富田直秀(Naohide TOMITA)     e-mail: tomita.naohide.5c kyoto-u.ac.jp  ←を半角に変えてください。


Dr.Tomita

プロフィール

富田直秀(Naohide TOMITA)材料工学出身。もと整形外科医。現在は医療工学、デザイン、再生医療、バイオメカニクス、バイオトライボロジーなどの研究をしています。

研究とは切り離しておりますが、学生の頃から少しずつ創りためている文章、絵、写真なども公開しています。興味のある方は右のMENUからお入りください。

E-Mail: tomita.naohide.5c@kyoto-u.ac.jp
(@を半角に変えて下さい。たくさんのメールをいただいており、お返事できない場合が多いと思います。申し訳ありません。)

2009年08月01日

背中と耳

 毎年度はじめのメンタルヘルス講義を担当するようになってから,心中に苦悶を持つ学生と話す機会も多くなった.けれども,私が教員として彼らにしてあげることといえば,むしろしっかりとした厳しい壁を彼らの前に置いて,それを乗り越えるのを待つだけなのだろうと思う.また,一般の授業をしていて時々感じるのは,多くの単位を落としている要領の悪い学生の中にこそすばらしい能力が隠れていることだ.独自の感性と創造力を持っているが故に,かえって既成のレールからはずれてしまう場合もある.おそらく彼らにとっての誤算は,思いの外コミュニケーションが難しいことではないだろうか.このコミュニケーション環境の提供に関して,私たち大学教員は何とも無力だ.
 数ヶ月前から「清風荘学生サロン」という会を、清風荘(西園寺公望の元京都別邸であった家屋と庭園)で開催している.
http://www.keikikai.jp/salon/seihuso.pdf)当初は,学生と大学教職員,OBたちが自由に歓談をするところから始めた.様々な経歴を持ったOBの方々の経験談や人生談義は実に示唆に富み,また面白くもあったが,しだいに学生の参加者は姿を消していった.宣伝不足もあったのだろう.ただ学生に聞いてみると,たしかにためになる話なのだが,何か説教をされているようにも感じてしまっているらしい.そこで現在は,最初の簡単な自己紹介とストレッチ体操(人生ストレッチ、2009年06月29日日記参照)を終えると,その後は全く自由行動にした.
 世代を超えたコミュニケーションは本当に難しい.学生たちは話を聞きたいのではなく,聞いてもらいたいのだろう.けれども,ほら話してごらん,と言っても何を話せばいいのかわからない.そうか,学生たちは私たちが思うほどにはかまって欲しくはないのかもしれない.かまって欲しかったのはむしろ私たち年配者の方だったのだろう.けれども一方では,今の世の中に「村のお年寄り」の知恵が不足している事も確かだと思う.おそらく私たちのもう一つの誤解は、そういった知恵や経験が面と向かって「口」で伝えられると思っていたところだろうか.苦労と経験を背負った「背中」と、いつでも話を聞いてあげられる「耳」を、私たちは持たなければならないのだろう.
 はっきりとした目的やテーマのない歓談は続かない,といった批判もあるが,世代や立場の違う人たちが静かで自由な時間を共有する環境も必要なのだろうと,私は思い込んでいる.幸い,下の写真のように清風荘は四季折々にすばらしい環境を提供してくれる.ボッとたたずむだけでも,少なくとも私は楽しいのだ.同じように清風荘の静かな時間を楽しんでくれるたくさんの背中と耳があれば,いつか自然にコミュニケーションが生まれ育つ土壌のような場ができはしないだろうか,,
 話は違うが、家の庭に鳥の餌を置きだして、約2ヶ月半。やっと小鳥たちが集まるようになった。やはり、きちんと計画をして「餌」を置かなければだめだろうか、、
2004(平成16年)年6月撮影seifusou_6.jpg060712_1.jpg061208_11_000.jpg2004(平成16年)年6月撮影2.jpg2004(平成16年)年6月撮影seifusou_8.jpg2005(平成17年)年6月撮影.jpg
posted by トミタ ナオヒデ at 10:46| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月28日

社会貢献をしている会社の株を持つ

私は株のことをよく知らないが、社会貢献をしている会社の株を持っている事が高いステータスとなれば、企業はこぞって社会貢献をするだろうに。

企業の「社会貢献度」をいろいろな角度から評価してくれる証券会社はないのだろうか?

(、、と言っても貧乏学者に株を買う余裕はないのだが、、)




posted by トミタ ナオヒデ at 11:27| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

研究助成

 助成金の大盤振舞大盤振る舞いが行われようとている。私もその餌に群がろうとしている一人だ。
 しかし、現行の審査方法で、地道で良心的な開発研究を見つけ出す事ができるのだろうか?現場のニーズを出発点とした problem-oriented research が大学や公的研究機関ではずいぶん廃れてしまっている。一般にproblem-oriented research には膨大な試行錯誤作業が必要になるが、多様な要素が絡む中での試行錯誤(つまり職人さん的な研究アプローチ)は論文として纏めることが難しいので、最近の性急な成果主義の中では生き残るのが難しい。結局、一見賢そうな論文を書き、バラ色の未来を語ることができる研究者が研究費を得る。いや、私も人ごとではない。より多くの「賢い」論文を書き、未来を語ってみせる練習を繰り返している。
posted by トミタ ナオヒデ at 11:21| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月04日

井手武先生を囲む会、そうして「夜と霧」

井手武先生を囲む会(退職記念)の写真を
http://salon151in.seesaa.net/
にアップしました。写真をクリックすると拡大像が、もう一度クリックすると全体像が表示されます。

 井手先生は、花粉症研究では日本を代表する研究者の一人ですが、学位を取らず、虚栄を張らない研究生活を貫いた方です。また、学生たちの良き相談相手でもありました。先生のおかげで医者になれた、と感謝する大勢の学生がいます。今回の囲む会は、井手先生の部屋に集まった飲み仲間や学生たちがボランティアで計画したものです。とにかく、2ページ目の集合写真見て下さい。集合写真を楽しそうに写すテクニックはいろいろあるのですが、この写真はなにもしていません。それぞれがそれぞれの思いの中で自然に頬笑んでいたり、物思いに浸っていたり、楽しそうにしている様子がおわかりでしょうか?
 先生は独特の絵も描かれるのですが、欲しい、と言われるとすぐに人にあげてしまうために、残っている先生の絵は、2ページ目に載せた桜島の絵ともう一枚だけとのことです。

 最近、アウシュビッツ収容所を経験した心理学者(精神科医 Viktor Emil Frankl の「夜と霧」(新訳)を読んでいて、人が何も持たずに生まれ出て何も持たずに死にゆく間に、いったい何が生きている意味なのか、と考えさせられました。フランクルは、自分を待つ家族がいたり、自分しかできない仕事があるといった「かけがえのなさ」が、絶望のために自殺願望を持つ収容者たちを思い止めさせた経験を記述しています。また、戦後に解放された収容者たちが奪われたモノや名を取り戻しても、なお絶望の中にいる場合があることも述べています。すべてを奪われた人たちが、奪われたモノや名(名も番号で呼ばれていました)よりも、過去から未来につながる人との関係性の中にこそ生きている意味を見いだした事実は、私たちに何が大切なのかを語ってくれているように思います。物質的には恵まれている現代人の多くや私自身は、この大切さを忘れてしまっているのかもしれません。モノや名にこだわらず、ひたすら人との関係性の中に生きる井手先生や先に紹介した富和先生の生活こそが、真に「豊か」なのだろうと思います。もちろん、豊かであるからといって安楽であるわけでは決してありませんが。
posted by トミタ ナオヒデ at 16:23| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月29日

人生ストレッチ体操

人生ストレッチ体操

            京都大学工学研究科 富田 直秀

基本:
○むりをしない(気持ちの良い痛さのところまで)
○息を止めない(自然な息で)
○最初だけ力を入れて,次に力を抜いて20数えます
○右の次は左(左右対称に)

1. うなだれストレッチ:
首を右下に曲げて,両腕・肩の力を抜いて頭の重さでうなだれます.次は左下.
(背筋の上部を伸ばします,肩こり対策に)

2. ナルシストレッチ:
胸を張って,顎を後ろに引いて,背中から腰のラインを前方に凸につき出します.
(こんな芸人いますね,脇を空けるのは邪道です.背腰のラインは美しい姿勢の基本)

3. ウルトラマンストレッチ:
右腕を肩から水平に左側に折ります.右肘を左腕で十の字に支えます.次は左腕.
(なぜ最初からス○○○○光線を使わないのか。その道に詳しい学生によると、決め手はじっくり相手を見てから使うのだそうです)

4. お手上げストレッチ:
右腕を真上に上げて,左手で右肘を左後方に引きます.次は左腕
(無理をせず,時には積極的に負けましょう)

5. 右派・左派ストレッチ:
4と同じ姿勢で,右腕を右耳に押しつけたまま上体を左に傾けます.まず力を入れ,次に左手の重さで右腕を引っ張る感じで右の側腹筋を伸ばして下さい.次は左腕.
(一方に傾きすぎないよう,,)

6. 右前・左前ストレッチ:
右脚を左脚の前にクロスさせ,膝を伸ばして両手をなるべく下に下げます.次は左脚.
(左前でも簡単には倒れません)

7. ひねくれ者ストレッチ:
両脚を前に伸ばして床に座り,右の足を引きつけて膝を立てます.
次に上体をひねって左肘を右膝の外側につけて膝を内側に押します.次は左の足.
(苦しいけれど誇り高い,ひねくれ人生)

8. ゴマすりストレッチ:
両足をそろえてしゃがみ,左足の甲を床に着けます.
右足の踵を床につけたまま.上体を膝に押しつけて両手を前に突き出します.両腕を外側にねじって10秒,内側にねじって10秒.次は左の踵をつけて.
(最後はやっぱりこれですね,だれにでもアキレス腱はあります)

                                番外:どうにでもストレッチ
(これは少々きついストレッチですので、現場(清風荘学生サロン http://www.keikikai.jp/salon/seihuso.pdf)で公開します)

それでは
posted by トミタ ナオヒデ at 14:41| 喫茶室(創作、笑い話、その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月15日

ご無沙汰しました

 医療事故による身内の入院、学生の不幸、等々、様々な事が重なったため、ブログへの入力がご無沙汰となってしまいました。詳細は、またいずれ様々なところで報告しますが、大学や医療現場におけるコミュニケーションの危うさをあらためて実感しました。
posted by トミタ ナオヒデ at 15:26| プロフィール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月16日

井手武先生のHP

井手武先生のHPを(http://salon151in.seesaa.net/)に作ってもらいました。
posted by トミタ ナオヒデ at 20:27| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月20日

医工連携:円座のブレインストーミング

 年老いた母親がこうつぶやいているのを聞いた.「最近はね,病院に行っても,いろいろと先生に相談しないことにしているの」その理由をたずねると,「先生に相談すると,すぐに検査しろ,とか,これを試してみましょう,とかになるでしょう.」だそうである.医療技術の開発研究を行っている私にはちと耳の痛い話である.
 社会にどのような医療や健康の技術が必要とされているのか,そもそも真の「健康」とは何であるのか.こういった国民的な議論のないままに,我々研究者が研究費獲得のために描いてみせる医療技術の夢や市場原理に方向づけられた医療開発が進められているのではないだろうか.研究者が研究費を必要とするのも,企業が利潤を追求するのも,それぞれの立場では仕方がないが,しかし,このままではいつか新しい技術が医療現場を混乱させてしまうことになるだろう.マスコミや一般市民を交えた円座での会話が今こそ必要なのではないか.何が本当に「健康的」であるか,といった文化の指標は,われわれ専門家だけの閉じた開発環境の中からは生まれてこない.

 、ということで、先日「次世代ウェルネス産業」と題して、学生、主婦、企業研究者、医師、エンジニアなどを集めてブレインストーミングなるものをを行ってみた(ファシリテーターをするのは初めての経験でした)。それぞれ個人の健康観の違いにびっくりし、またそれぞれの意見に納得した。ある人は、忙しいときこそ元気だ、と言い、ある人は、スーパーで売ってる野菜と田舎の野菜とは味が全然ちがうと言う。またある人は精神的な不健康が大問題だという。総じて、医療健康技術が発展しているのに、今の世の中は不健康になっているという。
 ではどうしたらいいのか、という問に、ラジオ体操、おばあちゃんの知恵を大切に、万笑計、自給自足キット、などなど様々なアイデアが噴出して、なかなかおもしろい会であった。今のところは成果といって何もない状態だが、企業からの参加してくれていた一人(山中さん)がうちの研究室に研究員として来てくれることになった。これが大きな成果か、、

 医工連携は文化の問題と切り離して考えることはできない。市場経済の宿命として、医療もグローバルな貨幣価値としてのサービスを生み出し続けなければならない。しかし、きちんとしたコミュニケーションなしに医療技術のみが進めば、技術は医療を根本から崩壊させてしまう凶器ともなり得る。政府も、また研究者の多くもこの危険性に気づいていない。





posted by トミタ ナオヒデ at 21:47| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月26日

にじ

質素に過ぎたクリスマスイブの次の日の朝.

出勤に出た夫が駅から空を見上げると、四角く区切られた空に虹がかかりはじめた.
携帯電話を取り出して,妻に
「にじ」
とだけメールを送る.

虹は.しだいにその色を増して青白い大空を南に向かって静かに渡りだす.こんなに大きくはっきりとした虹は初めて見る.妻はこれを見ただろうか.せめて漢字変換をしておくべきだったか,にじ,だけでは二時だか二次だかわからんだろう.

「あっ!ほんまやー いつもあそこにかかるなあ,にじ」
と妻からの返事.
そうだ、家から見るといつもあの山の上に虹が架かる
虹は見上げる人によって,その場所も色も違って見える.同じ所に住んでいるから,いつも同じ虹を見るのだ.

まあ,これがクリスマスプレゼントみたいなもんやな.
と夫は心の中で思う.

家では,メールを送り終えた妻が台所の窓を閉めて食器を洗い始める。
「疲れるやっちゃな.ほんまに.」
と、小さなため息。




posted by トミタ ナオヒデ at 11:13| 喫茶室(創作、笑い話、その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月22日

ジュニアキャンパス

 土曜日に中学生への講義「ジュニアキャンパス」を終えた.中学生たちの真摯な視線に触れてとても充実した時間だったが,研究室に帰ってくると机にうつぶせてしばらく頭を休ませなければならなかった.思いの外疲れたのだ.この少し前に,大阪市立科学館に行って小中学生向きの科学授業をいくつか見させていただいたが,そこでは吸水性ポリマーや液体窒素や科学玩具などを使って,物理,化学,生物の様々なしくみを面白く紹介していた.いったいこれ以上の授業ができるのだろうか?これとは異なった大学ならではの授業が自分にはできるのだろうか,と,その時から少なからずストレスを感じていたのだ.
 当初は,大学や大学院で行っている授業の難しいところを省いて講義すればいい,と安易に考えていた.しかし,おもしろく科学を紹介する授業ならば科学館やテレビ番組ですでに行われている.大学ではむしろ難しい最先端の内容をやさしく,しかも嘘が無く説明しなければならない.
 いや,しかし小中学生への講義で本当に難しいのはそこではないかもしれない.難しい内容をやさしく嘘が無く表現することは確かに難しいけれども不可能ではない.やさしい言葉で表現してみる事は,ものごとの本質を考え直す良い経験ともなった.しかし,科学館の人たちのように,途切れることなく子供たちの注意を引きつけておくことが,はたして自分にはできるのだろうか.
 大学受験とは,机に座っておとなしく積極的に講義を聴いてくれる人間を選別している制度でもあるのだろう.京大の教員であることは,この点では実に恵まれた環境にいるのだ(たぶん).今回の「ジュニアキャンパス」では,幸いにも子供たちを退屈させることはあまり無かったようだが,もともと科学に興味を持った生徒たちが集まってきているのだから当たり前なのかもしれない.小中学校の先生たちは,興味を持たない子供たちにも対峙して,毎日何時間もの授業を行っている.その苦労と心労はたるやどれほどだろうか,私などには想像もつかない.




posted by トミタ ナオヒデ at 10:26| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月17日

生きている記録?

081018MARIKO撮影縦向きプリント用のコピー2.jpg大学院を修了してからはほとんど絵を描いていません。しかし、この一枚だけは今も時々手を加えています。最初のデッサンを失敗しているので絵画としての価値はありませんが、28年間、塗っては削り塗っては削りを繰り返していますので、私の生きている記録のような作品です。
(この絵、当時学生のカミサンが長い卒業試験を終えた後に、久しぶりに会ったときのイメージです。カミサン曰く、「もう私の顔とは違うな」、、たしかに、、モデルを離れて、長く暗いトンネルを抜けた後の清涼の象徴として描いているのかもしれない、、富田直秀)



posted by トミタ ナオヒデ at 12:14| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月09日

AとBが同じである事

 リンゴと梨を見比べて,あなたは両者が同じであると感じるだろうか,違うと感じるだろうか.ぼんやりと傍観すると,その類似性は即座に直感できるけれども,相違点を見つけるためには目をこらしてしっかりと見なければならない.しかし,しっかりと目をこらしさえすれば相違点を論文に書くことは比較的容易かもしれない.つまり,色の違い,肌の目の細かさの違い,味の違いなどを整理して書いていけばいい.色の違いは色温度で示し,目の細かさは表面粗さ計で測定し味の違いは糖度でも測定して,それぞれ定量的に表すことさえできる.けれども,類似性を論文にせよと言われると,これはけっこう難しい.うーんと,どっちも丸い,え?じゃあブドウは?トマトは?上にヘタが付いている,じゃあミカンは?と,なかなかきれいな論文には纏まらない.
 A(a1,a2,a3,,)とB(b1,b2,b3,,)とを比べるとき,たった一つの相違点(たとえば a1≠b1)を一つ指摘するだけで両者が異なる事を証明できる.けれども,類似点(たとえば a1=b1)を一つ指摘しただけでは両者が同じである事の証明にはならないし,第一,A,B以外の対照を持ってこないとA(a1,a2,,)などという評価基準自体が適当か否かさえも疑わしい.
 「同じ」という理解と「異なる」という理解を分けるとするならば,科学者は「異なる」方の理解に傾きやすい.論文を書く段階では[ほら,ぼんやりと見たらば同じであることがわかるでしょう]といった表現は許されず,たいていは目をこらしてしっかりと見た結果を書かなければならないからだ.科学者が「違いのわかるヒト」にはなり得ても,なかなかその知識を生活の中で意味のある価値の創造に結びつける事ができない原因の一つが,ここにある.生活という実に多様な構造の中に価値を見つけ出すためには,その多様な中に何らかの類似性を直感したり,共感によって価値観を伝えたりしなければならない場合が多いけれども,そういった直感や共感は論文形式に表すことが難しいからだ.
 現代の科学技術の閉塞感の多くはここに起因していないだろうか.つまり,類似性や価値観の伝達を軽視することによって科学が生活から離れてきてしまってはいないだろうか.もちろん,論理的客観的な正しさの追求は常に厳格でなければならない.ただ,その論理性客観性が物事を分ける方向にばかり特に有用である事は意識しておかなければならない.
 たとえば、医工学では,その研究目標は常に生活における価値感にある.単に医学に関連した研究をしていれば医工学なのでは,決してない.研究結果を実際の価値観に結びつける事のできる知識と経験と,そうして感受性を持たなければ,科学者はとんでもない災いをヒトの生活に与えてしまう可能性がある.たとえば,機械を修理するがごとくに複雑化マニアル化した治療技術は,必ずしも医療現場の改善には結びつくわけではない.多様な病状や社会状況の中で営まれる医療では,たとえば,リンゴと梨のような違いをしっかりと見分けてそれぞれに対処すべき場面もあるが,全く姿のわからない混沌とした相手の中にリンゴとの類似性を見つけて手探りで対処を探していく場面の方が圧倒的に多い.
 わかりにくい表現になってしまっただろうか.我々の生活や医療の現場は,「同じ」という理解,つまり広義のコミュニケーションの上に成り立っている.科学の発展自体も,その土台の上にあることを科学者は忘れがちである.

 ちなみに,「AとBが同じである事」と「AとBが異なっている事」の非対称性に興味がある方は,ブログ「客観性」を読んでみて下さい.私は,ちょっとエキセントリックな仮説を頭の中に潜ませています.
posted by トミタ ナオヒデ at 11:26| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月01日

マリア・ジョアン・ピレシュ(ピリス)

 以前にも少しだけご紹介したピアニストのマリア・ジョアン・ピレシュ(ピリス)が、NHKの「スーパーピアノレッスン」に出演している.以前に,ピリスが心筋梗塞で入院した,といううわさを聞いて落胆していたけれども,毎週土曜日午後 0:30-0:55 教育テレビに元気な姿が映っている.

 この「スーパーピアノレッスン」.世界的に有名なピアニストが公開レッスンをして,最後にその練習した曲全体の模範演奏を聴かせる.ここはこう弾くのだよ,とレッスンの最中に弾いて聞かせる教師側の演奏はさすがにすごい.生徒側もなかなかの演奏なのだが,表現力はこんなにも違うものなのか,と感じる場面も多い.しかし,わくわくした心もちで模範演奏を聴くと,もちろん演奏はすばらしいのだが,,市販のCDを聞いているように感じてしまって心のどこかでは興ざめしてしまう.最初に聞いた生徒の演奏もそれなりに新鮮で良かったなあ,などと思い返したりもする.

 しかし,ピレシュ(ピリス)はやっぱり違う,と私は感じる.この人は何でこんな弾き方(生き方)ができるのだろうか,生きているのがそのまま音になっている,と一人で感激している.音が生きているだけではなく、生きているのが音になっている.生きる事に模範などないのだろう.だからピリスは他の演奏者のような教えた曲の模範演奏を収録していないのに違いない,いや,それは素人の私の思い込みであろうか.しかし,とにかくこの人はすごい.

(後日(8日)追加) うーん,しかし,1昨日放送されたピリスの3回目の授業は私には理解できなかった,,この人の言葉は共感に働きかける言葉で、必ずしも理屈は合っていない。わからんヒトだ、いやわからんヒトは私のほうか、、)
posted by トミタ ナオヒデ at 19:39| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月14日

客観性

 「客観性?」「客観性?2}の題目では,いろいろと議論をありがとうございました.似非科学的な内容でしたので,公開で議論を進めるのはとても怖かったのですが,私自身の思考の飛躍している部分やその癖もはっきり自覚することができました.おそらく,多くの科学者が自分の専門以外のところで様々なこだわりを持っていると思います.論文や本だけではなかなか解決しない[こだわり]の部分を,こうしたブログを通して議論してみるのも分野融合にとっては良いことかもしれません.
 ここまでの議論は消去させていただきましたが,私が客観性の構成に関わるエキセントリックな考え方にこだわっていた理由を説明しておかなければならないと思います.
 私が医学部から工学部に戻ってきましてまず感じたことは,両者で生命に関する理解が根本的に違う,ということです.そこでこの理解の違いを多くの人に納得してもらうために,多様性と相同性という概念(たとえば人の顔のように皆がそれぞれ違っているのに,共通した性質や構造を持っている事)から説明しています.なぜ多様性が生じるのか.これは,生命が物質の「流れ」の中にあって,また「結果が原因を変えるしくみ」があることから構成的な説明が可能だと思います.なぜ形や機能が固定したり振動したりせずに多様性が生じ続けるのか,という疑問は残りますが,もともと宇宙の時間の長さから眺めれば生命は過渡的な現象なのかもしれませんから,なにも永遠に多様性を発現し続けるシステムを考える必要はないと思います.
 けれども,なぜ相同性が生まれてきたか、を説明しようとすると,(直感的には)時間の質に関わる理解の根本的な飛躍がなければ納得できないと感じていました.具体的に言いますと,多様(そうして多階層)に生じている様々な構造や形態の中から,環境の変化に対しても十分に安定な「しくみ」がたまたま生じたとします.すると,その「しくみ」の存続は他の「しくみ」の存続に対して有利ですので,いわゆる淘汰によって時間を超えた構造や形態の存続が可能となります.ここで注意していただきたいことは,イキモノの構造や形態の存続は,モノにおけるそれらの存続と全く異なっている点です.イキモノでは構成する物質は常に入れ替わりますので,イキモノの存続のためには必ず情報を存続させる「記憶システム」が必要となります.上記のように,時間を超えて構造や形態の存続が可能となった「しくみ」がイキモノの記憶システムの原型となって,さらにその記憶システム間の淘汰によって,より高度な(多階層の)記憶システム,たとえば遺伝子や脳の記憶システム等までが生じてきたとして,記憶システムの進化を想像する事は可能ではないかと思います.
 しかしここで,多様性が生じる時間進展と相同性が生まれる淘汰の時間進展を比べると,(直感的には)時間の質に関わる理解の根本的な飛躍がなければ納得できないと感じてしまいます.たとえば,多様性が生じる時間進展は結果から逆に時間進展をさかのぼる事が可能です.けれども,記憶システム間の淘汰では情報の消滅が生じていますので,時間進展の逆行は不可能です.淘汰はそう定義された概念ですので当然の事ですが,しかし,そもそも本当に情報は消滅するのだろうか,と考えますと,われわれヒトの脳(記憶システム)と現象との相互作用によって,あたかも情報が消滅するように知覚されているだけなのかもしれません.別の言い方をしますと,A(a1,a2,,)と B(b1,b2,,)が同一である事の証明と異なる事の証明は本来同等でなければならない,と思いますし,またさらに別の言い方では,本来は a×b と b×a は区別すべきであるにもかかわらず,脳(記憶システム)によって「客観的に」定義された時間を無次元化すると,その区別が消滅してしまうのかもしれません.つまり,時系列性とは記憶システム(知覚主体)によって知覚された時間のある一側面に過ぎないのではないか,と考えたわけです.
 教育者として,上記の多様性の構成ところまでは学生にも講義することができるのですが,想像を超えた膨大な情報の消滅から相同性が構成される「進化」という概念の中に含まれる時間感覚の飛躍が自分自身でもなかなか納得することができませんでした.私一人の脳みそではどうしても解決できないので,こうしてブログを通じてご意見をお聞きしていた状況です.
 しかし,様々なご意見をお聞きして,上記のような直感から一足飛びに客観性の構成にまで話を進めるのは少々乱暴であろう,と気づきました.私に数学の素養があれば,a×b と b×a に区別をおいて(もちろん、全く同様に a+b と b+a も区別される方法でなければなりませんし,また,一方が存在すれば必ず他方も存在しなければなりません)観測問題などを論じようとしているのかもしれませんが,残念ながら(いや,おそらく幸福な事に)その能力には恵まれていないようです.ご意見をいただいた方々(郡司先生、谷村先生)素人質問に丁寧に応えていただき,どうもありがとうございました.
posted by トミタ ナオヒデ at 10:18| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月03日

A先生

 高校の同期会で思い出した恥ずかしい思い出をもう一つ.
 来賓に来られていたA先生は,理科系の学部から,思うところあってか,東大の文科に再進学されて高校の国語の教師になられた方で,いつも無表情に淡々と授業をされる先生だった.その無表情の奥に,思いがけない愛嬌や人生の悲哀と優しさを感じさせる先生でもあった.
 どの学校でも繰り返されてきた場面なのかもしれない,「逢い見ての 後の心に くらぶれば むかしは物をおもはざりけり」という権中納言敦忠の歌の現代語訳を,学校では,「結婚してから,あなたを思う気持ちがますます強くなりました,,,」などと教えるが,「逢い見て」は結婚ではなく男女の逢瀬と解釈するのが一般的だろうか.人気者のT君が,「質問があります」と手を挙げて,「先生は今『結婚』と訳されましたが,私にはどーしても腑に落ちないのですが」と議論を持ちかけた.するとA先生は大きなおでこの下の無表情はそのままに,結婚と訳した理由を淡々と説明される.内容は忘れてしまったがT君もわざわざ質問をしただけあって,いろいろと論をめぐらせて,とにかくこの堅物先生の口から問題の言葉を吐かせようとする.なかなか核心には至らないので,ついにT君は論理的な追求をあきらめて,「あの,先生は一人の男としてですね,ほーんっっとに本心から『結婚をして思いが強まった』のだと感じておられますか?」と念を押すと,A先生の無表情から,「ぶっ」と笑いが吹き出して,T君の思わくどうり、教室中がどっと笑顔で満たされた.
 それからこんな事もあった.たしか期末テストの前日だったろうか.試験勉強が忙しいから授業を自習にしてくれ,などという勝手な要求を,たしかこれもT君が中心にいたように思う.数人でA先生に交渉しに行くことになった.以前にも書いたように私は元来KY(空気読めない)系の人間なので,下手に口を出すと交渉を脱線させてしまう.だから目立たぬように友人たちの後ろの方からついていった.これも内容は忘れたが,学生たちとA先生は休講にすべき合理的な事由を議論していたと思う.もちろん学生のへ理屈など通るわけでもなく,だいいち,ふだんは詰め込み教育反対と言っているその同じ口からテストのために休講せよ,などと言うのだから,どう見てもここはA先生の方が優勢だった.交渉は決裂し,通常どうり授業をする流れになったときに,A先生は,「それにしても,そんなに僕の授業はつまらないのかなあ」とため息混じりに言われた.さすがに皆も,「い,いやそういう意味では,,」と頭をかいたところで,後ろから覗いていたKY系の私は嬉しそうに,「はい,そうです」とはっきりと言ってしまった.その時,A先生の肩がガクッと落ちた感じがして,そのためか休講交渉は簡単に成立してしまった.
 このときのことを私はすっかり忘れてしまっていたが,卒業した次の年に高校のコンサート会場で偶然に顔を合わせたA先生は私を見つけると,例の無表情の口の端をちょっと斜めに持ち上げた笑顔をみせて,私のおなかにボディーブローを打つ真似をしてきた.堅物のA先生らしからぬしぐさに,私はあの時のガクッと落ちたA先生の肩を思い出していた.
 それからまた30年以上が経過して,椅子に深く腰を下ろされているA先生は,昔のままの無表情に白い髪の毛と肌だけがずいぶんと歳をとられた.すぐに席を立たれたらしく,お話をさせていただく機会を失ってしまった.T君は大手銀行の支店長を退任したところだという。熟練の銀行マンらしい丁寧なしぐさで皆と挨拶を交わしている.50歳を過ぎても未だにKY系の私は,A先生が理科から文科に転向された様々な物語や、私がその一部を壊してしまったのかもしれない教師の誇りなどを,今もまだ知らずにいる.
 次は,いつお会いできるだろうか.

posted by トミタ ナオヒデ at 00:02| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月01日

キモい話

 先日,高校の頃の同期会があって,遠く忘れていた様々な恥ずかしい経験を思い出した.「Sさんを知っているでしょう」と同級生に声をかけられて,すでに消えかかっていたいくつかのシーンが心の中に広がった.
 私が大学1年の頃,友達に誘われて行ったお茶の水女子大学文化祭の美術展に,とても気になる作品が出品されていた.たいていどの絵も,「綺麗でしょう?」とか「上手いでしょう?」とか「大きいでしょう?」「荘厳でしょう?」,,,などと語りかけてくるのに,その絵だけは何もしゃべらない.自分のはらわたをそのままわーっと出して見せて,さあどうだ,といった感じの絵だった.もともとKY(空気読めない)系の私は,あまりおしゃべりな芸術は好まない.キラキラとしいて気持ちが盛り上がる文章や絵や演奏より,孤独なそうして少々醜くとも真っ正直な作品が性に合っている.その絵の作者は文化祭に誘ってくれた友人の知り合いだと言うので、さっそく紹介してもらうと,出てきたのが背がすらっと伸びた気さくな美人のSさんだったのだ.Sさんとは,後で一緒にお酒を飲む機会に恵まれた.
 突然だが,奥手で童貞だった私は,性愛というは虚栄とか意図とかを越えて内蔵をわーっと出して中と外とを裏返したようなところに美しさが見つかる,そんなものなのだろうと期待しているところがあった.Sさんと話をしているときに,Sさんの絵にもそのようなところがあるのではないか,などと確かそのようなことをしゃべったと思う.当然のことだが,すぐに嫌われてしまい(今で言うキモい話だったろう),それからは会う機会もなくなってしまった.KY(キモい,ではなく空気読めない,のつもりですが)系の私には,芸術論と日常との区別や、男と女の感性の区別がついていなかったのかもしれない.ちなみに,今では私も男女のそれが虚栄や意図とまったく無関係でないことははっきりと認識している.しかし,孤独で正直な作品や人柄が好きなところは今も変わっていない.身は通俗に落ちて,かろうじて感性のかけらを残している,といったところだろうか.
 その同級生によると,Sさんは結婚をして、今はもっぱら日本画を描いているのだという.そうか日本画なら,あの鮮烈で汚れのない岩絵の具で描けば,青春の頃のはらわたも,恥ずかしい思いも,落ちついた美しい色彩に描かれているのかもしれない.
posted by トミタ ナオヒデ at 10:55| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月10日

すばらしい電話だった

すばらしい電話だった。

 まず、私の研究室のHP(http://www.iic.kyoto-u.ac.jp/sozo/tomita/)から「鳥から見た医工学と、虫から見た医工学」の記事の最終章「6.おわりに(虫の視点の重要性)」を読んでいただけるだろうか。宅間さんは、ポリエチレン製造会社の技術部長をされていた方で、社長と何度も衝突しながらも、人道的な立場からポリエチレン改良の Know How を私に教えてくれた方である。そのおかげで、当時問題となっていた人工膝関節の破壊を防ぐことができる材料(ビタミンE添加ポリエチレン)が開発できたのだ。開発には15年を費やして、やっと実用化の目処がたってきた。その経過報告をするために、すでに退職をされていた宅間さんのご自宅におじゃましたい、と連絡をしていたのだ。しかし宅間さんは、しばらくは忙しいので来ないでほしいと言われる。それではいつ頃が良いか、とおたずねすると、3月中旬になってみないとわからない、と言われる。私が何か気にさわることでも言ってしまったのだろうか、などと不安に思って、とりあえずお手紙で開発の経緯をお知らせしていた。
 それが今日、医学研究科で行われた学位審査から戻ってみると、留守番電話に宅間さんの声で「お話ししたいことがあるから連絡を下さい」との伝言。いったいなんだろうか?私は少々緊張した心持ちで、宅間さんのご自宅に電話をした。

「例の私のところに来ていただけるというお話しねえ。」
「はい」
「私の方からそちらに行ってもいいでしょうか。これからちょくちょく京大におじゃますることになりましたので。」
「はい、それはもちろん。たすかります。」
「今日ねえ、合格したんですわ。京大にね。」
「それはおめでとうございます。本当におめでとうございます。」
「入学式とかがあるでしょう。ですから、おじゃましますわ。」
「ぜひ、、あの、お子さんでしょうか?その方もでひ一緒にお会いしたいです。」
「いやあ息子じゃないんです。」
「え?」
「私なんです。合格したのは。」
「え、、、そそれは、すごい。おめでとうございます。あの、今日は学部の合格発表日ですよねえ。」
「ええ、理学部をね、受験しました。」
「す、すごい。僕も大学院を出てから再受験をしましたけれども、あの、その、センター試験は何とかできても、2次試験が厳しかったでしょう?年をとってからの2次試験は辛いでしょう。」
「そうです。それがね、センター試験を失敗しましてね、苦労しましたわ、2次試験、、」
私の脚はもう地面から飛び上がっていたかもしれない。こんなすごい、そうしてすばらしい電話は初めてだ。電話を切ってからも、私の脚は落ち着かず、研究室に行って学生たちに話して回った。すごい。すばらしい。あの宅間さんが。私も再受験をしたから、年をとってからの受験勉強がいかに辛いことかを知っている。しかし、もう60歳を超えておられるだろうに。すごい。しかも理学部!
 すばらしい以外に何も言えない。溜まった報告書の請求メールも査読しなければならない論文の山も、今日だけは私を苦しめない。ご入学お祝いはいったい何が良いのだろうか、、、

(宅間さんが合格されたのは「理学部」ではなく「医学部」の聞き間違いであることがわかりました。申し訳ありません。)
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2008年02月02日

医療技術と誠実さの指標

 あるインターネットの会議室で、「医療技術と誠実さ」に関して議論をしている。
 医療現場や治療技術開発現場では、誠実であろうとすることと正しい治療や治療法開発を行うこととの間に微妙な開きがある。たとえば、重症の病気に対するある治療が100人のうち98人を助けても、2人を死に至らせてしまうとする。この治療が正しい治療法として認められるためには様々な客観的な指標から論議がされ、被害を被った2%の方をどう救済するかという視点も提示されなければならない。しかし、もちろんのこと失われた命や時間を償うことはできない。いかにこの技術が有用であったとしても、亡くなられたお二人からすれば悪魔の技術であるにちがいない。このお二人に対して誠意的であろうとすれば、この時点で決して実用化すべき技術ではなく、一方ではこの時点の技術で助けられるであろう98人に対しては不誠実になってしまうのかもしれない。
 私は研究者として、あくまで客観的な指標を重視しなければならない立場にあるが、一方では、客観的な指標だけではどうしても乗り越えることのできない医療の現実も知っている。たとえば、最善を尽くすといっても、世の中にあるすべての知識を知ることは不可能であるし、たとえ知ることができたとしてもデータから予測できる安全性は現実には非常に限られている場合が多い。有害事象が生じてしまった場合に、表向きは「予測できたか否か」という客観的な判断が問われるけれども、事実上は「いかに誠実に対処したか」という主観的な判断が問題となってくる。医療の中には進んでも、また引き返しても大きな罪を生んでしまう状況が数多くある。人の生死や心を相手にする仕事、というのは不可避にそういう性質を持っている。論理はともかく、その現場ではどうしても「何が誠実なのか」といった文化の指標が必要になる。
 欧米社会には漠然とした誠実さの客観的指標があるのかもしれない。たとえば陪審員制度では、無作為に選ばれた人たちの主観的判断が「誠実さ」の指標になる場合がある。また、宗教もこの「誠実」の指標となっているのかもしれない。おそらく日本には欧米文化ほどに実体化された誠実さの指標はないのだろう。「世間」と呼ばれる日本の良識の指標は、マスコミや風評にいつも流されているようにみえる。また、権威と呼ばれるセンセイがテレビなどで主観を述べると、またそれも「世間」を大きく揺り動かす。
 多数決や宗教意識を指標とする西欧に比べると、「世間」といういわば自己組織的な日本の誠意指標の方が自然に近いのかもしれない。私個人の感覚では、西洋型はどこか人工的でわざとらしい誠意であるように感じてしまう。西洋型と日本型、どちらが良いのかは一概に判断することはできないだろう。ただ、日本の場合には個人個人の関係性の中に自然に誠実さが生まれてくるのが当たり前である文化基盤があって、その上で「世間」の良識が機能する。西欧的に言えば、性善説化か、、しかし、この「誠実さが当たり前である」点、今の日本はどうであろうか、、。
posted by トミタ ナオヒデ at 20:59| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月21日

医療文化2

 「医療文化」に関する私の意見を纏めてみようとすると、まだまだ私の考えや経験の至らない点がたくさんある。現在、医学生に対して行われだしたコミュニケーション訓練には、「演技」のイメージをどうしてもいだいてしまうが、しかし、子供がまず演技として挨拶を身につけることを思うと、それも必要な第一歩なのだろうか。また、「誠意」という概念が海外の医療現場ではどのように表現されているのかを、私はもっと知らなければならない。
 おまえが「文化」を語るのは10年早いよ、、と言われそうだ。
posted by トミタ ナオヒデ at 10:39| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月18日

マリア・ジョアオ・ピリス

すばらしいCDを見つけた。

Chopin:24 Preludes,op.28; Maria-Joao Pires
録音:1975,1977

この人(Maria-Joao Pires)の30歳前後の頃の演奏には感動させられることが多い。感想は、また時間のあるときに。
posted by トミタ ナオヒデ at 09:42| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月16日

人に秀でようと背伸びをするのもいいが,

「人に秀でようと背伸びをするのもいいが,人のために何ができるだろうか,と考えるといろいろなことがずいぶんと楽になるな.」と、最近(やっと)気がついた。
 大学は,人に秀でようと背伸びをしている人たちの集団であると思う.秀でていることの基準を客観的に定めて、自らが基準に合致しているかも常にチェックしながら進んでいくのである.その活動から生まれる新しい原理や知識が社会の役に立っていくのだろう.ただし,各研究者や学生個人がただ人に秀でようとしているだけでは,多様な新しい知識は生まれてこない.第一それだけではあまりにも殺伐として苦しいではないか.人のために何ができるだろうか,とぼんやり考えるような時間が研究者にとって大切であるし,また,そうすることによっていろいろなことがずいぶんと楽になる.なによりもそれが自然で最もわかりやすい。われわれ研究者の言動がなかなか理解されないのは、なにも難しいことをしているからではなく、人に秀でようとばかり考えているからだろう。本当の新しさとは,自然でわかりやすいものの中にあるはずだ,,,
 などと考えていて,危うく授業に遅れるところだった,,,本末転倒,有言不実行,馬脚をあらわして,灯台もと暗し,,,

posted by トミタ ナオヒデ at 12:29| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月11日

医療文化

電車の中で医学研究科の富和清隆先生にお会いした。富和先生は遺伝カウンセリングのお仕事をされている小児科の先生だ。先生は、米国流の医療現場の合理性がいつまで現場に通用するのだろうか、と懸念を持っておられる。「医者も患者もアメリカ仕立ての舞台に立って、米国語から翻訳したせりふを使った演技に精進することになりかねない」、と言われる。
 おそらく、先生は医療を文化として捉えようとされているのだろう。私は医療技術開発の立場で、また現在は臨床現場を離れてしまっているので、状況は全く異なるのかもしれないがが、やはり富和先生と同じような危惧を持ち、同じように医療を文化として捉える必要性を感じている。この医療文化の具体的な内容を述べだすととても時間がかかるので、それはいつか時間のあるときにでも書かせていただこう。とにかく、医療開発の分野においても原理原則をしっかりと実行して医療技術の実用化をしようとすると(もちろんそうしなければならないが)、患者の理解や幸福といったことからやや脱線して「グローバルの舞台に立って演技をする」といった事態に陥りかねない、と思うのである。
 私は開発研究者なので、もちろんのこと開発推進賛成派である。最近話題になっているiPS細胞への期待などによって、日本において停滞している新しい治療技術の実用化に道が開けるのではないだろうかと大いに期待をしている。しかし、新しい治療技術の臨床への導入では「医療文化」といった視点を決して忘れてはならないと思うのである。何度も言うが、法的そうして道義的な原理原則をしっかりと守って医療技術の実用化をしなければならない。それは必須である。ただその原則だけが突っ走って、医療が文化であることを見逃してしまうと、つまり、客観的な鳥の目ばかりが先行して、個々の生活から見た虫の目の視点が忘れ去られれば、新しい医療技術によってかえって医療現場が混乱するか、または、いくらお金をつぎ込んでも日本の再生医療技術がバブルとなってしまうか、そのどちらかであろうと思う。いや、その両方なのかもしれない。
 私の言は、いわば机上の空論である。富和先生のように現場から語られた医療文化には、事実の説得力がある。
posted by トミタ ナオヒデ at 12:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月24日

竹山聖先生「ぼんやり空でも眺めてみようか」

 先日、桂校舎に向かう学バスの中で有名な建築家の竹山聖先生とお会いして、学生の指導現場などを見学させていただく事になった。先生にお会いしたのはまだ3回目だが、とても印象の深い方である。竹山先生とお話をしていると、私は子供ようになってしまって、つい失礼な事を口走ってしまう。その失礼の内容は後述するとして、その時にご紹介いただいた竹山先生の著書「ぼんやり空でも眺めてみようか」の感想を書いておきたい。
 竹山先生と私は、行動においても考え方(特に「生命観」)においてもまったく異なっている。共通しているのは世代くらいであろうか。私たちの世代は、古い価値観や社会悪を次々に弾劾していった団塊の世代を兄貴分に持っている。兄貴たちは、強い信念と論理を持って私たちに影響を与え続けてきた。私たちは兄貴分たちに尊敬の念を感じながらも、いや待てよ、と首をかしげてしまうところもある。それは私たちの年代が思春期の頃に経験した兄貴分たちの学生運動や様々な社会事件が、信念の裏にある弱さ、重さの裏にある軽さ、善の裏にある悪、といった両価性を象徴していて、強い信念や行動規範を持つことに躊躇を感じるからなのかもしれない。
 竹山先生はとても嫌がると思うが、この本「ぼんやり空でも眺めてみようか」の中で最も私の印象に残ったのは「おしゃれ」という言葉である。竹山先生自身が肯定して述べた言葉ではない、建築家として名声を得ていた先生が京都大学から誘いを受けた時のお話だ。「○○さんは決して京大がよいところだとは言わなかったし、ぜひにとも言わなかった。東京でおしゃれにやっている建築家が京都くんだりまで落ちてくることはないと思うんだけどね、まあ考えてみたらどう、断ったなら断ったなりに君らしい生き方なんだ、とみんな思うから、、」といったふうに誘われたという。竹山先生を「おしゃれ」と評したこの人は、様々な思いをこの言葉に込めていたに違いない。実を言うと、私がはじめて竹山先生にお会いしたときに感じた印象も、この「おしゃれ」だった。「おしゃれ」は団塊の兄貴分たちが直接に否定した価値観ではなかったけれども、私たちの青春時代にはおしゃれであることにも何らかの理屈が必要だったのである。時代が変わって、何事にも重量感を臭わせていた団塊の兄貴分たちも、今やそうとうに軽い「おしゃれ」を楽しんでいる。けれども、竹山先生は未だに「おしゃれ」の意味を探り、また迷いながらながら「おしゃれ」であるように、私には思える。
 「おしゃれ」と評されることを竹山先生は好まれないだろう。けれども、たとえば大学の静かな通路で女子学生と笑顔を交わす先生の立振舞や、様々なエピソードから感性を伝えていく先生の文章のスマートさは、やはり「おしゃれ」なのだ。ただし、竹山先生の発散している「おしゃれ」は、ただ流行に乗るといった軽さはではなく、また決して重圧的でもない。「ぼんやり空でも眺めてみようか」という本のなかで私が感じたのは、軽くもない重くもない、強く主張しているわけでもなく弱く流されているのでもない、そうして、良いのでもなく悪いのでもない両価性の「おしゃれ」である。
 ただし、生体工学の研究者である私は、建築家である竹山先生のものを見る目の時定数の長さを全く理解していないのかもしれない。たとえば、ピラミッドもエッフェル塔も東京タワーも、もし私が建設当時のそれらをその時代人として見ていたならば、時代の権力と虚栄心を反映した毒々しささえそこに感じていたかもしれない。けれども現代の私はそれらに美しさと懐かしさを感じている。竹山先生が建築家として対峙している「おしゃれ」は、私が刹那的に感じ取っている「おしゃれ」とは全く時間の感覚が異なっているのかもしれないのだ。大きな時の流れの中で見る形や人の動きは(ちょうど早回しの映画を見るように)全く次元が異なっていて、その視点から見れば「両価性のおしゃれ」などと私が表現した内容は一瞬の泡沫にすぎないのかもしれない。
 ともあれ、よく知らぬ事に対してもしゃあしゃあと意見を述べてしまうのが私の欠点だろう。学バスの中でお会いした後に竹山先生の研究室を訪問させていただいた時、竹山先生は学生たちの卒業制作案を重く押さえつけるでもなく、また軽く受け流すでもなく、ひたすら審査時のプレゼンの方法を指導されていた。今にして思えば、それは刹那的な価値観を押しつけないための手段だったのだろう。独創性を持ったプロの建築家を育てようするその現場で、私はその時に感じたままの素人の感性を学生にぶつけてしまったり、また、むやみに褒めたりして、要するに泥玉をたくさん投げつけて帰ってきてしまった。「ぼんやり空でも眺めてみようか」を読ませていただきながら、そのことに思い当たり、顔から火が出る思いだった。
この文章の最初に、「竹山先生と私とは行動においても考え方(特に「生命観」)においてもまったく異なっている」と述べたが、その感性の違いは竹山先生の持っておられる視点の時定数を知り、また、私の中にある「美」の意識をもう少し探索してみてから言葉にすべきなのだろう。その上で「ぼんやり空でも眺めてみようか」を読み返せば、様々な意味を新たに発見できるにちがいない。まだまだ、じっくりとこの本を楽しむことができるのだ。


posted by トミタ ナオヒデ at 17:42| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月10日

学生と先輩との交流会

本日、京機会(京都大学機械系同窓会)の交流会がありました。「学生と先輩との交流会」はすべて学生たちが企画運営をします。今年は、各企業の若い卒業生たちが5社ずつパネラーとなって学生たちとパネルディスカッションをする企画が行われました。司会や進行もよかったのですが、なによりも卒業生たちも学生たちもみな本音、本気で議論していた点がすばらしかった。この若いエンジニアたちのもの作りや社会貢献にかける意気や、学生たちの迷いやエネルギーなどは、ぜひとも高校生や中学生にも聞かせたい、と感じました。
posted by トミタ ナオヒデ at 20:44| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月08日

なんのために勉強をするのだろう

「なんのために勉強をするのだろう」と題したこの文章を書いたのは、ハワイで行われた医療関連の学会の夜でした。懇親会の喧噪を避けて海岸に夕日を見に行くと、この文章の最初に書いたように、大きな木の小枝で、本当に小鳥たちがおしくらまんゆうのような動作をしていました。寝ころんでいた私の脚に小鳥が寄ってきたのも本当です。

 特に意図があって書いた文章ではありません。私が臨床医をやめる前に、アルバイトで勤めていたある高級老人病院での経験が影響しているのかもしれません。そこでは、元社長、元裁判官といった人たちがベットに寝たきりになっていました。今と違って、当時は失われた機能を少しでもサポートするのが良い看護だとされていたので、金銭に恵まれた人ほどかえって早くに自立を失ってしまいました。かつて知性の窓口になっていたであろうその目と表情はうつろになってしまっていましたが、しかし、それでも目の光の奥には今も知性が隠されているのだ、と、そう思いたかったのかもしれません。

 蛇足ですが、創造性とは、頭の中に蓄積している「しくみ」と目の前にある「しくみ」との類似性を発見することに始まる、と私は考えています。表向きの教育成果は「いかに物事の違いを正確に知っているか」でテストされますが、私は個人的には「いかに物事のしくみの類似性を発見し、そのしくみを使って予測し、行動に結びつけることができるか」が本当の教育成果だと考えています。物事の違いを正確に言い表したり、物事を広く知る能力、そうして行動力は年をとると急速に失われますが、いったん得た物事のしくみや知恵は、どんなに年をとっても、認知症になっても寝たきりになっても失われないのだ、と私は信じたいのだと思います。

 しかし、すべてが幻想の世界の出来事です。











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posted by トミタ ナオヒデ at 11:20| 喫茶室(創作、笑い話、その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月10日

機能設計から生体環境設計へ 「安心」を育てる科学と医療(丸善)

再生医療、生体材料などの開発研究の経験をご紹介し、生体の機能を「作る」のではなく、「育てる」ための方策を読者との対話形式で探っていこうと意図しました。本の各所に読者の意見を書き込む欄を設けてありますが、しかし、やはり本という形式の中では対話は難しいようです。おそらく読者の本には、私の思い込みに対するさまざまな批判が書かれているのだろうなあ、と想像ますが、それ読むことはできません。
posted by トミタ ナオヒデ at 08:50| 著作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月10日

あえて狭い視点から

「文芸春秋」1000号記念佳作賞論文(1994年)
テーマ:地球新時代の日本
「あえて狭い視点から」
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posted by トミタ ナオヒデ at 13:47| 論文調の独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

科学では解決できない問題について

出版した本の原稿の一部です。不勉強 のために
似非科学的になってしまって後悔しています。

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ちゃっちゃんの遊園地

「ちゃっちゃんの遊園地」
(ゆみる出版.ISBN: 4-946509-33-X)2003年出版

 「憶える」ことによって、ものごとの違いを見分ける知性が始まります。しかしそれだけではなく、「忘れる」ことによってものごとの類似性を知る知性が始まります。忘れた対象を探し出そうとする推理には、ものごとの「しくみ」が必要であり、そこから、目には見えない類似性を知ることができるからです。
 「憶えること」と「忘れること」のどちらも、つまり、違いを見分けることと類似性を知ることのどちらも人間の知性にとって必須の作用ですが、この本では特に後者の意味を探ってみました。本では、忘れっぽい子供「ちゃっちゃん」に登場してもらっています。

 客観性を要求される研究においては、「憶えて違いを見分ける知性」が必要とされる場合が多く、また、こころを扱う芸術分野では「忘れて類似性を知る知性」が必要とされる場面が多いようですが、この二つの作用は決して単独では意味を持ち得ないことを、この本では主張しています。様々な方々から反響をいただいていますが。
http://www.yoshimotobanana.com/cgi-bin/diary/diary.cgi?yy=2006&mm=01
には、作家のよしもとばななさんが感想を書いてくれています(よしもとばなな公開日記(2006.01.30)。叶恭子さん、って誰だろう。作家だろうか?と調べてみて、びっくりしました。

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posted by トミタ ナオヒデ at 13:40| 著作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

実用化研究にボランティア精神を

The Division, 巻頭言(予定)

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posted by トミタ ナオヒデ at 13:36| 論文調の独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「摩耗の問題」

再生研時代に書いた、わらいばなし、、のつもりです。
剣道のお師匠、E殿。申し訳ない。



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posted by トミタ ナオヒデ at 13:34| 喫茶室(創作、笑い話、その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

未知要素を含む系における信頼性

「デー タの信頼性と人の距離」に関する論文調の独り言です

「 実用化研究においてはあらゆる場合を想定した評価が必要であるが、実際には実用における状況の再現と完全な定量評価は不可能である。未知の要素を含んだまま高い信頼性を得るための科学的な試みはいろいろと模索されているが、この点においては未だ職人技術の域にまで達していないのが現状である。本論文では医療福祉分野を例にとって、まず信頼性獲得における「職人技術」の重要性、さらに「人の距離」と「共感」の果たす役割を考察し、次に「心の距離」の持つ意味を私的な立場から探ってみたい。・・・続きを読む
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ぶつぶつぶんつう

崩壊寸前のボランティア活動の紹介です。

「文章を読んでいただく前に、同載しました1枚目の写真を見ていただきたいと思います。これは医師会報から転載させていただきました写真で、母親に抱かれた子供が今まさに注射を受けようとしているところです。母親と女医さんとの間には信頼し合った実に和やかな雰囲気が感じられますが、抱かれている子供は阿鼻叫喚の面もちです。病院における治療は医師と患者の了解の上に成り立ていますが、それはあくまで大人の世界のことであって、子供にとっては不条理以外のなにものでもありません。・・・ 続きを読む
posted by トミタ ナオヒデ at 13:21| 論文調の独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
京都大学 工学研究科 機械理工学専攻 医療工学分野(医学研究科 生体工学分野) 
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いちご会