップを始めていない現時点では未だ「絵に描いた餅」だ.
  一つだけ言い訳をするならば,現行の医療技術開発の多くがもともと絵に描いた餅のようなのだと思う.医療技術開発の多くの活動は,餅にならない絵を(莫大な税金を投じて)描き続けている.事業化(つまり持続的に役に立つ仕組)の見込みの無い医療技術開発に,国はいったいどれだけお金をつぎ込めば気がすむのだろうか.また,開発者たちは自身の技術が本当に医療現場を良くするという確信があるのだろうか.私を含めて,研究者たちは,患者をそうして医療全体を本当に「みる」ことをしているのだろうか.臨床現場や医療技術の開発現場では,文字や数字で表された情報のみが氾濫しているのではないだろうか.米国に次ぐ世界第二位の優れた基礎研究を胎内に擁する日本の医療技術開発には,医療の生々しい現場から社会経済全体を達観した目利きが働いているとはとうてい思えない.いや,かく言う私自身にも目利きの目はなく「本当に役に立つだろうか」と悩みながら手探りで進んでいる.個々の患者を「みる」ことができる人材と,ビジネスモデルを構築して持続的に役に立つしくみを「みる」ことができる人材とがかい離をしたまま,日本の医療技術開発は世間の期待に押されて暴走している.
  日本の医療技術開発の抱えるこの膨大な無駄に比べれば,単なる思い込みであるのかもしれないクロッキーワークショップは,せめても私たちに何らかの新しい目を開かせてくれるのかもしれない,なによりも,この活動は名誉や権力の暴走に無縁であるからだ.無駄かもしれないが,もぞもぞと進めてみようと思う.,,まあ,研究室の引っ越しと,卒論修論が終わって時間ができてからだが,,,本当に時間ができるだろうか,,,


posted by トミタ ナオヒデ at 08:42 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月13日

病人や身障者の絵を描こう,,


  この日曜日に,脳出血後の後遺症で不自由な生活を続けている親戚の方のクロッキーを描かせていただいた.絵を描くことで,その人の不自由や自由が文字を介さずに頭の中にこびりつく,,,のだが,しかし,では何をしてあげることができるのだろうか,と考えても,そう簡単にはよいアイデアは浮かばない.「つ」の字のように固まった片手,一方の手はよく動いているけれども車いすに斜めに座り込んだ姿勢ではコンピュータも操作しずらいだろう,転ぶ危険さえ補助すればもっと色々に活動できるだろうに,,けれども.この体の重さと筋力の弱さと,そうして何よりもこのふがいなさをどうすればいいのだろう,,,
  実は来年度から,医療技術開発を目指す人に病人や身障者のクロッキー画を描いてもらって,言葉や数字で表されない情報を「みる」実習を計画している.その予行として描かせてもらっているのだが,,しかし,計画者自身がこのように何の成果も示せずに途方に暮れるようでは,もともとアイデア倒れなのか,,まあ,その人の存在が頭の中に長くこびりつくだけでもいいか,,,,.


posted by トミタ ナオヒデ at 16:03 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月10日

ちんちろりん

               「ちんちろりん」

                                   富田直秀

  先先日の研究室旅行で,十何年ぶりかで「ちんちろりん」を学生たちと楽しんだ.三つのサイコロを振って,その目の数で勝ち負けを決める.基本的には運だけの勝負だが,次の勝負にどれだけの点数(もちろんのこと現金や物品は賭けない)をつぎ込むかで,いわゆる運の流れのようなものを楽しむゲームだ.実を言うと,私はこのゲームでまだ一度しか負けたことがない.(新婚の頃に家内に一度だけ負けた,,)もちろん,サイコロの振り方などにズルをしてサイコロの目の出方を変えるのではない.次にどれだけ点数をつぎ込むか,の判断において予感が働いているわけでもないだろう.強いてコツとして思い浮かぶのは「欲を出さない」「捨身である」「主導的立場となる」の3点である.
  サイの目の勝負は運だけで決まり予測も不可能だが,点数勝負にはまったく理性的判断の入り込む余地がないわけではない.たとえば,終盤に大量にリードしていれば多くの点数を注ぎ込まずに逃げ切ったほうが得であろうし.さらに,勝っているときはリード幅よりも多くの点数つぎ込まない,という「欲を抑えた」,また,負けているときは負け幅よりもわずかに高い点数をつぎ込む,といった「捨て身の」行動によって,少なくともリードをしている状態の回数を増やすことはできる.しかし,これだけではリードしている回数を増やすだけであって,負け続けて大損に陥る可能性が含まれているので,無数回のゲームで期待される得点を平均すれば得点の差はなくなる.有限回のゲームで,いわゆる勝ち逃げが許される程度の「主導権」を握っていれば,勝ち逃げを繰り返すことで必勝が可能となるのだろうか?私はその方面の専門家ではないが,勝ち逃げを繰り返す(つまり,場に流通している価値を少しずつ自分の懐に移行させる)方法の実現性も疑問視されているらしい.論理的にすっきりとした説明がなかなか難しいが,それでも,たとえば,勝つと調子に乗り,負けると諦めたり無謀になる人の多い集団の中では相当の確率で勝つことができそうに感じてしまうのはなぜだろうか?
  と,このようなことを述べている私は,組織の長にはとうてい向いていない.過去の歴史や法則から未来を的確に予測し得策を選択する理性と,得策を実現させる実行力が,組織の長には求められているのだろう.私は大学生の頃からサークル活動でも仕事でも,属する集団が躍進に転じる,という幸運に恵まれ続けてきたが,私自身はいつも集団の中で平か,または副の位置であった.予測と統制を行う組織長の横で,自分が良しと思うことを黙々と続けていたり,突然それまでの利益を捨てる変な提案をしたりしていた.このことを自己満足的妄想的に解釈するならば,歴史と法則とに固執している集団に,都合のいい時(負けている時ではなく,むしろ勝っている時)に目先を変える,という,いわば勝ち逃げの繰り返しのようなアイデアを提供していたのかもしれない.前述のようにひとつの価値基準の下では勝ち逃げによる常勝の理屈はなかなか成り立たちにくいらしいが,価値基準の自体の変更(イノベーション)があれば予測のきかない変化の中でも得策を選択できるに違いない.価値基準のframe workの変化は具体的には,目的のふりをして実は手段であったり,手段のふりをして実は目的であったりと,臨機応変に目的と手段とを入れ替えてモチベーションを持続させることでもある.たとえば,目前の勝利のために一致団結するのであれば,一見,勝利が目的であって一致団結が手段であるようだが,これは逆に勝利が手段で一致団結が目的であっても良い.確固とした目的をかかげることも躍進の一つのコツではあるが,時として事後に過度の疲労と脱力とを生む場合がある.実際に持続的な躍進を続ける集団はこの手段と目的のframe workの変化が実に巧みだと思う.個人的趣味としては,さらに共通目的までなくしてしまって,構成員それぞれがそれぞれの生き様,それぞれの価値観で動いているが,結果として,その時々の手段が一致しているような,臨機応変で自由な集団が好きである.
  なんのことはない,私は組織躍進のスイッチを密かに握っていたのかも,,などと,自我自賛で都合の良い話にまとめようとしているのだ.しかし,時間的にも空間的にも多様性を内包する社会の中では,欲に翻弄されず捨身になって主導的にframe workを変化させることが「運」を引き寄せるひとつのスイッチになっている,と述べても,あながち空言ではなかろうと思う.何を得とするか,という価値のframe workの変化は,言うのはやさしく実行には相当の抵抗を受ける.抵抗の中でも多くの賛同を得るためには,欲に翻弄されず捨身になる心構えと主導的な立場が,やはり必要なのだろう,,が.まあ,このように根拠のない自慢話は適当なところでやめておかなければならない.「ちんちろりん」に無敵であった私が,若かりし頃の妻に負けたのは,欲に翻弄され保身となり,しかも主導的に価値観のframe workを変化させることができなかったためだろう,,などと,きっとかげぐちをたたかれるからだ.


(誤解が無いように付け加えておくと,価値観のframe workを変化させるイノベーション型の人間は組織のトップに持ち上げるべきではない,または,frame workを変化が世に認められたならばすぐに主導的立場からは降りるべきだろうと思う,,,繰り返すが,過去の歴史や構造化された法則から未来を的確に予測し得策を選択する理性と,得策を実現させる実行力が,組織の長には求められている.frame work変化の後に必要とされるのはその構造化であって,イノベーション型の人間はモヤモヤとした構造のない状態から行動を選択する構成力には優れていても,万人が安心できる構造の構築に長けているとは限らないからだ.)









posted by トミタ ナオヒデ at 08:07 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月05日

政治家毛嫌い

政治家毛嫌い
                            富田 直秀

  好きと言っておきながら結局嫌いであったり,嫌いと言っても好きなところもあるのならば,いっそのこと好きを嫌い,嫌いを好きと言い換えても同じことだろう,と自身のブログの「好き嫌いシリーズ」を読み返してみて思う.しかし,「政治家」だけはどう逆さまにひっくり返して見ても,好き,とは言えない.これは主義でも主張でもない.政治家のずるさが嫌なのか,うそつきが憎いのか,女性にもてるのが悔しいのか,世のため人のため面(ずら)が気持ち悪いのかかよくはわからないが,とにかく,ひたすら気色が悪い.たとえば,ムカデが実は貴重な益虫であったとしても,たとえこれが地球を救うイキモノであったのだとしても,決してムカデを好きとは言えないであろうことによく似ている.
  気色が悪いのは政治家であって政治そのものではないのだが,その巣窟である政治にも極力近づかず,政治的な発言も厳に慎む生活を高校生時代からつい今しがたまで続けてきた.国のまつりごとのみならず,学会,教室,あらゆる場面で政治臭を感じるところに私は近づかない,いや,政治に付き合っていくだけの記憶力やら注意深さといった能力に欠けているのだから,もともと近づくことができない.私の思春期のころは右とか左とかの色メガネをかけた子ども政治家が身近にいて,それぞれのメガネにかなった人を自身の巣に引き込もうとしていた(と,私にはそう見えていた).私も,もちろん私なりの色メガネをかけているのだが,私のメガネに映るのは,右やら左やらの区別なく彼らの背中にうごめいていた何本もの脚だった.私は,当時,無気力の象徴とされていた「ノンポリ」という種に(今は当たり前に主張できるが,当時としては珍しく)積極的に属そうと努力をしていた.
  しかし,私の「ノンポリ」への積極性を危うくさせる状況が1988年にあった.昭和天皇の病気平癒を願う記帳所が全国に設けられ,奈良県の橿原で研修医をしていた私の周囲では,忙しい時間をやりくりして多くの友人たちが記帳に行った.この時,ノンポリという選択は許されず,記帳すれば右,記帳しなければ左,という暗黙の選択がつきつけられた(ように私には思えた).結局のところ,私は記帳には行かなかった.私は(おそらく,これが私の生れて初めての政治的発言だが),賢いことよりも強いことよりも「ずるくない」ことを上位に置く文化としての象徴天皇制を尊重する.グローバル社会の中で日本が日本の「質」を主張するならば,「ずるくない」文化とそのよりどころはこれからも重要になってくるだろうと予想している.1988年当時にはそこまではっきりとした意識を持っていいたわけではなかったが,政治を離れて昭和天皇ご自身への好感はあったので,もし無記名の行動であれば私もそれに参加したのだろうと思う.私の行動を決定づけたのは,当時研修医仲間であったある友人の「記帳しなければ,将来に不利益になるかもしれないだろう」という一言だった.この友人に反感を覚えたのではない.この友人に賛同する自分の背中にうごめく多数の脚を感じたのが,記帳をしなかった一番の理由だったろうと思う.カフカの「変身」の中で朝起きると巨大な虫に変身していたグレーゴルの焦燥が,まさにこの時の私の感覚に近いのではないだろうか.自分の毛嫌いする対象が実は自分自身であったことへの焦燥をかかえて,結局私は記帳をしなかったが,逆に記帳したとしても,もちろんこの焦燥は収まりはしなかった.
  個人の利益や集団の利益,正義感,名誉欲,,,様々な脚を統一的に動かしてこれを思想と呼ぶことの気色悪さは,たとえこれが役に立つのだとしても,人類生存のための切り札なのだとしても好きにはなれない.すでに右や左といった時代ではないが,ずるくない象徴を利用しようとするずるさがあるかぎり右派のそれは思想ではなく,また,言葉や「モノ」に固定化された目的に振り回されている限り左派のそれも思想ではない.思想とは,ただ多くの足を動かしてもぞもぞと餌をあさったり敵を刺したりすることではなく,悪循環を良循環に変えていく理性の美しさのようなものを内包しているのだと思う.
  実を言うと,私がなぜこんな昔のことをわざわざブログに書いているのか,と自分に問うてみれば,かつて強く感じていた政治家への気色悪さがどうも最近薄れてきているように感じるのである.今では,右や左の色メガネをかけた友人たちの背中にも,そうして自分自身の背中にもうごめく脚を見ることはめったになくなってしまった.グロテスクであった政治色が,一見ファッションのように淡くなってきているように私の目には見えているのだが,,もしかすると,いや,おそらく,いつのまにか私自身がすでに不気味なムカデの目で世間を見ているのに気づいていないだけなのだろう.
  右や左といった区別が曖昧となった現在では,個人や集団の利益,正義,欲などを統一的に動かして思想とは呼ばない.しいて言えば,ただ都合の良いことを言って人気を集めるポピュリズムがこれに代わって大いに毒を吐いているのだが,,私を含めて多くの人がこの気色悪さを見分けられなくなっているように思う.子ども政治家たちの言動は好きではなかったが,わかりやすく,少なくとも純粋だった.皆がムカデの目を持ってしまった現代は,何かとてつもなく大きな間違いに向かって進んでいるようだが,恐ろしいことには,誰もこの危機を見ることができない.


(PS:「言葉に固定化された目的に振り回される」とは,たとえば,貧困→教育↓→貧困,貧困→人口増加→貧困,といった悪循環があるときに,対峙すべき本の対象は悪循環であるが,時として貧困という言葉に目的が固定化されてしまう.貧困が悪く,裕福さが良い,のではなく,悪循環からの脱出が目標となるべきだろうと思う)
posted by トミタ ナオヒデ at 08:56 | TrackBack(0) | 論文調の独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月03日

(新)秀吉嫌い : 年寄にはアーティストとしての役割がある

5月26日のブログ「秀吉嫌い : 年寄にはアーティストとしての役割がある」
の内容を書き直しているうちに,絵画に関する感想が消えてしまったので,消えた文章の周囲をもとの場所に残して,(新)秀吉嫌い,,をここに載せます.



秀吉嫌い : 年寄にはアーティストとしての役割がある
富田 直秀

  私の名前(直秀)の秀の字は,岐阜県生まれの両親が豊臣秀吉にあやかろうとしてつけた名前らしい.両親には申し訳ないのだが,,私は秀吉が嫌いだ.
  私も若いころには,人を尊敬し人生に目標を設定して突き進む秀吉の一途さにあこがれた時期があった.しかし,これは歴史的事実よりも「太閤記」の物語性に強く引きずられて形成された秀吉像であるし,たとえ若いころの秀吉がそうであったとしても,天下人となった後の秀吉はどうだろうか.朝鮮出兵にまつわる一連の言動だけを挙げても,秀吉の晩年には決してあやかりたくないと思う.天下を取ってからの秀吉の一連の醜態は,歳をとることによる“もうろく”として,または自己中心的となり客観的な判断力を失った結果として,表現される場合が多い.
  しかし,晩年の秀吉は「私」に固執したのではなく,むしろ「私」を粗末にした結果として周囲とのつながりを失ったのではないだろうか.私の好きなデザイン・アートの視点からみると,目標を達成するために客観的・合理的な方法を選択するデザイナーとしての生き方にこだわりすぎて,アーティストとしての「私」を見失ったのだと,私は解釈している.秀吉がその晩年にアーティストとしての「私」を見失ってしまったことの重大性は,彼一人の問題ではない.人生のデザイナーとして成功を収め,この国の様々な分野で実権を握る何人かは,秀吉のようにアーティストとしての「私」を見失って,今もなお黄金の茶室を作り続けているからだ.
  私の考えるアートとは,それを人の役に立てたり,アートで何かを人に伝えようとするのではなく,あくまで自分のためにあるものだと思う.もちろん,結果としてアートは立派に世の中の役に立っているし,また,結果として大切な何かを伝えている.けれども,だからといって役に立つためにアート活動をするのも,何かを伝えるためにアート活動をするのも的外れであって,アートとはとことん孤独であるところに基礎があるのだと思う.吉本隆明氏は,良い文学作品というのは,そこに表現されている心の動きや人間関係というのが,自分にしかわからない,と読者に思わせる,そんな作品だと述べている.文学作品に限らないだろう,たとえば先日,福田平八郎の絵を見ると,以前に見たときとは全く違った表情がそこに見えている.福田平八郎の絵に描かれている波やら鯉やら葉っぱの表現は,平八郎独特の世界観なのだと以前は考えていたけれども,平八郎の絵の中に見えていた表情,そうして今の私が同じ絵の中に見ている別の表情は,実は私の中に育ち,変化しつつある私の「絵」の表情なのだ.吉本隆明氏が文学作品に対して述べたことと同じように,絵画でも,見る者に,自分にしか見えていない「絵」だ,とそれぞれに感じさせるのがいい作品なのではないだろうか.また,「能」の舞が徹底的に表現を削って,その一見単純な動きの中に見る者の現実とも幻想ともつかない世界を映してみせるのと同じように,日本の芸術の多くは,ほとんど空(くう)に近くなるまで表現の引き算を重ねていって,中身が空となった器の中に見る者の世界を映してみせる.芸術表現とは,共通のコードを使ってAからBへ意味を伝えるコミュニケーションとしてではなく,吉本氏の言うように,AはAにしかわからない表現をして,BもBにしかわからない見方をして,両者が偶然に出会うことによって生まれるものなのだろう.氏はこのことを「自己表出と自己表出の出会い」と表現している.また,村上華岳が「画論」の中で「制作は密室の祈り」であると述べた,その徹底的な孤独と締念の中での出会いの存在が,デザインとアートとの間に太い線引きをしているように思う.
まあ,そういったややこしいことはどうでも良いのだが,とにかく,歳をとるにしたがって,道を歩いていて傍らの植物を見ても,空を見上げても,私の周りの世界はどこか物語を含んでいて以前よりも潤ってきているように思う.なにも絵を描いたり音楽を奏でたりするばかりがアートなのではない.私の考えるアートでは,作品さえも必要ない.たとえば,人の顔だけではなく身体や花や木々や様々なものに表情や物語を感じたならば,それもかけがえのないその人のアートだ.そうしてそういったアートは,習ったり勉強したりするのではなく,様々な出会いが私の中に蓄積,,いや,様々な出会いが「私」そのものを構築し続けて成立するのだろう.強い感動の中に自己を発見する若い感性もそれなりに良いが,老いぼれて,独立した個としての機転と機能を失いつつある中でこそ見えてくる静かな「私」像は,周囲との境界さえあやふやである「私」象は,これもなかなか捨てたものではない.
  もちろん,デザイナーもアートの心を持つし,アーティストもデザイナーのスキルをもつ.どちらか一方だけの人間はいない.若い頃には,他者と明確に区別された自己とその目標を見定めて,客観的かつ合理的に目標に向かって突き進むデザイナーのスキルが必要かもしれない.そうして,歳をとってからは,たとえそれがはっきりとした実体を持たなくとも,たとえ人に伝わらなくとも,またたとえ時の為政者に切腹を申しつけられようが,「私」をみつめることのできるアートの生き方を基礎として持っていたいと思う.デザイナーの作る「実」とは器のようであって,その器にそれぞれのアーティストとしての「私」が注ぎ込まれることによって「質」が育つのだろう.われわれの若いころは,がむしゃらに実体としての「器」を作り続けていた.それでも,そこに自然と「私」が注ぎ込まれるようなアートの土壌が社会に用意されていたように思う.老いぼれて,独立した個としての機転と機能を失い,時には呆けてしまっていた年寄りたちが,実はアーティストとしてこの土壌を育てていたのではあるまいか.歴史のようにしっかりとした物語の上に存在している年寄りたちの自我は,たとえ周囲との境界さえあやふやな「私」であったとしても,社会のなかでしっかりとその役割を果たしていた.
もちろん,歳をとってからでも周囲からの要請があるならば人生のデザイン力を発揮して人の役に立つ仕事をしなければならない.ただ,いかに巧妙に器がデザインされても,それぞれがアーティストとしての「私」を持ってその器にかかわることのできるしくみが社会になければ,それは自慢のためだけの空っぽの器であって本当に人の役に立つことはない.グローバル社会の中では孤独なアーティストたちの物語が忘れ去られて,デザインを生かすアートの土壌が崩れようとしているのではないか.その一方で,人生のデザイナーとして成功を収め,この国の様々な分野で実権を握る賢人の何人かは,秀吉のようにアーティストの心を見失い,自慢話のリズムに乗って現代の黄金の茶室を作り続けようとしているのではあるまいか.

posted by トミタ ナオヒデ at 11:18 | TrackBack(0) | 論文調の独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月17日

自慢話大好き

自慢話大好き(富田直秀)

  私は自慢話が三度の飯よりも好きだ.講演や授業前には準備のために食事を忘れることもあるので,三度の飯,,云々もあながち誇張ではない.しかし一方において,学会講演や論文や,また,絵や思想や日常生活における様々な場面で「自慢」を見せつけられることには辟易(へきえき)している.自分がさんざ自慢話をしておきながら,人の自慢話をおとなしく聞かないのはいかにも身勝手だ.
  自慢,つまり,自己満足を人に誇るためには,少なくとも自分を満足させる一貫性を有していて,そこに同意や共感を得ようとする努力がなければならない.自慢自体は決してつまらないことではないが.自分を満足させている一貫性が生き生きとした柔軟性を欠いて固定化されていると,自慢はとたんに精彩を欠いて滑稽でつまらない見世物となってしまう.たとえば,私たち研究者は研究発表をする.その新しさと論理的一貫性が認められると業績となり,それを蓄積する.そうして,たいていの研究者はその蓄積された可能性への自慢に多くの労力を割いている.蓄積された可能性が世の多様性に追従できる柔軟性を有しておらずただの論理的な構造物であれば,研究は自慢のためだけのブロック玩具にすぎない.現代はレベルの高いブロック玩具ばかりが増えてしまって,徹底した試行錯誤に支えられた柔軟な研究の姿が見えなくなってしまった.
  またたとえば,私は現代の絵画や小説よりも一時代前の作品に抜き差しならない真摯さを感じる.技術だけを問うならば,現代作家のそれは決して劣っていないのではないだろうか.ただ,昔の芸術家は自慢にうつつをぬかす余裕などなかったのではあるまいか,と思う.芸術家が誰よりも自分に対して真摯であるならば,自分を離れて生き続ける作品に対して,固定化された評価は望まないだろう.高い評価を受ける絵画の狭間に,生きた作品のひっそりとした息吹は聞こえにくくなってしまった.
  最近になってフッサールを再び読んでみたが,私はその内容を理解することができない.いろいろと私の字で書き込みがしてあるが,私は本当に理解していたのだろうか.私の理解力の低さもさることながら,思想史の中に現象学を位置づけようとするフッサールの努力が,私には難しすぎて理解できない.もしフッサールが自慢を廃して,モノありきの上に構築された科学的態度への疑問を正直に表現していたならば,現象学はもっとイキイキと私たちの生活の中に溶け込んでいたのではないだろうか,などと想像している.
  自慢自体は決してつまらないことではない.自慢があるからこそ発展は意図され成功するのだろう.自身の首尾一貫した方向性に自信を持ち,そこに同意や共感を得てこそ物事は動き出す.けれども,その方向性が柔軟性を失ってモノや理屈や基準が固定化されると,自慢はイキイキとした価値を犠牲にして世の中を面倒でつまらない方向に導いていく.
  たとえば工学は,これまでの設計の考え方に大きな変更を迫られているのではないか.このお盆中に研究室の掃除をしたのだが,捨てられるペットボトルやらアルミ缶やら印刷物やらの美しさはどうだろうか.50年前であればその一つ一つがとてつもなく貴重であったであろうモノたちが,毎日ごみとして大量に捨てられている.便利な構造,安価な加工,美しい外観,,,などなどが固定された仕様として設計が行われ,モノが実現し「自慢」され,そうして役割を終えると,こうして捨てられる.モノだけではない,固定化された理屈や基準も「自慢」され役割を終えて捨てられる.いや捨てられるならば良いのだろう.固定化されたモノや理屈や基準が自慢のためだけに蓄積され,ごみとなって自然な動きを妨げている場合がある.このようなわだかまりを,私たちはしかたのないこととあきらめているが,このまま,私たちは固定化されたモノや理屈や基準を「自慢」し続けてもいいのだろうか.気が付くと,イキモノの気配のない荒涼とした世界に自慢話ばかりが氾濫しているようなことになりはしないだろうか.
  繰り返すが「自慢」を非難しているのではない.自慢のない世界は発展のない世界に等しい.ただ,固定化されたモノや理屈や基準ではなく,もっと柔軟でイキモノらしい臨機応変さが「自慢」され評価されるようになれば,世の中はもう少しシンプルになるのではないだろうか,という提案である.ものつくりの衰退,医療における無駄の問題,原発問題,,すべて固定化されたモノや理屈や基準がごみとなって自然な動きを妨げている結果ではないだろうか.


P.S.:これが今日の私の自慢話である.
posted by トミタ ナオヒデ at 12:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 論文調の独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月23日

関係性の中に存在しているのがイキモノであり,アートでもある

関係性の中に存在しているのがイキモノであり,アートでもある

  京大デザインスクール(http://www.ai.soc.i.kyoto-u.ac.jp/design2/index.html)のサマースクール用ワークショップをいろいろと考えている.私は京都市芸大の日本画科の先生方や森桃子さんと一緒に,アートやイキモノの視点を取り入れたワークショップを提案している.「機能性とアートがつなぐ642ミリメートルコンテスト」と題したその内容の詳細はまたいつかご紹介するとして,問題はいかにアートやイキモノの視点をデザインの視点の中に盛り込むことができるか,だ.たとえば,ある美術系のワークショップでは,朝とりたての野菜をよく見て描く練習をするそうだ.とれたての野菜の新鮮な感じを葉の形やら色やらの特徴で表現するのだろうか,と聞くと,いや特定の形や色というよりは,その新鮮さそのものの感じ,なのだと言う.エンジニアの私は,絵の要素は結局は形と色なのだから,そこに「新鮮さ」の特徴が現れるはずだ,,と思ってしまう.そこで,この土日を使って自分で試してみた.私は植物を描いた経験がほとんどなかったので,まず,いろいろな植物の写真を撮って,その形をなぞって形の特徴を写し取ってから絵に描いてみた.その中から気に入った植物の現物を手に入れると(この現物支給がなかなか難しかったのだが),今度は触ったり匂いをかいだりした後に現物を目の前において描いてみた.
  下に示した絵(White Dragon 1と2)がそのときに描いた2枚の絵だが,さて,どちらが写真から描いた絵で,どちらが実物を「みた」絵か,おわかりになるだろうか.描く最中にも描いた後にもずいぶん創作を入れてしまったので,また,この写真では細部が見えないので見分けるのは難しいのかもしれない.どちらの絵がデザインとして面白いのかは別問題であるとして,どちらが生き生きとしているかは(少なくとも描いた本人にとっては)明らかである.芸大の先生方が言われた,特定の形や色ではない新鮮さの感じ,も,なるほど,と納得できる.これは,絵の上手さや熟達とは関係がなく,誰でもが自分に正直に描いてみることによって感じ取ることができるのではないだろうか.繰り返すが,デザインとしての面白さは別の問題である.生きている対象を見ているとき,私たちはその周囲の風や気温や触った感触や匂いまでも一緒に「みて」いる.対象のイキモノと私とその周囲の関係性の中で,私は無意識にどこか細部に集中してどこかを無視している.そうしてそれは時間とともに移り変わっていく.形や色は絵に固定される物理的要素だけれども,たとえその形や色が実物に似ていなくとも生き生きしている感じは絵に現れる時がある.それはおそらく,絵とそれを見る人と周囲の関係性も常に移り変わっているような時なのだろうと思う.なにも描く人と対象と周囲の関係性が,絵を見る人と絵と周囲の環境の中に正確に再現される必要はない.そっくりに再現させることよりも,関係性が動いていて固定されない「しくみ」に生き生きさの根本があるようだ.さらにいえば,おそらく,結果が原因を変える「しくみ」にその秘密あるのだろう.たとえば,「みる」結果が「みる」動機を変化させるしくみが次々と多様な関係性を生んでいく.なるほど,多様で相同な関係性の中に存在しているのがイキモノであり,アートでもある.その視点からみると,時間と空間に固定された「モノ」(や「概念」)は,移りゆく関係性の残骸にすぎないのかもしれない.
  私の話はすぐにややこしくなるが,これは頭で考えるのではなく,とにかく自分でやってみないとなかなか共感を得てもらえないだろう,,,はてさて,ワークショップをどうしようか,,,,.

PS:後でこの絵を森さんに見ていただくと,「まだしっかりと対照を『みて』いないでしょう」とのこと.なるほど,おそらく,私は「みる」という時間の意味もまだ全くわかっていないのだ,,



White Dragon 1     by 富田直秀 Naohide TOMITA.JPGWhite Dragon 2    by 富田直秀 Naohide TOMITA.JPG


posted by トミタ ナオヒデ at 15:56| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月13日

面倒くさいだけで,内容のない話

  先日,芸大出身の方々と一緒に酒を飲んだ.一人の画家の方が作品の写真を持ってこられていて,私もなるべく正直にその絵の感想を述べ,このブログでも何回かご紹介したような吉本隆明氏の芸術観も聞いていただき,実際の画家の生活をお聞きして,,とにかく話は楽しく進んだのだが,,お別れした後に,私だけが浮いていたような感覚に襲われた.プロフェッショナルではない分野に軽はずみに口を出しすぎて芸術家の心を傷つけてしまったのではないだろろうか,私は,面倒くさいだけで内容のない話をしていたのではないだろうか,,と,寝苦しい夜を過ごした.
  それからまた1日が経過して,今やっと,あっ,とわかったように思う.あの時,私一人だけが文字の世界に棲んでいた.一緒に楽しく言葉を交わしていたけれども,あの居酒屋の片すみで,私の周りにだけ「文字」という違った水があったように思う.そういえば,あの時私の膝の上にあった写真の中の絵の表情もどんどんと変わっていき,文字として表現された私の感想はどんどんと意味を失って腐っていくのを感じていた.しゃべる絵もしゃべらない絵も,にこやかな絵も無愛想な絵も.作品としての上手下手や好き嫌いの以前に,そこに出会いがあったはずだ.意識的に(文字的に)見る以前に見えているなにか,意識的に描くのではなくつぶやくようななにかを,私はしっかりと受け取る前に,性急に文字としてとらえてしまっていた.たとえば,よくしゃべる作品,好きな作品,上手い作品,人の物語を受け止める作品,,,と形容詞に修飾された作品という名詞が,その言葉の法則の中で整理され理解されただけで,絵のもつ本当のつぶやきを聞き逃していた.
  そうだったのか.「みる」ということの意味を,私はまだまだわかっていなかった.今までにも同じような経験があった.芸大や建築学科の講評会に参加させていただいたとき,私の目からみると学生の間にはレベルの違いがあるように見えるのに,講評の先生方はレベルとは無関係の話に終始しているように思われた.理科系の授業では,たとえばある原理の理解度において学生の間にはレベルの違いがあって,教師はそのレベルを上げることを目的としている.その習慣からみると,講評会での先生方の言葉はわざとポイントをはずしているようにも感じていた.また,芸大のクロッキー会に参加させていただいたときに,「絵を見せてー」と私の周りに集まってきた学生に,私は大きな戸惑いを感じた.プロを目指す若い人たちの目の前に素人の絵が晒されることことの恥ずかしさに,私は戸惑ったのだ.講評会での先生方も,クロッキー会で集まってきた学生たちも,「どんなふうに生きてるの?」という出会いを,まず確かめ合っていたのだろう.その出会いがなければ,文字や数字としてあらわされる「レベル」も存在しない.私はせっかくの実感を,好きな作品,上手い作品,○○な作品,,とすぐに形容詞と名詞に翻訳してしまう.そうして,文字化された実感は安易にレベル化されてしまう.もちろんレベル評価も必要だろうけれども,そのずっと以前に生きた「出会い」を確かめ会わないと何も始まらないのだろう.芸大や建築学科の先生方は,まず,そういった出会いを教えておられた.「質」のレベル云々は教える対象ではなく,そういった出会いの中で育っていくのだろう.私はとんでもない考え違いをしていた.

  私だけではないのではないだろうか.学問にたずさわる者の多くは実感をすぐに文字として訳して,頭の中で文字の法則で処理をしてしまう.そうすることによって,一見気がきいたような物言いはできても本質は大きく外れてしまう.面倒くさいだけで内容「質」を伴わない話になってしまう.

posted by トミタ ナオヒデ at 10:02| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月10日

痛みの悪循環

「痛みの悪循環」

  痛みを感じると,なぜ痛いのだろう,といぶかしく思うが,本来,細部にまで感覚神経が張りめぐらされている身体において,痛みがないことの方が不思議なのだ.このことは,たとえば,高さの異なる靴を履いてしばらく歩いていたり,不自然な動きを繰り返していると,たいてい身体のどこかに強い痛みを生じてくることでも容易に知ることができる.痛みとは,ヒトが自然に行動する方向性を具体的に身体に教えてくれる一つの指標でもある.
  精神的な苦痛や社会の中の様々な苦痛も同じようであって,過度ではない苦痛は自然に生きる方向性を具体的に教えてくれている.身体の痛みでも社会的な痛みでも,過度ではない苦痛までも止めて安楽に安住すると,人は自然な行動を見失ってしまう,,,
  しかし,痛みの悪循環,つまり,過度な痛みがその原因をさらに助長させるような場合には,この苦痛は尋常ではない.私はこの5ヶ月間,足底腱膜炎という病気に悩まされてきた.足底にまさに針をさすような痛みがあるのだが,へたに抗炎症剤や痛み止めの注射をすると,かえって悪化させてしまう場合もある.けれども,痛みによって身体の活動性が下がり,そのために成人病を誘発するようならば,痛み止めでこの悪循環を止めるのも一つの手かもしれない.目の前にある苦痛は痛みなのだが,私たちが対峙しなければならないのはその痛み自体よりもその裏に隠れている悪循環のほうだ.たとえば,癌などの痛みは,頑固な悪循環の性質を持っているためになかなかそれを押さえ込むのが難しい.気丈に立ち向かっても,どうしても絶望を想起してしまう痛みなのだ.
  社会の中にも,絶望に似た痛みの悪循環がある.試練や関門などの,むしろ社会を自然な形に導いていた様々な痛みがどうして悪循環に陥ってしまうのだろうか.たいていは,人や組織が自然な成長を外れて癌のように増大しすぎるところに悪循環が生じるのではないだろうか.戦争や虐待の裏側には,癌のように増大し続ける何かがある.その増大し続ける何かは,それ自身も苦しいには違いないが,もう自分自身にもその増大を止めることができない.それが悪循環の特徴だ.
  人のことはまったく言えない.私自身も,過度ではない苦痛を避けて安楽に安住したり,痛みに翻弄されてその裏にある悪循環を見逃したりしている.



posted by トミタ ナオヒデ at 10:36| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月21日

まず,いいものをつくりましょう

  「まず,いいものを作りましょう」と「まず,いい論文を作りましょう」の間には,とても大きな溝がある.特にイキモノを相手とするものつくりでは,全体の動きを予測する勘と徹底した試行錯誤に始まり,徹底した試行錯誤に終わる.まず,いい論文を作っていればそのうちよいものができる,などと考えるのは,頭だけ小賢しい素人に違いない.もちろん,よい論文がよいものつくりに無関係であるわけではない,しかし,論文を成立させる合理性が,イキモノを相手としたものつくりの合理性(多様性に対峙した機能構築)とは対極にある事を知らなければ,いつまでたってもよいものつくりには到達しない,
  かく言う私も,大学における教育・研究のためにはまず良い論文を作らなければならないジレンマを抱えている.良い論文を書かなければ予算も集まらず,大学における教育義務も果たすことができないからだ.遠回りとわかっていながら論文のための研究を先行させ,予算と人を集めて徹底的な試行錯誤の体制を構築する.この試行錯誤への転換を間違えると(いや,たいていの研究者は間違えているが),研究のための研究に終始して,税金を溝に捨てる結果となる.

  日本の技術はとびぬけて優秀な勘と地道な試行錯誤に支えられているにもかかわらず,頭だけの小賢しい概念がその上であぐらをかいている.





posted by トミタ ナオヒデ at 07:50| プロフィール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月09日

吉本隆明・ばなな親子

  5月26日のブログ「秀吉嫌い : 年寄にはアーティストとしての役割がある」で吉本隆明氏の芸術論を取り上げたが,実を言うとこの人の本を読みはじめたのは,まだつい最近のことだ.作家の吉本ばななさんのお父上なのだという.ばななさんには,一度,拙書「ちゃっちゃんの遊園地」の評やらをブログに書いていただいたことがある,私の好きな作家の1人だ.
  まだ2,3冊を読んだだけで感想を述べるのはあさはかなのだが,この吉本隆明という人はなんとも徹底的に自分に正直な人だと思う.芸術論に関してこの人ほど明快な表現を見たことがない.芸術には徹底的な正直さが求められている(と私は思っている)ので,この分野に関してはこの人を手放しで信頼する.ただし政治の世界では,正直であることが必ずしも良くはない場合もある(と私は思っている)ので,政治に関するこの人の言にはやや首をかしげるところもある.要するに吉本隆明氏は,その超人的な読書量と論理性を抜かせば,きわめて庶民的で素直な人なのだろう.下町のちょっと気が強くて人の良いオッサンが「いいねえ」「ぐっとくるねえ」「てやんでい」「べらぼうよ」を言うかわりに,そこに至る膨大な指向と感性を,並はずれた知性と表現力と,素直さで説いている.その正否はともかく,この人の生き方に強いあこがれを感じる.
  さて,吉本隆明氏の本を読んでから娘の吉本ばななさんの小説を読み返すと,やはりばななさんも徹底的に自分に正直なのだが,その正直であることの苦悩とすがすがしさも見えてくる.あふれ出てくる言葉の底には,そのエネルギー源としての苦悩があるのだろうが,吉本隆明氏はそれをまったく見せずに読者を引っ張っていく文章の技巧がある.ばななさんの文章では,間欠泉のように吹き上がる言葉と,その合間の静寂とが,逆に苦悩と開放のすがすがしさを浮き彫りにしている.評論と小説,男性と女性,戦中派と現代人,親と子,,様々な違いはあるのだろうけれども,二人の文章に共通して感じる印象は「静寂」である.下町の夕暮れの軒先で将棋を指しながら「いいねえ」「ぐっとくるねえ」「てやんでい」「べらぼうよ」と世間話をしている父親と,傍らで線香花火をしたり地面に絵を描いたりして遊んでいる少女の姿が目に浮かぶ.二人ともとにかくよくしゃべってはいるのだが,そのしゃべっている言葉が直接に意味している内容よりも,下町の,夕暮れの,軒先の,そこに流れる涼しい風や,言葉に表されない悲哀やすがすがしさを,お二人とも大切にしているようだ.本人たちは否定するだろうが,日本の美しさを無意識に表現としているように私は感じる.たまたま海外への長い出張から帰ってきたばかりなので,そう感じてしまうのかもしれない.ただ,これだけ大量の文章の中に,強いことや賢いことをうらやんだり求めたりする表現はほとんど出てこない.強いことよりも,賢いことよりも,ただひたすらに自分に正直である事を最上に考えるところに日本の美しさがあるように,私は(自己満足的に)感じているので,このお二人にも日本人の美しさを(自己満足的に)感じてしまう.

(蛇足なのだが,読む人にそれぞれの自己満足を感じさせるのが,このお二人の文章の技巧,または特徴なのだろう.隆明,ばなな親子がこの文章を見たならば,,あれあれ,またこんふうに暴走する人が,,と苦笑いをするのかもしれない.)




posted by トミタ ナオヒデ at 10:09| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月08日

サッカー嫌い

 うちの研究室の学生は,サッカーがとても上手いらしい.インターハイで上位まで行ったK君を始め,サッカー同好会やフットサルサークルの現役として活躍している学生も多いのだという.とにかく世の中にはサッカー好きが多い.海外に渡航しても,食事会などではよくサッカーの話題で盛り上がる.Nakataと言えば,人差し指を振って見せて,知ってるよ excellent とうなずく外国人が,今でもたいてい1人はいる.知性的な言動と紳士的な態度で知られるあるイギリスの大学教授は,サッカーリーグの話になると論理も公平性もそっちのけで,ひたすらひいきチームファンの学生や研究員をえこひいきするという.このサッカー狂乱は,インターナショナルなのだ.
  私は,サッカーが嫌いだ.
  第一に,中学生の頃から私はサッカーが大の苦手だった.ボールが来るととにかくゴールの方向に蹴飛ばすだけで,ゴール前でもオフサイドなんぞ気にしたこともない.第二に,サッカーのゴールというものは,たいてい私の見ていない時をねらって行われるらしい.第三の理由が最も合理的だと思うのだが,サッカー競技が「狡さ」を許容しているように私には見える.狡い者が得をするのはどのスポーツも同じだが,サッカーではその狡さを公然と褒めるではないか.「わざと転ぶなー!!」「そいつを褒めるなー!!」と私は心の中で叫びながら,サッカーを観戦する.この熱いイライラの集積が,実はサッカーの人気の秘密なのだ.


posted by トミタ ナオヒデ at 22:11| 論文調の独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月26日

秀吉嫌い : 年寄にはアーティストとしての役割がある

ブログ「秀吉嫌い : 年寄にはアーティストとしての役割がある」
の内容を書き直しているうちに,絵画に関する感想が消えてしまったので,消えた文章の周囲だけをここに残して,(新)秀吉嫌い,,を9月3日に掲載します.

  たいへんもったいないことなのだが,日本画家の森桃子さんに研究室の事務の手伝いをしていただいている.以前に森さんが製作されている花の素描を目する機会があり,その線の表情が衝撃的だった.人の顔に表情があることは誰にでもわかるし,クロッキーをすると身体の表情にも少し敏感となる.けれども,植物の形にもこんなにはっきりとした表情があることを,この時ははっきりと「思い出す」ことができた.
  これは「知った」のではなく,「思い出した」のだろう.最近,創画会の藤井智美という日本画家の絵も気になっているのだが,この人の絵の場合は,絵を見た後にはそれまでなにげなく見ていた建物の壁やら木々やらに「絵」が見えるようになった.作者の強い個性に引きずられて見えてきた「絵」というよりは,これも,もともと私の中にあった「絵」を思い出したような感覚だ.
  吉本隆明氏は,良い文学作品というのは,そこに表現されている心の動きや人間関係というのが自分にしかわからない,と読者に思わせる,そんな作品だと述べている.確かに,昔読んだ小説を今読み返してみると,今の私にしかわからないであろうと思われる風景も,そこには見えてくる.絵画もそうなのだろう.「能」が徹底的に表現を削って,その舞の単純な動きの中に見る者の現実と夢の間の世界を描かせるのと同じように,日本の芸術の多くはほとんど空に近くなるまで表現の引き算を重ねていって,その空のところに見る者の世界を描かせる.芸術表現とは,AからBへ意味を伝えるコミュニケーションではなく,AはAにしかわからない表現をして,BもBにしかわからない見方をして,両者が偶然に出会うことによって生まれるものなのだろう.吉本隆明氏の言う「自己表出と自己表出の出会い」とはそういうことなのだろうと思う.

posted by トミタ ナオヒデ at 08:19| 論文調の独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月22日

「伝える」

  あるテレビ番組で新開発人工膝関節の「寿命が30年!?」などと報道された件,あらためて,科学における事実とその伝え方の問題を考えさせられた.おそらく人工関節をまったく知らない人が,摩耗量が2/3になったと聞いて再置換までの平均年数約20年を30年にしてしまったのだろう.人工関節はすり減ることによって寿命をむかえるのではない.手術の正確性や摩耗粉に対する生体の反応,材料の酸化疲労破壊などの多数の要因によって再置換までの年数が決まってくる.摩耗粉の生体反応性も摩耗量とは直接には関係がなく,またさらに新開発の人工膝関節は,摩耗よりも酸化疲労現象の抑制を主眼に開発された材料なので上記の予想方法は全くの見当違いだ.もちろん長期に用いられる期待は大きいが「30年」には何の根拠もない.
 これらのことを説明してしっかりと理解してもらうのにはポンチ絵などを用いた相当量の説明時間とわかりやすい表現が求められるのだろう.「わかりやすさ」には正しさのみならず「安心」「不安」「信用」などのそれぞれの価値観に対する共感の能力も含まれる.その説明を最後まで聞いてもらえるだけの話術も必要になる.正確な科学知識と,このコミュニケーション技術の双方を身につけた人材は,世の中にほとんどいない.
posted by トミタ ナオヒデ at 08:36| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月21日

マスコミ報道の怖さ

 昨日,ある民放で人工膝関節用ポリエチレンに係わる研究が紹介された.学生たちも映していただき,私も内心,とてもうれしいのだが,人工関節の寿命に関してはずいぶんといい加減な説明だった.
 マスコミがいいかげんだ,と言うよりは,ストーリーで人の目を引きつけなければならないマスコミと,あくまで事実に厳しくなければならない大学との間には大きな溝がある.
posted by トミタ ナオヒデ at 21:33| プロフィール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月09日

周梨槃特 chudapanthaka

  周梨槃特(しゅりはんどく,チューダパンタカ,小路,chudapanthaka,chuudapantaka)とは,サンスクリット語の名を,音写されたり意訳されたりをいろいろに呼ばれている釈尊の弟子で,わずかなフレーズさえも憶えることのできない愚者でありながらひたすら掃除をすることで悟りを開いた.インターネットを調べると,その出生から悟りを開くまでの様々な逸話が登場して,説法の方法論の例であったり,仏法は愚者を差別しない例であったり,空の思想と結びつけていたり,様々に解釈されているらしい.私はただ単に周梨槃特の記憶力の悪さに親近感を持ち,言葉や形式からの脱却の象徴としてこの名を心に刻んでいた.鴨長明の「方丈記」の中にも,「周梨槃特の行いにだに及ばず」という言葉を見つけてからは,私の中では「世に媚びない生き方」の象徴でもあった.
  この絵はもともと,クロッキー会の合間に休んでいたモデルさんを盗み見て2,3分で描いたものだが,後から,こぼれ落ちそうな書物を胸に抱えて呆然としている周梨槃特をイメージして,手と足指と髪の毛とを描き加えた.

Chudapanthaka   by 富田直秀 Naohide TOMITA.JPG
posted by トミタ ナオヒデ at 18:24| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月11日

歌舞伎(KABUKI)嫌い,その2:デザイナーかアーティストか

(歌舞伎(KABUKI)嫌い,その2:デザイナーかアーティストか)
  2011年10月03日のブログ(歌舞伎(KABUKI)嫌い」を書いてから,超格安の一等席券を手に入れる幸運などにも恵まれて,歌舞伎を何回か観劇する機会に恵まれた.結論から述べると,観劇するたびに,より歌舞伎が嫌いになり,また,より好きにもなった.あれこれご託を述べる前に,京都四條の南座で観劇した秀山祭三月大歌舞伎の内容を簡単にご紹介しよう.夜の部その一,俊寛(しゅんかん)では,平清盛への謀反を企んだかどで鬼界ヶ島に流罪となった俊寛僧都を中村吉右衛門が演じた.人里離れた孤島の殺伐とした風景の中にぼろをまとった吉右衛門が登場すると,開始早々から会場は大きな拍手に沸いた.拍手を受けて吉右衛門の表情に,ほんのかすかに浮いたような色が浮かんだ,と感じて,私は,あれ?と首をかしげた.以前に私は,歌舞伎のやくざなところ,やんちゃなところ,大げさなところが嫌いであり,また同時にそこが魅力でもある,と両価的な感想を述べた.その両価性の魅力の側を私に見せつけたのが洗練された吉右衛門の演技だった.「洗練」とは,その演技技術の高さの以前に,まず役への没頭が絶対条件だと私は考えていた.孤島での三年間の流人生活の疲弊を表現する「俊寛」の登場場面に,たとえかすかにでも吉右衛門が観客を意識していたのだとしたら,私が想像していた「洗練」とは少し違うところに歌舞伎の「洗練」があるのかもしれない.
  あの色は私の見間違いであったろうか,と迷いを後に残して,舞台上では流人たちの島の生活が淡々と表現されていく.俊寛は,2人の流人仲間と日を置かず合っては,共にその寂しさを慰め合っている.その日は,流人の一人である成経が土地の海女の千鳥と夫婦になったと聞き,みなでささやかな祝言を開く.俊寛は友人の幸福に笑い,その笑いがしだいに細く枯れて泣き声になってしまう演技でも吉右衛門は会場を泣かせた.そこへ都から赦免船があらわれて,3人は都に帰れると手を取り合って喜ぶが,赦免船から降り立った役人は,俊寛にだけは赦免はなく,俊寛の妻もすでに殺害された,と告げる.落胆した俊寛は,せめて千鳥を成経と共に船に乗せてやってくれと頼むが,これも聞き入れられず,思いあまってこの悪人役の役人を殺してしまう.罪を重ねて,たった一人で島に残ることになった俊寛が.高い岩の上から都に帰る船を見送る場面がこの劇の最大の見せ場だ.岩をよじ登り,視界を遮る松の枝を払う仕草にも,鬱蒼とした島での生活が表現されている.そうして,都を慕う気持ちの強さやこれから一人で耐えなければならない時間の重さが,吉右衛門の無言の動作の一つ一つに鮮烈に表現されていた.
  さてここで,吉右衛門が初っぱなに観客を意識する色を見せた,と感じたのは私の思い過ごしだったろうか.おそらく思い過ごしなのだろう.けれども,歌舞伎を司る人たちは顧客の感動を目標としてデザインをしているのだ,と考えれば,剛から柔へ,動から静へと豹変を見せる構成や,大げさな動作,その色,音,みえ,,歌舞伎の構成の一つ一つに,なるほど納得がいく.吉右衛門がもし仮に,感動を操るデザイナーのしたたかさをちらりと見せたのだとしても,観客はそれを百も承知なのかもしれない.能舞台が,作意を徹底的に廃したアートとするならば,歌舞伎を司る人たちはアーティスト artist よりもデザイナー designer としての誇りを持っているのではあるまいか.アーティストには原則として顧客や作意といった概念がないのに対して,デザイナーにははっきりとした顧客意識がある.やくざでやんちゃで大げさな演技は,作意や計算を恥じていないデザイナーの誇りの現れなのかもしれない.工学のものつくりにたとえるならば,歌舞伎にはおそらく顧客の要求を書き下して目標にする「仕様」さえも存在するのかもしれない.
  次の船弁慶(ふなべんけい)では,能と同じように笛,鼓,小太鼓を並べて,謡曲に似た音と場面を作りだしている.その台詞や進行は能よりもはるかにわかりやすく派手やかだ.ずらりと三味線もならび,大きな明るい舞台装置で目の前に赤々とした物語を展開してみせる.義経との別れを惜しむ清らかな静御前役と,後に海を荒らして義経の行く手を阻む平知盛のおどろおどろしい亡霊の役を同一人物(又五郎)演じるなど,ここでも豹変の妙を見せて観客を楽しませる計算がある.この歌舞伎の派手やかしいデザインに比較すると,能では背景の松の絵と通路に飾られた松の小枝以外にはこれといった舞台装置はない.事前に物語を知らなければ,話の筋さえ劇から聞き取るのは難しいだろう.薄暗い舞台と動きの少ない舞に夢うつつとなった時に,どちらが現実か夢かわからぬような境地に包まれるのが能の醍醐味だと私は感じているのだが,そこに感動を受け取るか否かはそれぞれの観客側の裁量であって,役者は観客に頓着なく,また計算もなく,ただひたすら役に没頭している.
  歌舞伎で演じられる船弁慶は,一見,能の演出を派手に,わかりやすくしただけのように見えるのかもしれないが,能と歌舞伎はお互いにまったく正反対の極致を表現しているように私には思える.作意を徹底的に廃した能がアートとしての演劇の一つの極みであるとするならば,歌舞伎は顧客の感動を仕様としたデザインとしての演劇の一つの極みなのではあるまいか.
  歌舞伎と能とどちらが好みかと問われれば,その無心さにおいて私は能を選ぶ.もちろん歌舞伎も無心の芸だが,その無心を冷静に眺めているデザイナーとしてのしたたかさもあるのではあるまいか.しかし,では時間とカネが手に入たときに,双方のどちらの公演を見に行くかと問われると,歌舞伎に行ってしまう場合が多いだろう.嫌だと言いながら悪人に惹かれてしまう女性の心理に,私のこの両価性の感情は似ているのかもしれない.歌舞伎は,やはり娯楽として格段に面白いのだ.やや的はずれな例だが,ディズニーランドと博物館のどちらに行くか,プロレスと相撲とどちらがどきどきするか,という問題にも似ているような気がする.娯楽性と言ってしまうと一見浅はかな表現だが,顧客の求めるものをしっかりと意識して,その要求に忠実に応えて設計(デザイン)を行うこと,そうして,無心の自分を冷静に眺めているもう一人の自分を意識すること.これらはデザイナーの特質というよりは,近代の仕事人に共通する特質でもあるのだろう.アートを気取らないデザイナーのしたたかさと合理性は,グローバルな社会を生き抜くための一つの処世でもあるのかもしれない.私はあくまでアートに憧れるが,しかし実際には優れたデザイナーのしたたかさに流されてしまう弱さを持っている.この私の弱さは,グローバル社会に適応しようともがいている現代人の弱さと悲しさそのものだ.

posted by トミタ ナオヒデ at 18:26| 論文調の独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月10日

デザインスクールに期待

 先日,京大のデザインスクールの集まりに参加してきた(http://www.ai.soc.i.kyoto-u.ac.jp/design2/index.html).何とも楽しい会であった.デザインを共通の基軸として,情報学,工学,建築家,教育学の専門家が,経営学や芸術系の専門家とも協力して問題解決型の教育を行うことを目的とするグループで,会合ではそれぞれの専門家が一堂に会し,デザインを中心とした話題を発表し合った.それぞれの立場から次々に勝手なことを発表したつもりでも,本質のところでは大きな共感があったように思う.私は再生医療や医療福祉機器開発とデザインとの関係を「生体環境設計」という切り口で発表をさせていただいたが,それは,情報や教育におけるコミュニケーション,工学のものつくり,建築設計やデザイナーのイノベーションとも関連し合っていた.私が医療工学の坂をたどってやっとたどり着いた尾根には,様々な分野の人が同じように登り着いていたのだ,と考えると何とも愉快だ.細分化専門化した近代科学に対する反省,そうして,設計(デザイン)という言葉の見直しの必要性を,これだけ多くの人が感じていたのだ,と思う.
元来,昔ながらの職人や芸術家は,とことんモノに触れて,見て,その膨大な関わり合い(コト)の中から引き算をしていくことによって情報を単純化して,目安(勘とか直感とかコツとか呼ばれるが)を見いだしていた.客観的に定義され命名された要素を論理的に組み立てて設計・制御を行うこれまでの工学からは,動的な自然の多様性に対処できる技術やイノベーションはなかなか生まれ出てこない.要素を分離せずに関わり合い(コト)だけを抽出して情報を単純化して目安を得る様々な手法が提案され,新たなデザイン手法として様々な分野に活かされだしている.
posted by トミタ ナオヒデ at 19:19| プロフィール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月23日

自分ができることは人もできる?

 昨日の夜,学生たちと四方山話をしていて,一つ思い出したことがあった.中学生の頃,記憶力の極端に弱い私は,歴史の年代や人の名前は読んでも書いてもどうしても憶えることができず,社会はいつも落第点を取っていた.ある日,社会の先生が採点した答案を配りながら「テストの点数はみな平等につけているが,富田は答えが違っていてもよく考えて書いていたので少しだけおまけした.」と,皆に言った.答案を見ると,確かに,少しだけ,加算されていた.
  今,教育者の立場から学生をみると,「どうしてこんなことができないのだろう.できないのではなく誠意がないからだ」と思ってしまう時がある.たしかに京大生は,できるはずだ,と強く言えばできてしまう場合も多い.そーれみろ,やればできるじゃないか,と教師は満悦する.けれども,できるかできないかでレベルを判断する「評価」とは,自分ができることは人もできるはずだ,という教師側の傲慢と,それぞれの学生が飛び抜けてできる何か,を探し出してやる教師側の誠意の欠如の結果でもあるのだ.もちろん,ある客観基準にしたがった「評価」は大切だが,それで誠意の有無や人の可能性までも判断してしまってはいけない.評価はモチベーションを高めるための一つの道具にすぎない.
  私はすっかりと忘れていた.中学生のころの先生のあの一言と、少しだけ、の点数は,本来劣等生である私を今もどこかで支えていてくれる.
posted by トミタ ナオヒデ at 08:02| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月11日

姨捨・爺捨・子捨と袂を分かつ「深く短く生かせる医療」 

  縮小研究会での発表を無事終えた.
  以前にも書いたが,これからの社会は縮小を考えなくてはならない,という,いわば「モノ」(物質やエネルギーや力などの保存量)を中心とした考え方をするグループの中で,「コト」(コミュニケーションなどの保存しない,量では表しにくい,対象化もされない)に関して話さなければならなかったので,少なからず緊張していた.講演の正式の題名は「医療技術開発におけるリスクコミュニケーションの現状」だったが,その内容の本筋は「深く短く生かせる医療」だった.「深く短く生きる」は,レスパイト医療活動をされている富和清隆先生 (東大寺福祉療育病院副院長)がよく口にされる言葉だ.医学の進歩によって障害を持つ子供は増加している.「深く短く生きる」は,難病や障害(LTI:life threatening illness)を持つ子供の家族を支援するレスパイト活動のコンセプトとして提唱されている.医療における縮小を考えるときには,自分自身が深く短く生きるだけではなく,愛する家族を深く短く生かせる選択肢を考えることが,重要なポイントになってくるのだと思う.けれども,この内容は今回の講演題名からも,また,前回のブログにも紹介した抄録からも削っている.それは,この「深く短く生かせる医療」の内容が,大きなコミュニケーションの中で語られると,姨捨思想になってしまう,と感じたからだ.姨捨・爺捨・子捨のシステムは,その根底に(生産性∝生きる価値)という概念を含んでしまう.
  まずはお互いが直接に合って信頼し合うことができる「コミュニケーションザイズの縮小」があり,その小さなコミュニケーションサイズの中で「だれもが生きるに値する」という価値観の上に立って「深く短く生きる」そうして「深く短く生かせせる」という自己選択システムが自然に生じてくることを待たなければ,この主張は姨捨・爺捨・子捨になってしまう.たとえば北欧では,スプーンを自分で持ち上げられなくなった時が寿命である,という漠然とした概念があって日本ほど食事介護が普及していない.1990年代に大熊由紀子著「『寝たきり老人』のいる国いない国」をきっかけとして,要介護者の自立を支援する欧米の文化が注目されだした.日本の介護福祉文化は,予想以上にその動きが重いが,おそらく日本においても.自己選択において食事介護や胃ろうなどを拒否するケースが増えていくのだろうと思う.けれども,これがもし大きなコミュニケーションの中でトップダウンに決められていくのならば,それは現代の姨捨・爺捨・子捨となってしまう.「深く短く生きる」そうして「深く短く生かせせる」という自己選択システムは,信頼し合う小さなコミュニケーションの中でこそ語られなければならない.おそらく,北欧にはグローバル社会の中でもそのような小さなコミュニケーションサイズを維持させているのだろう.日本における「世間」というコミュニケーションは,時として暗黙の圧力を個人に与えることがある.欧米の生活の中に維持されている小さなコミュニケーションには,個人の自由を束縛しない「しくみ」があるのだろうか,,.

posted by トミタ ナオヒデ at 23:57| 論文調の独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月04日

リスクコミュニケーションとコミュニケーションサイズの縮小

前回のブログで述べた内容は,具体例がないとわかりにくいと思います.
医工関連の講演会でしゃべる内容を少し変化させてここに掲載しますね

「医療技術開発におけるコミュニケーションサイズの縮小」

     富田 直秀
    京都大学工学研究科機械理工学専攻医療工学分野

はじめに:  医療・福祉技術が高度化すればするほど,その対価の支払いの多くを保険に頼る現行の医療・福祉制度を不安定にしてしまうジレンマを抱えている.講演では,生活及び経済活性と健康との関係を定量的に計測する効用値計算に関してその例を示し,後半に医療・福祉技術開発におけるコミュニケーション環境の役割に関して述べる.本稿では,後半の話題からコミュニケーション環境の充実による医療技術開発の適正化を提案する.専門家が机上で発案したアイデアをトップダウンに実用化させるのではなく,現場に密着したニーズの中からボトムアップに創成されるワークショップ型の医療・福祉技術開発が望まれている.

1. 医療技術と医療崩壊
 日本の次世代の成熟産業として医療・福祉技術に注目が集まっている.事実,日本発の医療・福祉技術の質の高さは世界に認められつつある.しかし,医療・福祉技術が高度化すればするほど,その対価の支払いの多くを保険に頼る現行の医療・福祉制度を不安定にしてしまうジレンマを抱えている.また一方において,難病とされてきた疾患が救命可能になった一方で,救命し得たものの,何らかの障害を残し家族や関係者が日々様々な挑戦を余儀なくされる状況も増加しつつある.そもそも医療・福祉技術は何のためにあるのか,社会経済基盤と医療・福祉の関係はどうあるべきなのか,といった哲学を欠いたまま,科学者が予算獲得のために描いた夢に踊らされているのが現代の医療・福祉技術開発の現状であろう.
本稿ではコミュニケーションの充実による医療技術開発の適正化を訴える.それは,増大する医療負担の根本原因の一つに,本来コミュニケーションで解決すべき問題がモノで解決されている現状があるからである.また,現場とのコミュニケーション,特に,医療を受ける側とのコミュニケーションがないままに,専門家の独断で医療・福祉技術開発が長年行われてきた結果,日本には臨床にとうてい使用し得ない,レベルだけが高いとされる技術が山積されているからである.
世のため人のためと鳴り物入りで開発される医療技術が,かえって医療を崩壊させる方向にも働いている現実を,開発者である我々はしっかりと自覚しなければならない.

2. リスクコミュニケーションの重要性
 技術の事業化にともなうリスクは,過誤と有害事象とに分けることができる.有害事象の中には発生頻度は低くとも,有害性がとても高く,またその防止策がとても難しい「魔の領域」が存在する.この魔の領域への対処として,従来よりリスクマネージメントの考え方が適応されてきた.相当量の安全性確認作業の後にも,確率が低く有害性の高い事象の可能性をゼロにすることは困難であるため,リスクマネージメントでは,たとえば発生確率と有害性をかけ合わせることでそのリスクの大きさを評価する.しかし魔の領域には,「想定外を想定する」という自己矛盾的な構造も内包されているため,その発生確率の定量化はきわめて困難である.また,1パーセント以下の低い確率で生じる有害事象に対する心理的な理解には限界がある.現実には,「大丈夫」「安心」といった価値観の違いが放置されたまま,価値観と関わりのない科学的説明だけが繰り返されている.
「魔の領域」の有害事象は,本来マネージメントによって対処される対象ではない.異なる価値観を有する人同士がコミュニケーションを行い,もともと何が求められているか問い直す場の設計(リスクコミュニケーション)がなければならない.科学者や専門家の多くがこのリスクコミュニケーションの立場を基本的に誤解している場合が多い.(科学に基づいた正しい情報を伝える)のみならず,その情報の上に立った(科学者自身の価値判断の自覚と双方向的な価値観の共有)こそが,リスクコミュニケーションの基本である.たとえば,発生頻度が低く有害性が高い事象に対する「大丈夫」という科学者自身の価値判断が,科学的判断として一方的に説明し得ると誤解されている場合が多い.リスクコミュニケーションでは,研究者個人が自身の価値観を自覚し,相手の価値判断を尊重する真摯なコミュニケーション能力が求められている.

3. 安心(ANSHIN)性と安全性
 「安心性」という言葉はリスクコミュニケーションの立場から筆者が造語した用語である.前述のごとく,リスクコミュニケーションにおいては,科学に基づいた正しい情報を伝えることのみならず,科学者自身の価値判断の自覚が重要となる.たとえば,人工膝関節の寿命を延ばすために筆者らが開発したビタミンE添加ポリエチレンにおいて,dl-α-tocopherol (ビタミンEの一種)を選択した最大の理由は,「身体内に存在しているから未知の危険性が少ない」と自身の価値判断(科学的判断ではない)を比較的容易に患者に説明し得るが故である.また,現在開発中の貼付型軟骨再生システムにおいてフィブロインスポンジ(絹糸をさらに精製し他タンパク質)を選択した理由も,この材料が近傍に組織を形成する cell derivery 機能を有している云々以前に,手術用絹糸として外科に用いられた長い歴史を有しているからである.これらはみな安全性を証明する情報ではなく,あくまで未知の危険性に対する主観的な安心性ゆえの選択である.
この「安心性」は安全性のように客観的定量的な評価の対象外である.医療技術においては効果のみが得られる治療はきわめて稀であり,効果と副作用とが量として対比されてその事業化が検討される.そのため定量比較が難しい「安心性」は,現場においては最重要項目でありながら,事業化プロセスの中に取り込まれにくい.しかし,たとえば整形外科分野のように直接に生命予後には関わらず日常生活の質を改善する医療分野においては,この「安心性」が事業化における最重要事項の一つとなる.
 これは何も難しいことではない,たとえば「現在あなたが開発している技術は,あなたやあなたの家族に用いてほしい技術だろうか」,あなたがもし医師であれば「あなたが患者に対して行っている同じ治療を,あなた自身や家族に対しても行うだろうか」,といった問いを医療福祉技術の開発者たち自身が自問するところに,安心性が生じる.安全性は考慮していても,本当にその技術を自分が受ける側となったときに,本当に安心だろうか,本当に必要とされている技術なのだろうか,と,まず開発者が自身のモチベーションを自覚するだけでも,現行の医療・福祉技術開発で行われている膨大な無駄のボトムアップな解決が始まると,著者は考えている.

4. コミュニケーションサイズの縮小
 かく偉そうに述べてきた筆者は,「脚」を使い実質的に医療現場を改善してきたのか,と問われれば,その答えは「否」である.おおかたの公的研究機関の研究者と同じく,筆者も文章書きと予算の獲得に奔走してきた.もし言い訳を許されるならば,論文のレベルや研究費獲得額で成果評価が行われる現行の制度下では,創造的なものつくりに必須である試行錯誤的な作業に注力することは難しい.また短期間で学生に論文を書かせるためには,試行錯誤による創成よりも論理形式を重んじる論文のための研究を選択させる場面も多い1,2).
では,研究の評価を変えれば問題は解決するのだろうか.確かに,試行錯誤を重んじる評価方法の確立は,役に立つ研究の推進にとって必須の作業である.ただ,より根本的には,現代の医療技術開発や医療そのものの巨大化・専門化がある.その巨大化・専門化に対応して,専門家間のコミュニケーションは言葉や数字を媒介としてつながれている.前述の「仕様」も現場と技術者とを媒介する言葉の一種である.言語化によって目的が明確化する一方で,利他的なモチベーションや「勘」による総合的な創造作業が希薄にとなってしまった.試行錯誤が評価されるか否かの問題以前に,試行錯誤を繰り返すエネルギー源としての利他的なモチベーション自体が衰退している.医療・福祉分野のように多様な価値観の中で試行錯誤的に育てられなければならない技術開発では,「勘」とモチベーションの欠如は決定的打撃である.直接に接することのできる距離にまで近づくコミュニケーションサイズの縮小が必要とされている.

5. インクルーシブデザイン等の動き(小さなコミュニケーションに始まるものつくり)
前述のコミュニケーションサイズの縮小に関連する様々な動きがすでに開始されている.福祉分野ではインクルーシブデザインという概念が提唱され,高齢者や障害のある人などの特別なニーズを抱えた消費者がデザインプロセスの上流工程で積極的に参加する開発が成果を出しつつある3,4,5,).思えば,医療・福祉分野において当事者である患者,障害者がその開発過程から排除(Exclude)されてきたことこそが異常な開発形態であったようにも思える.知的財産権の所属,秘密契約のありかた,試作過程の簡略化,安全性保証など実際的問題は多々あるが決して乗り越えられない壁ではない.利用者個人を含んだ(Include)ワークショップ型の医療・福祉技術開発の利点は,できあがったモノの合理性のみならず,その開発過程の真摯さ,明るさにある.直接に「ほんね」をぶつけ合う小さなコミュニケーション環境の中でヒトの多様性に対峙した技術が育っていく過程は,ものつくりの楽しさの原点でもある.

Reference
1)富田直秀.: 書を捨てず,町へ出よう 科学的事実を生活に結びつける工学. 臨床整形外科, 46(4): 348-352, 2011.
2)著者ブログ: http://tomitaken.seesaa.net/ .
3)フィールド情報学入門 ―自然観察,社会参加,イノベーションのための情報学― 共立出版 (2009)
4)塩瀬 隆之,隅田喬士,戸田健太郎,川上浩司,片井 修,聴覚障害ユーザが参加するデザインワークショップにおける情報保障,ヒューマンインタフェース学会研究報告集 : human interface 9(4), 17-20, 2007-11-21
5)西山 里利,塩瀬 隆之,西山 敏樹,他 ,看護におけるインクルーシブデザインワークショップ手法活用の可能性. 日本看護技術学会誌 9(1), 50-54, 201
posted by トミタ ナオヒデ at 18:29| プロフィール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月26日

Takoyaki(amplification of "Inori")コミュニケーションサイズのはなし

たこやき 太横左10%.JPG

  うちのかみさんは,神社のお参りやら墓参りやら仏壇への朝のお供えの時も,長々と手を合わせる.私は,祈りが物理法則まで変えて実質的なご利益をもたらすなどとは信じていないが,不幸を朗らかにやり過ごす心の準備をさせてくれるのではないか,ぐらいには考えている.私はあまり祈らないし,祈ったとしてもたいていはよこしまなお願いばかりなので,このところ不幸続きのかみさんの祈りを増幅してやろうと,1年前から休日をつかって,かみさんの祈っている姿と「色即是空,空即是色」の文字をぺらぺらの障子紙の上に描き続けている.百八十数名のかみさんと,おそらく2万字近くの文字が普通幅障子紙16枚,幅広障子紙12枚,ふすま1枚の面積に並んでいる,(写真はその一部,,写真を撮るだけでも日曜日を1日つぶしてしまう)
  話は変わるが,3月11日に「縮小研究会」という会合で,医療技術開発におけるリスクコミュニケーションの話をする.これからの社会は縮小を考えなくてはならない,という,いわば「モノ」(物質やエネルギーや力などの保存量)を中心とした考え方をする人たちの前で,「コト」(コミュニケーションなどの保存しない,量では表しにくい,対象化もされない)に関してしゃべる,,まったく異なる視点の話なので,批判で火だるまになるのかもしれない.結論は「コミュニケーションザイズの縮小が必要」となるのだが,,はてさて,理解してもらえるだろうか.
  ヒトが引き起こしているモノの増大がコントロールを失っているのは,(私から見ると明らかに)ヒトとヒトとの間の直接のつながりを超えて,言葉や数字を使ったコミュニケーションが広がりすぎているところに原因がある.絵描きでもない私がこの絵(書?)に休日をつぶすのは,言葉や数字を使ったコミュニケーションの氾濫と真のコミュニケーションの衰退に対する内なる反旗でもあるのだ,,おそらく.

(具体例がないとわかりにくいと思います.次のブログをご参照下さい.後述)
posted by トミタ ナオヒデ at 18:41| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月25日

2011年12月19日

本質は伝わらず形式が伝わる

 本質は伝わらず形式が伝わる

  (大器晩成を育てる環境)では,形式に翻弄されて本質を見失っている現代の科学技術を批判的に述べたが,もともと科学や技術がどうしても形式を離れることができない事も述べておかなければならない.前述のように,本質はなかなか伝わらず形式のみが伝わる.本質とは常に直感的であって,共通の理解の下地がなければ直感は伝わらない.私たち人間は,生得の,つまりイキモノとして共通に持っている下地で直感を伝え合うが,それ以上に様々なコミュニケーションの形式を発明してきた.言葉や数や論理性もその発明された形式の一つだろう.一見直感的のようにみえる絵画や音楽でさえ,いや芸術分野にこそコミュニケーションのための精緻な形式を有している.芸術家たちは共通の形式の器にそれぞれの本質を注ぎ込み,かろうじて自分の存在を文化という形式の中に位置づけている.自分の両の手だけで水(本質)をすくってもそれを人に与えて飲ませるのがなかなか難しいように,芸術という公のコミュニケーションでは,技術(形式)という器を使って本質を伝え合い,結局のところ本質そのものよりも器(:技術:形式)の良し悪しと容積が,その質として評価されてしまう.それはたとえば,優れた技術(形式)を有する芸術家のいかにも気の抜けた演奏や作品に接しても,また逆に,たどたどしい演奏や作品の生き生きとした生命感に圧倒されても,なお,本質は形式を離れることができないだろうと思う.両手に水をすくって水を差し出すような形式にとらわれない芸術を私はこよなく愛するが,それは独りよがりかもしれないし勝手な思い込みかもしれない.プロフェッショナルとして文化を伝える者が,形式や伝統を重視することは,一つの責任でもあるのだろうと思う.
  これと同じように.科学技術や合理性そのものもコミュニケーションのための形式であろうと思う.繰り返えせば,本質は常に直感的で,同じ理解の下地がなければなかなか伝わらない.私たち人間は,生得の,つまりイキモノとして共通に持っている下地を超えてコミュニケーションを交わすために,科学技術や合理性という形式も発明してきた.たとえば,医療・福祉技術において,私たちは技術という形式の器にそれぞれの価値観を注ぎ込み,かろうじて私たちの生命や健康を医療・福祉技術という形式の中に位置づけている.技術によって生きていることの意味が伝わるわけではないけれども,医療の現場では医療・福祉技術という器の良し悪しと容積が,どうしても評価される.それはたとえば,高度な医療・福祉技術を有した医師が医療の本質を無視してモノのように患者を扱う姿を見ても,また逆に,たどたどしい技術でも心のこもった診療に感謝しても,なお,技術や合理性という形式は医療にとって大切なのだろうと思う.形式がなければ,独りよがりや勝手な思い込みが横行してしまう.もちろん,個人的には技術(形式)だけで心の通じない医療は大嫌いだが,医療・福祉に技術という形式を与え,それを客観的に評価し,事業として成り立たせていくことは,医療・福祉技術にプロフェッショナルとしてたずさわる者の責任でもあると思う.
  現代の科学技術が形式に翻弄されてその本質を見失っている事は先にのべたとうりだ.医療技術に医療の本質が在るわけではないことも当然だと思う.しかし,形式を離れた本質はその姿を捉えることができず,かえって独りよがりや勝手な思い込みを作りだしてしまう.似非科学や証拠のない治療が横行したり,また逆に事実を確かめずに名だけでいかがわしいと決めつけてしまう事の弊害は,私たちの日常や科学技術の世界にまで深く浸透している.形式の中には本質がないことを十分に認識した上で,本質を注ぎ込むことのできるしっかりとした器(形式)を創り出すのが私たちの仕事なのだろうと思う.そうしてもちろんのこと,新しい器(形式)を創り出すためには,その形式を十分に理解したうえでそこをいったん離れて本質に立ち戻ってみなければならない.
  千利休が粗末な器に国の財政にも近い値段を付けたのは,モノや形式は本質ではなく器であって,しかし良い器には想像を超えた価値をそこに注ぐことができるのだ,という象徴であったように,私には思える.
posted by トミタ ナオヒデ at 09:53| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月30日

大器晩成を育てる環境

大器晩成を育てる環境

  本質はなかなか伝わらず,形式のみが伝わる.たとえば,私が担当しているある授業では,ある一つのトピックに対してその真実をボトムアップに定めることとした.授業中に問題を提示して,班ごとにその解答を考える.次に各班の代表者がそれぞれの解答とその根拠を説明する.最後には班を解消して,それぞれの個人がどの代表者の説明に一番納得したかを明示してレポートを書く.そのクラスの大多数が至った解答を真実と認めてそれ以降の授業を進めることとした.幸い,大多数の学生が現在真実と信じられている解答を選択したので,以後の授業を無理なく進めることができた.しかし,誰の説明に納得したか,に関しては興味深い結果が得られた.形式的に専門用語を並べただけで本質的には間違った説明をした代表者と,本質を語ったが説明がたどたどしかった代表者では,前者の方がより多くの賛同者を得たのだ.
  昨日まで関わっていたある学会の賞の審査でも,結局のところ形式の整った論文を多数発表している研究者が優先された(ように思う).研究のように本質を追究する場においてさえ,本質はなかなか伝わらず,形式のみが伝わるのだ.一般に,優秀と呼ばれる人たちは本質から形式への衣替えが実にスマートなのだと思う.何かがわかると,それをすぐに形式として表現してみせる.わかった本質がすでに形式的であるのかもしれない.もちろんのこと,本質を直感するだけではなく,きちんとした形式で表現され,次に実証を経て初めて真実と認められるのだから,形式化も真実追究の重要なステップだ.問題は,本質がわかっていなくても形式だけで評価されるためのテクニックが,受験ばかりではなく学術分野や私たちの生活の中にまで深く浸透してきてしまっていることだ.
  かつて,夏目漱石が英文学研究の官費留学生としてロンドンに留学した時のこと.彼は文部省への報告書を書くことができなくなり、白紙の報告書を送って「漱石狂えり」と噂されたという.おそらく,漱石は本質を知るが故に形式への衣替えができなかったのだろう.漱石は絶望の中から,自分を徹底的に見つめる「個人主義」に活路を見いだした.これは文学の話だが,さて,凡人教育者の私たちは学生たちにどのような背中を見せるべきなのか.本質とは本来直感的であって,あまりにスマートな形式化は真の創造性を離れている,と,個人的には思う.大器晩成型の学生が,つまり本質をしっかりと見つめているがゆえにその形式化と表現が不得手な学生が,ゆっくりとその真実性を表現していくような,そんな環境を私たちは彼らに提供しているのだろうか.高く評価されるための形式のテクニックに翻弄されている,そんな後ろ姿を見せてしまっているのではあるまいか.
posted by トミタ ナオヒデ at 12:58| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月03日

歌舞伎(KABUKI)嫌い

  歌舞伎を,私は食わず嫌いで,昨日までは一度も見たことはなかった.名古屋の御園座「第四十七回吉例顔見世」で,生まれて初めての歌舞伎を体験してみると,まずは,そのおもしろさに白旗をあげざるを得なかった.能楽に比べるならば,そのやくざなところ,やんちゃなところ,大げさなところが鼻につくだろうと思っていたのだが,逆にそこが歌舞伎のおもしろさの肝でもあるようだ.
  たとえば,「双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)」では,人気力士濡髪長五郎と素人力士の放駒長吉の達引と侠気を描いた,,とあるが,要するに今の相撲界で問題になっている八百長相撲が,昔は侠気で堂々と行われていたことを背景にしている.濡髪は,自分を贔屓(ひいき)する若旦那の与五郎と遊女との仲を取り結ぶために素人力士の放駒にわざと負け,それを知った放駒は怒って,頑として濡髪の願いを聞き入れない.八百長をした濡髪は世をわきまえてどっしりとした貫禄のある役柄として吉右衛門が演じ,不正に怒った放駒にはどこか慌て者で活きの良い役柄を与え,さらに若旦那を染五郎が純真に演じることで,八百長というやくざな罪を人情話として笑い飛ばしている.特に吉右衛門の演技は,大げさ,であることの深さを見せつけて,私の歌舞伎嫌いを笑い飛ばしていた.次の「棒しばり」では,主人の留守にいつも酒を盗み飲んでいる家来二人を登場させて,主人に縄で縛られてもなお二人で協力して酒を盗んではしゃぎ回る役に,ついこの間,酒の席での喧嘩で謹慎になったばかりの市川海老蔵と,テレビでも人気役者の三津五郎を登場させて,はちゃめちゃの酔いどれを演じさせる.これも,いかにもやくざでやんちゃで大げさだ.最後に,「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」では,夜ごとに吉原で喧嘩に明け暮れている色男;助六を,海老蔵の父,市川団十郎が演じる.さんざんの悪口の言い合いと理不尽なけんかの末に,助六が誰かれかまわず悪態をついて相手に刀を抜かせるのは,奪われた宝刀;友切丸を捜し出して母に返すためであった,とする物語である.それぞれ要約すると短い物語だが,絶妙の間で現れる音は混沌とした心にはっと響き,台詞の言外に込められた意を汲み取るために目は舞台に釘付けとなり,直線に仕切られた色彩は非日常の物語を何千倍にも豊かに表現してみせる.
  さて,これらの物語は正義という基準に照らせばみな罪となる「やくざ」な主題だ.大げさに人情をひけらかし,罪にはしらーとそっぽを向くようなところが,私の歌舞伎嫌いの一つの要因だ.その思いに変わりはないが,実際にその場で観覧していると,そのやくざなところを何か大きな優しさのような概念で包んで愛嬌のある「やんちゃ」に換えてしまうところがある.この正義よりも人の良さを優先させるところは,たとえば山本七平氏に言わせれば,人情ある良い人を教祖とする「日本教」の教義なのだろうか.私は.先の相撲の八百長問題や海老蔵の喧嘩には眉をしかめる自称堅物であるが,歌舞伎に表される「やんちゃ」を大いに楽しんでしまったところをみると,山本七平氏言うところの日本教徒の心も持っているのだろう.山本七平氏は,ユダヤ教と対比させてこれを日本教などと表現したが,もしやこれは人類誰もが持つ母性へのあこがれなのではあるまいか.つまり,極端に未熟な状態で産み落とされて母親に育てられるヒトという種は,弱肉強食の「やくざ」な話を,何か大きな優しさのような概念に包まれた「やんちゃ」に換えてしまうような,共通した心の故郷を持っているのではあるまいか.食わず嫌いだった歌舞伎にも,一旦その懐に入ってみると,そこはかとない心の世界も垣間見える.
  たった一回の体験で歌舞伎嫌いを返上するわけではないが,その,言よりも言外を重んじ,音よりも間を重んじ,さらにやくざなところ,やんちゃなところは,良くも悪くも日本文化の一面を表しているには違いないだろう.グローバル社会の中で,日本文化のもつ不合理は今も世界から不思議がられている.近年のインターネットの普及によって日本文化が文字を介さずに動画として紹介されるようになってくると,その不合理が許容されて合理ともなっている社会の複雑性や,グローバル社会におけるローカルの意味が世界の場でも論じられる日が来るのかもしれない.これは社会文化のみならず,現在私が仕事の上で対峙している問題「いかに技術の質を育てるのか」にも深く関わっている.貧乏学者にはずいぶん高い授業料ではあるが,日本文化と社会の表と裏を知る上にも,歌舞伎はよい教材なのかもしれない.


posted by トミタ ナオヒデ at 13:42| 論文調の独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月01日

やりたいことが,ひとのためになる,,

  昨日,「京都大学は東北大震災に対して何ができるのか」を話し合うタスクフォース会議に参加した.現地から寄せられている問題には,お金と,技術と,時間と,そうして,それぞれの価値観ががんじがらめにからまっていて,どれも一筋縄に解決できる内容ではない.大学人は,懐に持った比較的単純で論理的なモデルを見せては,このモデルの実物を働かせればきっと役に立ちますよ,などと提案をする.そう理屈どうりに現実の事が運ぶのか否かはおいておくとして,まずは,その様々なモデルを(お偉いさんではなく)だれよりも現地の人たちに見てもらって,役に立ちそうなモデルとその提案者を現地に派遣するようなシステムが,まず必要なのだろう.現行の科学技術政策のように,お偉いさんが脚を使わずに書類だけで選考するような方式は,この場面ではおそらく全く機能しない.
  しかし,より根本的そうして概念的には次のように思う.震災によって生じた多くの不自由を,どのようにして皆で負担するか.という視点で国全体が動かざるを得ない中で,大学の役割は,誰もが不自由を負担せずにすむ妙案をひねくり出すことなのではないだろうか.あまりに楽天的な考え方だろうか.しかし大学人とは,そうして特に京都大学の研究者は,「自分が自由にやりたいことが,結果として人のためになる(かもしれない)」ことを社会に認めさせた集団なのだと,私は信じている.ここで言う「自由」とは,freeにやりたい放題できるという自由ではない.学問に伴う苦労や苦悩は,それ自体がおもしろく,また自由であると感じるところに学問の自由がある.学問の自由とは,賢ければfreeにやりたい放題できる自由なのではなく,大きな社会的な義務を負った自由である.ただし,その社会的な義務をも「おもしろさ」に換えてしまう妙案を,たいていの研究者は持っている.おもしろくなければ,自由でもない.この,社会的な義務をおもしろさに換えてしまう能力を発揮して,たとえば,困窮する現地の人にかえって労働を課して,それが地域の朗らかな活性になるような妙案はないだろうか.たとえば,放射能汚染が低線量照射の資源となるような活用法はないだろうか,たとえば,たとえば,,,.研究者は,結局のところ子供なのだろうと思う.この子供じみた多様なアイデアの中にこそ,起死回生の妙案があるに違いない.
  繰り返すが,大学人とは,そうして特に京都大学の研究者は,「自分が自由にやりたいことが,結果として人のためになる(かもしれない)」ことを社会に認めさせた集団なのだと,私は信じている.京都大学が大切にしている自由とは,社会貢献と利他意識とを内在させた自由である.今回の大震災は,研究者の「やりたいことが,人のためになる」事を事実として証明する好機でもあるのだろう.何とかこの天の邪鬼の頭脳を結集して,悪循環を断ち切り,不自由を克服する妙案をひねくり出せないものだろうか.

posted by トミタ ナオヒデ at 12:17| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月26日

「リスクコミュニケーション」と「モチベーションマネージメント」

「リスクコミュニケーション」と「モチベーションマネージメント」

           京都大学工学研究科機械理工学専攻医療工学研究室
                             富田 直秀

  技術の事業化にともなうリスクは,過誤と有害事象とに分けられる.また.有害事象の中には発生頻度は低くとも,有害性がとても高く,またその防止策がとても難しい「魔の領域」が存在する.この魔の領域への対処が,特に人を対象とした技術のリスクマネージメントにとってとても重要となる.しかし,相当量の安全性確認作業の後にも,確率が低く有害性の高い事象の可能性をゼロにすることは困難であり,また,低い確率の危険性に対する科学的理解には心理的な想定限界があるため,「大丈夫」「安心」といった価値観にコンフリクトが生じると,異なる価値観を有する人同士がコミュニケーションを行う場の設計(リスクコミュニケーション)が必要となる.
  しかし,科学者や専門家の多くがこのリスクコミュニケーションの立場を基本的に誤解している場合が多い.(科学に基づいた正しい情報を伝える)のみならず,その情報の上に立った(科学者自身の価値判断の自覚と双方向的な価値観の理解)こそが,リスクコミュニケーションの基本である.たとえば,発生頻度が低く有害性が高い事象に対する「大丈夫」という科学者自身の価値判断が,科学的判断として一方的に説明し得ると誤解されている場合が多い.リスクコミュニケーションでは,研究者個人が自身の価値観を自覚し,相手の価値判断を尊重する真摯なコミュニケーション能力が求められている.
  また,総じて,我々公的研究機関の研究者は公共の福祉を看板に掲げているが,多くの場合は現場を知らず,日々論文書きと予算の獲得に奔走している.論文で仕事が評価される現状のシステムでは,論文になりにくい試行錯誤的な作業は軽視されがちである.一方,企業は利潤を追求するが故に,リスクが小さく市場の大きなマーケットが優先され,その結果として医療費が増大し,必要とされている技術の実用化が阻まれている現実がある.これらの根本的な解決のためには,トップダウンに開発の方向性をコントロールする(ex.アンメット・メディカル・ニーズ)だけではなく,また,文章化された目標に向かって技術を開発するだけではなく,技術者が能動的に現場に関わり,そこにある問題を試行錯誤的に解決しようとする動機を育てるモチベーションマネージメントが重要である.
  資源のない日本が今日成り立っているのは,「質」の高い技術をたえず創り出してきたが故であり,ヒトを対象とする技術において「質」を育てる基盤として,上記のリスクコミュニケーションとモチベーションマネージメントはきわめて重要である.医療・福祉分野では,プライバシー保護等の観点から,現場と開発とのコミュニケーションの多くが文章を介しており,現場性の高いリスクコミュニケーションやモチベーションマネージメントが育ちにくい環境にある.たとえば,単なる延命や苦痛の除去を目的とした技術は必ずしも現場の問題を解決せず,何が「良い」技術かを体感することが,まず大切である.この問題を解決するために,当研究室では現場と開発者を結ぶ様々なコミュニケーションの場(医療福祉現場の方々と,研究者,学生,企業を交えたブレインストーミングの開催1)等)を行ってきたが,やはり,上記の現場性の体感においては不十分であったと反省している.今後,可能であれば現場性を考慮して,研究者が現場を訪れる研修なども企画していきたいと考えている.

(参考)
1. 近畿地域における革新的な医療福祉機器開発に関する調査研究報告書(平成22 年3月)  http://unit.aist.go.jp/kansai/innovation/report201003.pdf
2. 富田直秀.: 工学からみた整形外科 3書を捨てず,町へ出よう 科学的事実を生活に結びつける工学. 臨床整形外科, 46(4): 348-352, 2011.
3. 著者ブログ: http://tomitaken.seesaa.net/    その他
posted by トミタ ナオヒデ at 12:07| 論文調の独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月10日

自分のやりたいことが,,

  昨日,数年前に修士を修了した卒業生が研究室に顔を出してくれた.彼は,私がいつものようにふっかける無理難題を,最後にはなんとか形にしてしまう,優秀で多能で頑丈な人物だった.社会人らしい風貌も身につけて,かわいい嫁さんまで連れてやってきた彼を目の前にして,私は,そうして研究室は,いったい彼に何を与えることができたのだろうか,と自問する.
  学生の頃の私は,人に命令されるよりも自分であれこれと探して実験をするのを好んだ.指導する立場となった今も,研究の目的は学生自身が探す方が,つまり,こんな事が求められているよ,けれども,やりたいことをやれよ,と突き放されるほうが良いのだ,と決めつけている.しかしそれは,自分の専門性さえまだままならない学生たちにとっては,極限に近い重労働だ.Probrem oriented research と言うと聞こえはいいが,当の研究者たちは七転八倒の思いをして,やりたいこと,と,やらなければならないこと,を結びつけていく.うまく事が進むと,独創的で,生き生きとした研究になるのだが,どの分野の研究とも判断がつかない,悪く言えばお手製の研究論文ができあがる場合もある.今日訪問してくれた卒業生が研究室にいた頃は,ちょうど細胞培養を用いた実験系を構築し始めた頃で,今にして思えば機械系の学生には無理難題をそれぞれの学生に強いていたと思う.彼は,現在はエンジン部品の開発を行っているのだが,同僚たちに学生時代の研究内容を話すと,皆びっくりするのだという.「それでも,うちの研究室に入って良かったと思うか?」とは,少し怖くて聞けなかった.目の前の卒業生は,かわいい嫁さんと並んで,ただにこにこと笑ってこちらを見ている.
  ところで,「持続的に役に立つしくみ」つまり,事業化を,医療科学の世界でも実現させるのが,私の一つの夢だ.近年では,研究費獲得のために基礎の研究者までもが,事業化事業化,と言うが,これはそう甘いものではない.もともと,政策や計画や原理といった,研究者がお得意のトップダウンの考え方だけでは実現することは不可能だ.ボトムアップに,関わるひとりひとりがモチベーションを持ち,しかも,「自分のやりたいことがヒトのためにもなる」という処世と力量を身につけることが,まず第一の条件なのだ,,,,,,
  「で,今は,自分のやりたい仕事をしているのか?」と,この卒業生に聞くと,「今は満足しています,将来はわかりません」と言う.微妙なところだ.彼のことだから,職場では大いに認められているに違いない.しかし,ここから先に,彼が大きく躍進する時には,なにが必要なのだろう.そのときに「自分のやりたいことがヒトのためにもなる」ために,大学は何を教えておくべきなのだろうか.座学とテストの繰り返しだけではだめなのだと思う.しかし,指標を与えずに漠然とやりたいことを探させるのも,雲をつかむようなものなのかもしれない.まず,自分はいったい何ができて,何ができないのか,をしっかりと自覚させるところから始めてやらなければならないのだろう.
  計画された実験系を最初から学生に示してみせる,いわゆる「ここ掘れわんわん実験」を,私は大嫌いなのだが,「ここ掘れわんわん実験」は,たしかに,一つの確固とした方法論を学生に教え込むことができる.つまり,ある専門の範囲内で事実をしっかりと確定させていく作業を体験させることができる.第一,ここ掘れわんわん実験の構築には多大な努力と才能とが必要なのだ.私も,これを避けていてはいけないのかもしれない,と思う.おっさんのように少し広くなった卒業生の背中(と,しつこいようだが,並んだかわいい嫁さんの背中)を見送って,改めて教師の責任の重さを思う.
posted by トミタ ナオヒデ at 08:35| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月11日

「生きている時」を内包する形

Delight2     by 富田直秀 Naohide TOMITA.JPG手と脚.JPG
  素人クロッキーでも、たまに対象に没頭すると、実際には見えていない無意識の線が画面に現れる。描き写した線を名詞とすると、無意識に現れる線は動詞のように作用して勝手に語り出す.左の絵の線は、一般的な人体の線の美しさをむしろ否定しているが、まるで「生きていることに醜さなどないのだ」と主張しているようだ。もちろん,描いた私自身は全くそのようなことを意識していないが,描かれた線が勝手にそれを主張しているように,私には思える.
  右の写真は、ある障害児と私の手の写真である。動きを奪われた手と脚とは、たしかに私たちが見慣れている平均の形とは異なっている。けれども、生きている形の美と、そうして愛おしさがここに感じられる。私が感じているこの生命感は、写真の中に表されているだろうか。実際にふれて感じた者だけに伝わるものなのだろうか、、
 形はどこまでいっても単なる形、描かれた線は単なる線にすぎない。美しさは、それを見る主体の中に生じる化学現象にすぎない。客観的論理的に美術を捉えるならば,ある主体の中で美と捉えられた独りよがりが,ある集団の中で集団よがりに拡張したにすぎない。ただし、この化学現象には,生きていることに共通の普遍的な「時間」があるのかもしれない。もちろん,時間の普遍性には何の保証も無いが、そのような「時間」を信じていた方が,つまり,わたしたちが孤独ではないことを信じていた方が,生きるのに便利ではないか.
posted by トミタ ナオヒデ at 11:37| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月04日

イキモノ生物の特徴「生き物ってなに?(その2)」



イキモノの特徴「生き物ってなに?(その2)」

(7月3日のブログ「生き物ってなに?(その1)」を,まず先に読んでみてください.自分でいろいろと考えたり悩んだりしたあとに,ここを読んでみてください.)

  生き物ってなに?(その1)では,「どうして,私たちは,イキモノが「自分」を持っている,と感じるのでしょうか」,という質問で終わりました.皆さんは,どんな答えを頭に浮かべましたか?生き物ってなに?(その2)では,もっとびっくりする質問からはじめてみます.「どうしてあなたは,あなたが「自分」である,と感じるのでしょうか.」

  あなたが「自分」であることは,理由も何もなく,当然のことですよね.これこそ答えのない質問のようです.けれども,じつはこの質問には答えらしきものがあります.
  あなたは,「自分のしていることがまるで自分がしていないように感じる」とか,「自分が自分ではないように感じる」と,こんなふうに感じたことはありませんか?これは別におかしなことではなくて,誰でもが時々は感じてしまうこころの状態だそうです.

  たとえば,人は考えるしくみや言葉を記憶するしくみを進化させて文明を築きました.けれども,この考えるしくみや記憶するしくみはいつもいつも働いているわけではないですよね.眠っている時や疲れている時には,考える能力も記憶する能力もちょっと休んでしまいます.
  自分を「自分」であると感じるしくみも,考えるしくみや記憶するしくみと同じように,いつも働いているわけではないと考えられています.ですから,あなたが「自分」であることはあたりまえですが,そう感じることは,あたりまえではありません.自分を「自分」であると感じるしくみが休んでいるときには,先ほど書きましたように,「自分のしていることがまるで自分がしていないように感じる」とか,「自分が自分ではないように感じる」と,こんなふうに感じることがあります.

  「自分」とは何か,これは,まだ誰も答えることのできない人類の一番のなぞです.けれども,少なくとも人間には,自分を自分と感じることができる「しくみ」があることは確かのようです.ここから先は私の想像ですが,そのしくみを使って,私たちは生き生きとした感覚を感じたり,ほかの人や,ほかの生き物や,時にはほかのモノにまで「自分」を感じることができるのだと思います.そうして,「自分」を感じた,他人や他のイキモノや,時には他のモノに対して,私たちはまるで自分のようにそれを助けたり大切にしたりすることができるのだと思います.
  一人の人間だけ,一種類のイキモノだけ,そうしてイキモノだけでは,この地球上に生きていけないことは明らかですから,この,「他人や他のイキモノや他のモノに「自分」を感じることのできるしくみ」は(もしそれが本当にあるのならば)イキモノのもっとも大切なしくみのひとつかもしれません.


posted by トミタ ナオヒデ at 23:06| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月03日

イキモノ生物の特徴「生き物ってなに?」その1


イキモノの特徴「生き物ってなに?」(その1)

(6月16日の「イキモノの特徴」を少しだけわかりやすく書き換えてみました)

  イキモノにはいろいろなおもしろい特徴があります.とてもやわらかいのにとても強い,しかも,しばらくすると形がもとにもどります.またイキモノの体はいろいろなところがヌルヌルです.関節や消化管の中,からだの外側がヌルヌルの動物もいます.なんでヌルヌルなのか,なぜそんな体が作れるのか,まだよくわかっていません.生体材料学,再生医工学や生体摩擦が私の専門なので,いつもは,やわらかくて強くてヌルヌルのイキモノの話,そんなイキモノの体をどうやって再生させるのか,という話をするのですが,今日はもっと不思議な話,「イキモノってなに?」を考えてみます.

  「イキモノってなに?」と聞かれても,実は,まだだれも正確に答えることはできません.イキモノはそのいちばんもととなるところがまだよくわかっていないのです.「イキモノってなに?」と聞くと,ある中学生は「こころがあるのがイキモノだと思う」と答えてくれました.これはあとでも述べますようにとてもすばらしい答えなのですが,「じゃあ,こころ,ってなに?」と聞かれると,また頭を抱えてしまいますよね.わかっている言葉だけをつかって,なんとかイキモノを説明できないでしょうか?

  たとえば,私の横に1年前の私がいたとします.1年前の私も今の私も形や機能はあまり変化していません(あまり勉強も成長もしていない,ってことですね).けれども,骨や歯以外の私を作っているほとんどのモノは入れかわっています.ぱっと見ただけではわかりにくくても,長い時間をかけてみますと,イキモノはモノとまったくちがっています.イキモノの体(モノ)はどんどんいれかわっているのに,イキモノの形や機能は残っているのです.時間を越えて続いているのはモノではなくて「しくみ」です.そうして,そのしくみはたいてい,「自分を残すため」のしくみであるようです.ですから,ここではまず思い切って「イキモノとは,自分を残すしくみである」と言ってしまいましょうか,

  さて,では次に「自分を残すしくみ」のなかの,「自分ってなに」を考えてみましょう.私たちは,イキモノには「自分」があるようにどうしても感じてしまいますよね.ある種の結晶はイキモノのようにどんどん増えますし,こわれたところが自然になおってしまう材料や,人間そっくりの形をしたロボットもいます.けれども,そんな結晶や材料やロボットがイキモノか?といわれますと,ちょっと違うように思いませんか.私がそう思うのは,それらが,みな「自分」を感じたり,自分からいろいろなことをしようとする「意志」がないように見えるからです.細菌のように小さなイキモノでも,私たちはなにか生きようとする「意志」のようなものを感じてしまいますね.なぜそう感じるのでしょうか?どうして,私たちは,イキモノが「自分」を持っている,と感じるのでしょうか.

(ここまでで,一度いろいろと考えてみてくだされ.)
イキモノ生物の特徴「生き物ってなに?(その2)」 に つづく,,

posted by トミタ ナオヒデ at 16:01| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月20日

モチベーションマネージメント

  総じて,我々公的研究機関の研究者は世のため人のためと看板を掲げているが,結局のところ自分のために日々論文書きと予算の獲得に奔走している.論文で仕事が評価される現状のシステムでは,論文になりにくい試行錯誤的な作業は軽視されがちである.一方,企業は利潤を追求するが故に,リスクが小さく市場の大きなマーケットが優先され,その結果として医療費が増大し,必要とされている高リスク技術の実用化が阻まれている現実がある.
  私が携わったビタミンE混合ポリエチレンの開発に当たって,私自身は論文書きと予算の獲得に翻弄されてきた.しかし,プロジェクトメンバーの方々は「とにかく,いいモノを作りましょう」と利益を度外視して開発に当たられたり,また当時大学院生だったT君は「本当の安全性は生体反応を確かめてから」と,単独イギリスに留学して生体反応性を評価した.多くの人の利他的なモチベーションによって開発は実用化に至ることができた.
  資源のない日本が今日成り立っているのは,「質」の高い技術をたえず創り出してきたが故である.私は最近,各種精密加工,船外機などの開発や,新しい価値を生み出している芸術分野など,生活に密着して「質」を創り出してきた開発例の調査をしているが,それぞれに共通する基盤は,良いモノを育てようとするグループの共感と徹底した試行錯誤である.その土壌の上に技術やビジネスモデルの合理性が加わって初めて「質」が育っている.しかし,医療・福祉分野での開発では,利他的なモチベーションの収束場所が定まっていない.医療現場では,単なる延命や苦痛の除去は必ずしも「良い」とは限らず,何が「良い」技術か,がまず多くのプロジェクトで捉えられていない.技術者が医者の求めに応じて受動的に技術を開発するだけではなく,エンジニア自身がそれぞれの価値観に従って能動的に現場を「みる」そうして,そこにモチベーションを持って関わるための環境作りと,モチベーションマネージメントが重要であるが,残念ながら日本にその土壌はまだ無い.

  これは,私自身への反省の記でもある.私のようなわがまま人間にとっては,利他的なモチベーションは当たり前でも義務でもない.直接に多くの人と接して,「みて」,コミュニケーションを交わして,やっと利他的なモチベーションが育ってくる.しかし,だれでもがそうなのではないだろうか,,

  ここで「みる」とは,自身の価値観をも含めて能動的に対象とかかわることだ.絵を描くとよくわかる,へたくそでも歪んでいても「みる」を経た絵はどこか生き生きしている.世の中全体が,この「みる」を忘れて,上手な絵ばかりを描こうとしているのではないだろうか.たとえば,最近の臨床医の症例報告では,データばかりが並べられていて,この人は病気の原因を追究するばかりで,本当に患者を助けようとしたのだろうか?と疑問に思えてくるときがある.大きな予算を得てレベルの高い雑誌への論文を次々に発表している医療技術開発のプロジェクトをみると,この研究者たちは本当に医療現場を良くしようとしているのだろうか?と不思議に思うときがある.かく言う私自身も,同じ穴の狢だ.しっかりと「みる」ことを失って,見栄えばかりを気にしている.

  そんな時代なのだろう.しかし,医療に関してはこのままではいけない.このままでは何かが壊れる.

posted by トミタ ナオヒデ at 11:08| プロフィール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月16日

イキモノの特徴

イキモノの特徴(7月3日のブログに,わかりやすく書き換えました)

  昨日の授業で,「イキモノの特徴を一言で述べてみよ」と問うと,ある学生が「自由意志を持つモノがイキモノである」と言う.すると別の学生が,「イキモノといえども物理化学法則に従っているのだから,本来,自由意志など無いと思う」と反論した.自由意志に関わる根本的な議論である.この論議に対して,哲学者でもない私は,壇上から top down に学生たちに述べるべき言葉を持たない.ただし,1人の(哲学を専門としない)個人としては,以下のような考えを頭の中に持っている.昨日は,ややごまかして終わってしまったので,(もちろん,これは正解ではないが)私の個人的な意見をここに示しておこうと思う.

(ちなみに,授業ではこのようなややこしい話はいっさいなく,生体の材料としての特徴(やわらかくて強いゴム弾性,形がもとにもどるはなし,ぬるぬるの生体摩擦)や,医療産業の現状などの(まっとうな)講義をしますので,学生諸君はご心配なく.)



  「イキモノの特徴を1行で述べてみよ」と言われれば,私ならば「自己存続の仕組みを持った散逸構造」と表現するだろうか.散逸構造とは,エネルギーや物質の流れの中に自己組織的に現れる比較的安定な構造で,たとえば,1年前の私は,現在の私と形・機能ともにあまり変化していないが,骨などの代謝の少ない一部の組織以外は私を構成する元素のほとんどが入れ替わっている.イキモノはモノとその存在様式がまったく異なっている.イキモノで存続しているのはモノよりも,情報である.(エネルギーや物質は保存量であるが,情報は保存量ではない.このことがイキモノの解釈を難しくしている一因でもある)また,自己存続の仕組みとは,たとえば遺伝の仕組みや記憶の仕組みであったり,また自由意志であったりする.遺伝や記憶によってイキモノの情報や形が存続する,言い換えれば,生体の記憶機構によって単発的な自己組織反応が永続性を持つことは直感的にも理解されるだろう.さてしかし,自由意志も自己存続の仕組みなのだろうか.そもそも「意志」とは何であろうか.
  たとえば,意志の存在を否定してしまうと,機能という概念の成立も怪しくなる.原始人が石ころを使って狩りをすれば,石ころは武器という機能を持つことになるが,これは使う人や観察者の意志と記憶があればこそ成立する概念である.もし意志と記憶がなければ,原始人と石と獲物で構成される物質系の(物理化学法則に従った)相互作用があるにすぎない.機能ということばの概念や機能に関連する物事が存在すると認めるならば,人の意志と記憶も現に在ると認めなくてはならない.これは,たとえば木村敏の言うアクチュアリティという言葉を借りて表現すれば,石の物理化学的作用というリアリティを,人が能動的にアクチュアルに「みる」ことによって機能として捉えられる.石が武器という機能を持つことは,一見,客観的事実のように聞こえるが,実は原始人やそれを「みる」観察者の意思なくしては成立しない概念である.科学では客観的な捉え方を教えるが,その実,完全に客観的な認識は不可能であって,われわれが「みて」いる世界はリアリティとともにアクチュアリティとして捉えられている.木村敏は,たとえば離人症(自分が外部の傍観者であるかのように感じる,誰にでもある体験が反復・持続する)がアクチュアリティとしての認識の不全であると述べている.このアクチュアリティを認めるところに,まず議論の出発点がある.つまり,我々が「機能」という概念の存在を認めて議論を進めるのならば,アクチュアルな意志(意志が意識的であるか否かは別として)の存在も認めて議論を進めなければならない.「機能」という概念の存在をも認めない徹底した客観的な議論にこだわるのならば,意志の存在を認めない立場も納得できるが,それはこれから述べる内容とは議論の前提を異にしている.ここから議論したいのは,一旦意志の存在は認めた上で,その意志が「自由」であるか否かの問題である.
  さて,その「自由」を考えるときに,なぜイキモノにアクチュアリティが生じたのだろうか,と(木村敏に言わせれば,よけいな客観願望に従って)さらに進んでみなければならない.たとえば,同じ行動を繰り返すのみの物体に「自己」を感じ取ることができるだろうか.自己を規定するある情報のパターン,たとえば,ある人にそっくりの形や行動が再現されたとしても,その行動パターンがただ機械的に繰り返されるだけで,そこに「自己」を感じ取ることができるだろうか.これは,たとえば人を真似たロボットの場合はどうか,植物人間となってしまった状況をどう捉えるのか,さらには意識が保たれたまま外界とのコミュニケーションを失ってしまう封じ込め症候群はどうか,と,様々な状況において,様々な判断が考えられる.しかし,ある個人に対する思い出や思い入れを可及的に抑えて自身の正直な感覚に尋ねてみると,多様性を失って同じパターンのみが繰り返される状況で,そこに「自己」を感じ取ることは難しいと感じる.たとえば,植物人間となってしまった家族に話しかけたり手を握ったり様々なまた多様な働きかけを行っても,もはやそれは一方的な働きかけにならざるを得ないが,封じ込め状態では,コミュニケーションが寸断されているだけであって,家族から患者へ,また患者から家族への多様な働きかけは存在している.しかし,もちろん,このことと患者が「生きているか否か」の問題とはまったく別の次元の話である.「自己」を感じ取る条件には,この多様性とその多様状態を挟んで,ある類似のパターンが出現する状況が必要であるように思う.たとえば,日常の多様な行動の中に,ふとその人を思わせる「くせ」があったり,その人しか知らない記憶がある脈絡の中で思い出されたりするからこそ,その人の個性が確認されるのであって,ただひたすらその「くせ」が繰り返されたり,ただ記憶だけがある状態は,自己のないロボットを想起させる.「自己」があることを感じ取るためには,固有な情報の類似パターンだけではなく,予測不可能な多様な状況も現れていなければならない.
  このように,多様で混沌とした状態と,己に特徴的なパターンとの入れ替わりを,「自己」を感じ取る条件であるとすると,さらにそれを拡大解釈して,これが「自己」の成立に必要な条件である,と飛躍してみる.すると,類似パターンが自己組織的に現れる現象のみならず,予測不可能な多様性(またはカオス)状態が出現する現象も,「自己」の定義にとっては同等に重要なのかもしれない.いや,これらの現象をコンピュータ上にシミュレーションすることを考えると,類似パターンの出現よりも,むしろ,パターンが消滅した後に毎回異なった予測不可能な多様性が出現する仕組みの方がはるかに困難であろうから,後者こそが自己の成立にとってより「本質的」なのかもしれない.
  繰り返すが,類似パターンが消滅して予測不可能な多様性が出現する仕組みは,類似パターンを再現させる記憶機構と同じく,またはそれ以上に「自己存続」のためには重要であるのかもしれない.ここで,この多様性を生じる仕組みを「自由意志」と認識させる脳の仕組みを仮定してみる.ここでいう自由とは freeという英語の訳語としての「自由」ではない,これは日本語本来の「自らに由る」また禅に表現される自由自在(あるがまま)の意味に近いのかもしれない.つまり,何の制約も受けない状態をあらわす free ではなく,物事が自然の自己組織的な摂理に従ってあるがままに様々な多様性を表す仕組みを「自由意志」という認識に代える機構が脳にあるのだと仮定する.すると,「自己存続の仕組みを持った散逸構造」を特徴とする生命が,たとえばゲノムやタンパク質などの記憶機構とともに自由意志を,つまり予測不可能な多様性を生じさせる仕組みを,自己存続のための「形質」として獲得してきた構図が浮かび上がってくる.
  結果が原因を変えることによって生じる多様性は本当に予測不可能なのか,多様性出現に永続性があるのか.そもそも予測,永続性とはどう定義されるのか,といった数学的な関心に,私はあまり頓着していない.多様性を生じる仕組みを「自由意志」と認識させる脳の仕組みがあると仮定するのならば,予測の定義も永続性の程度も,数学的な定義云々の以前に,この脳の持つ記憶現象の性質に規定されているのだろう.数学者からは異端視されるだろうが,前述のようにヒトには完全なる客観視は不可能であり,何らかのアクチュアルな認識の上に数学の概念さえもが成り立っているのだとすると,多様性発現における予測も永続もヒトのアクチュアルな認識の範囲内であると理解すればいいのではないだろうか(数学自体が認識のバイアスを受けているか否かはコメントを避けておこう).
  しつこいようだが,イキモノの特徴を「自己存続の仕組みを持った散逸構造」と表現するならば,自由意志(多様性を生じる仕組みと仮定した)もまた,記憶現象と同様にイキモノがイキモノであるためにその進化の過程で獲得した最重要形質の一つであろうと思う.本来は,あるがまま,である「自由」に,脳が「free」という数学概念を置き換えてしまったために生じた混乱が,自由意志をめぐる論議を複雑にしている.ただし,私にはこれを「正しい」と主張する知識も,また意志もない.ただ,このように理解すると,イキモノやその主体性の不思議にかかわる私の客観願望はどこか満たされて,ほっとする.ここまでの文章は,ただ私個人の持つ「自己」という感覚を,私個人の知識の範囲で可及的客観的に表現してみただけのことで,これが正しいか正しくないか,という議論には,おそらく決着どころがない.「自己」という感覚のこのような表現に,読者が共感する部分があるか否かである.イキモノの機能を扱う仕事をしている者として,「イキモノとは何か,機能とは何か,意識とは何か」という,このとてつもない(危ない)疑問にも,しっかりと対峙して,その歴史を知り,科学的に議論をしておかなければならないのかもしれない.おぼろげながらの記憶をたどれば,これに近い思想も,また,生じた多様性を後から自由意志と感じている,と解釈できそうな心理学(脳科学?)の実験結果もあったように思う(運動野の脳波は自由意志よりも先行して現れる?Benjamin Libet(1983)).けれども,哲学や心理学や脳科学を専門としない身としては,自己満足(納得)したここまでの時点で思考を休止しておくのが賢明だろう.これ以上詳しくわかりやすく説明するのも,やれ,面倒な話でもある.しかし,専門の立場からご意見のある方は,ぜひ連絡をくだされ.

  私が,わざわざ専門外の内容にまで踏み込んで「イキモノ」を論じるひとつの目的は,次のような主張をしたいからかもしれない.

「人間には,自分を自分と感じることができる「しくみ」があり,そのしくみを使って,私たちは生き生きとした感覚を感じたり,他人や,他の生き物や,時には他のモノにまで「自分」を感じ,その対象を,助けたり大切にしたりすることができる.これも,人間(または生物)が自己保存と共生のために獲得した形質のひとつである.」

「縁」の自己流の解釈なのですが,,

posted by トミタ ナオヒデ at 10:23| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
京都大学 工学研究科 機械理工学専攻 医療工学分野(医学研究科 生体工学分野) 
〒606-8501 京都市左京区吉田本町 京都大学工学部物理系校舎
医療工学研究室 富田研 425号・426号
Copyright (C) Tomita Laboratory. All rights reserved.

いちご会